2019

透は山荘を出て、その周囲の散歩に出ていた。『敷地内』に滝があると聞いたからだった。

緩い上り坂になっている百メートルほどのけものみちを歩けば滝にたどりつくと言われて、彼はひとりで行って見ることにした。ひとりで気兼ねなく周囲を探索したかったという、単純な理由だったが、葉子によると、その滝の上の崖までが、彼女が所有しているこの別荘の敷地なのだというので、そのスケールを、自分の目で、彼女の解説無しに見てみたいというのが、単独行動の大きな理由でもあった。

顔に引っ付くクモの巣をかき分けながら、その道を進んでいくと、近ずくにつれて、水が滝壺に落ちていく音が大きくなっていった。

突然、目の前に滝が現れた。水量はそれほど多くはないが、高さは、10メートル以上はあるだろうか、その予想以上の高低差にしばし言葉を失って、その流れを呆然と眺めていた。私有地にこんな滝が流れていることがあるなんて、考えたこともなかった。

滝壺からの川の流れがどうなっているのか、透はその流れを追ってみた。川は別荘の方に向けて流れていくのだが、しばらくして、不思議なことに、その流れが、地中に吸い込まれ、川が消えてしまうのだった。彼が来た道と川の流れは、少し離れていたので、来るときにはそのことに気付かなかったのだ。

透は再び滝の前に戻り、時間を忘れて、その光景に見入ってた。そもそも、彼は滝というものを、これまでほとんど見たことが無かったし、こんなに近づいたことも無かった。見ているだけで、彼が今現在抱えている疑念やわだかまりが、少なくともこの場では、きれいに洗い流されていくように思えた。

「こんにちは、麦田徹さんね」

背後からそう呼ぶ声がしたので、振り返ってみると、ひとりの見知らぬ女性が立っていた。

「こんにちは、麦田透です」

「あら? 突然だったから、驚かせてしまうかなと思ったけれど、あまり驚いていないみたいね」

「あ、いえ・・・・・・。ここで人に会うことを想定していなかったので、どう対応してよいかわからなくて、茫然としているだけです」

「母から、貴方のことを聞いて、ここまで来てみたのよ」

「母?」

「自己紹介が遅れてごめんなさいね。私、太田美南といいます。そう、実は千代崎葉子の娘なんです」

意外な登場人物であることは間違いなかったが、小柄な体のどこにでもいそうな中年女性に見えたのと、とはいえ、上品な雰囲気を漂わせ、豊かな生活を送っているようにも思え、そのような点が、初対面にもかかわらず、彼に安心感を与えていた。葉子とは、あまり似ていなかった。もちろん、葉子に娘がいることなど、まったく知らなかった。

「彼女に家族がいたことは、初めて知りました」

「母が貴方に何も話していないというのは、どうも本当のようね。お会いしていきなりこんなこと訊くのは失礼なことは重々承知しているけれど、貴方は、あの人がどういう過去を持っているのか、知りたくなかったの?」

「いえ、ちっとも失礼なことなどありません。そうですね・・・・・・、僕は今の彼女しか知りませんし、彼女の過去には、それほど興味もありませんでしたから。でも、知りたくないわけではないのです」

そう言いつつ、透の脳裏にあの絵が浮かんでいた。太田美南に言った通り、葉子の過去に興味がないわけではなかった。あの絵は、必然的に、見る者を葉子の過去へと導いていく。彼には、彼女の過去を知ろうとする心の決意がなかっただけ、つまりあの絵と向き合う勇気がなかっただけなのだ。結局、あの絵を見たのは最初の1回だけだった。それ以降は、近寄ることすらできなかった。

「それ、本心?」

「ええ」

二人の間を、高原特有の冷たい空気が通り抜けた。

「そう・・・・・・。おかしいわね。私が来たことで、貴方を驚かすんじゃないかと気にしていたんだけど、寧ろ私のほうが、驚いているんだから」

「すいません、そういうつもりじゃないんです」

「いいのよ、気にする必要はないわ。でも、ちょっと話を聞かせていただきたいわ。そのあとで、私からも、母のことをお話するわ」

「ええ、わかりました」

「あら、あのベンチ、まだあったのね、私が子供の頃に、使っていたものだと思うわ。座れるかしら」

そういわれて、透も初めてそのベンチの存在に気付いた。滝壺から少し離れ、雑草の陰に隠れて、古いベンチが置いてあったのだ。透は太田に促されてベンチに座ったが、その際、彼女は自分のハンカチを座布団替わりにしていいと彼に勧めたが、透は丁重に断って、じかに腰掛けた。

「私は今朝、車で到着したのよ、母がひとりで部屋にいたわ。約束はしていなかった。突然訪問したんだけど、母は貴方以上に、落ち着いていたから、それも驚いたわ。麦田透という、貴方という人が、母と一緒にこの別荘に滞在していて、今ちょうど滝を見に行っていると、教えてくれたのよ。母は行かないと言ったので、私はひとりでここまで来たの。だから、貴方と私の二人だけで話すことになるけれど、母からは、包み隠さず話していいと許可を得たから、貴方も率直に話を聞かせてくださいね。私、身分偽ったりしていませんから、信じてくださいね」

「わかりました。もちろん疑ってなんていいませんので、安心してください」

そして、自分の簡単な経歴と、葉子と知り合って、この山荘にやってきた経緯について、透は美南に説明したのだが、あまりにも簡単に話が終わってしまったので、自分でも拍子抜けするくらいだった。自分が彼女の絵を描いていることについては、明言しなかった。意識からなんとか振り払おうとしても、あの絵の存在が、彼自身が絵を描くということ、そして、それについて言及することを、著しく妨げていた。

「話してくれてありがとう。じゃあ、今度は私の番ね。母の実家は資産家で、この山荘と土地も、母は実家から相続したの。父は母より十歳以上年上で、形としては、婿養子に入ったのよ。私は、母が二十二歳のときに生まれたの。おそらく、ひとり娘よ」

「おそらく、ですか?」

「そう、おそらくね。というのは、母は、私が八歳の時に、私たち家族を捨てて、家を出て行ったの」

「え? そんなことが・・・・・・」

「父と私は二人だけで残され、家庭としては壊れてしまったけれど、父は医者で、幸いにして、経済的には崩壊することはなかったわ。その後、私も医者になって、今は東京の病院で働いているわ」

「何故お母さまは家を出たのですか?」

「男よ。自分よりも一回り近く若い男とできちゃって、駆け落ちしたの。わたしはその時はまだ子供だったし、詳しい事情を聞くことはなかったけれど、その後、徐々にではあるけど、母のその時の行動のことは嫌でも耳に入ってきたわ。ま、一般的には、母が別の男と、子供を置いて出て行ってしまうって、子供にとっては、最低の母親、ということになるのかもしれないわね。私としては、どうだったかな・・・・・・。でも、私も意地っ張りな性格だから、母に戻ってきてほしいとはちっとも思わなかった、というか、思わないようにしたし、会いたいとも、決して口に出すことはなかった。でも、本当は会いたいと思っていたのかな? 今となってはわからないわ」

「そのお気持ちは、わかるような気がします」

「ほんとに? まあいいわ。話を進めるけれど、私が二〇歳になって、母から手紙が来たの、それまで音信不通だったのにね。迷惑、というのが、最初の気持ちね、記憶の片隅に追いやっていた、母の姿が、また蘇ってくるのは、とても苦しかったわ。諦めていたもの、消し去ろうとして、実際に殆ど心の中から消し去っていた母という実体が、手紙という形ではあるにせよ、不意に私に襲い掛かったのだから」

「その手紙、読んだのですか?」

「ええ、昨日ね」

「昨日、ですか?!」

「そう、三〇年経って、初めて開封したの。その経緯については、ちょっと恥ずかしい告白が必要なんだけど・・・・・・」

「もちろん、他言はしません。お母さまにも・・・・・・」

「ありがとう、貴方、口は堅そうよね。でも、別に隠すつもりもないから、正直に話すけれど、私も、かつて自分の家族を捨てて、若い男に走ったのよ。その彼、小説家の卵だったんだけど、結局、その卵は付加することなく朽ち果てていって、先週、亡くなったわ。出会ったときはすごい才能だと思って、作品も素晴らしいと思ったわ。でもちょっと難解だったから、すぐには受け入れられないことは分かっていたし、本人もそのつもりだった。でも全然芽がでないから、次第に迷いが生じてきて作風も初期の頃とは比べ物にならないくらい、安請け合いを狙った、薄っぺらなものに落ちていった。でも、私には気丈にふるまっていたんだけど、そんな強がりも心身ともに限界が来たみたいでね、ついに力尽きたのね」

「伺いにくいことなのですが、自殺、ということですか?」

「それは、御想像にお任せするわ。彼の名誉のこともあるし」

ふたりは長い沈黙に入った。しかし、カッコウの泣き声と、滝の音が、沈黙の気まずさを、良い意味でかき消してくれた。

「結局、私も同類だったのよ、母とね。自分があの男に走った時は、自分は母とは違うと思っていたわ。私には、彼の芸術を理解しているから、彼と行動を共にするんだという、今から思えば、全く自己満足でしかない大義名分で、心の中が満たされていたのよね。きっと母にだって、あの人なりの理由があったんじゃないかなぁって、ちょっと思ってしまってね。詳しくは知らないし、知りたくないけれど、その男、若い画家だったみたいなのよ。そういう意味では、私もまったく同じパターンなのよね。結局、今の私には、仕事しかなくなってしまった。それだけでも幸せなのかもしれないけれど、自分の人生を総括するという意味で、母に会ってみたくなったのよ。それで、母から来た手紙のことに話を戻すけど、この別荘に住んでいるから、いつでも来てくださいと書いてあったってわけ。三〇年も前の手紙を頼りにするしかなかったから、本当に今でも住んでいるのか、来てみるまでは不安、というか、まさかそこの母がいる可能性のほうが、はるかに低いと思っていたから、母が目の前に現れたときは、本当に夢でも見ているのじゃないかと思ったわ」

「お母さまとは、どのような話をされたのですか?」

「私が突然訪ねてきても、あの人は冷静だったわ。嘘みたいにね。あら、久しぶりね、ですって。笑い出しそうになったわ。少なくとも、今の私が自分の娘だということがすぐに分かったのは、大したものだと思ったけれどね。もっとも、私のほうも、あ、このご老人が、私の母だった人だったんだ、って感じかな、ここへ来た時の意気込みはどこへやら、話をするのも馬鹿らしくなってきて、結局、私は自分のことについては、ほとんど何も語らなかった。彼女も、殆ど自分のことは語らなかった。二人ともそれなりに年をとったことが分かっただけ、と言いたいところだけど、貴方の存在を彼女から聞いた時には、正直かなり衝撃を受けたわ。当初はお金目的で近づいてきた男なんじゃないかと思ったわ。」

「そんなことは決してありませんが、話だけを聞けば、そう思われる人もいるかもしれませんね」

「貴方を見た瞬間、悪い人ではないとは思ったわ。でもそれは貴方のこれからの行動次第だと思いますけど・・・・・・。ということで、ちょっと釘を刺しておくわ、ごめんなさいね」

「いえ、自分の方こそ、そう思われないように気を付けます」

「私のことで、今貴方に話したことは、母に秘密にする必要はないわ」

「でもやっぱり、私からは、先生から聞いた話をお母さまにすることはないと思います」

「貴方について詳しく聞くつもりはないけれど、一つだけ教えてほしいわ。貴方、本当に母のことを愛しているの? 女として」

「愛しています」

彼女は少しだけ微笑んだように見えたが、すぐに真面目な顔つきに戻った。

「わかったわ。では、これで帰ります。あ、それから最後にこれを貴方に預かっていただきたいのよ。これは、私の父親が私にくれたものなんだけど、母と再会した時に、一緒に聞いてくれと言っていたわ。父は、何年か前に亡くなって、その真意を訊くこともできなくなってしまったのだけど、今日これを、母に見せて、一緒に聞いてみようかと思っていたけれど、なんかそんなことを言い出すこともなく、家を出てしまったから、結局聞くことも渡すこともできなかった。だから、貴方にお願いしているの、御迷惑かもしれないけど、これをどうするかは、貴方が決めていただいて結構よ。でも、来てよかったわ、貴方に会えて。もう二度と会うことはないと思うけれど、母のこと、よろしくね。さよなら」

透は手渡された、外装が透明だが、それが黄ばんで汚れたカセットテープを見た。やはり黄ばんで所々黒ずんだラベルが張られていて、今から40年近く前の19〇〇年〇月〇日というラベルが貼られていた。

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