2019

山荘に来てから1週間が過ぎようとしていたその日、麦田透は東京に戻っていた。『目的』のひとつは、東京での生活の後片付けのためだった。

透は東北のある小さな町から東京の大学に入学して、アパートで独り暮らしをしていた。地元の国立大学医学部を受験したが、不合格になり、後期試験で東京の国立大学の工学部に合格した。浪人しようかとも考えたが、浪人しても合格できる自身はなかったし、家庭の経済状況を考えて、六年間地元の医学部に通うのと、都内の大学に下宿して四年間通うのでは、どちらが経済的負担が少ないかを計算したところ、地元とはいえ、やはり下宿が必要な医学部進学の方が高くつくことがわかり、諦めることにした。

生活費は何とか自分で稼ごうとして、バイトをいくつか掛け持ちした。それだけが原因ではないが、次第に、肝心の学業の方がおろそかになっていった。そもそも、選んだ進路に興味があったわけではないことは重々承知して、その道を選んだわけだが、周りの同級生や先輩たちは、それを希望して進学した学生がほとんどだし、彼らの学問に対する真摯な態度を見ていると、自分の中途半端な態度が情けなくなって、ますます学業から距離を置くようになってしまった。

そして、デッサン会での葉子との出会いが決定打となり、彼は東京での生活を、無期限放棄する決意をしたのだった。

借りているアパートの解約やバイトの契約解除など、生活の痕跡を消すための雑務は、意外に多いし煩雑だった。しかし、大学を退学することは憚られた。東京での生活の痕跡を消す作業については、もちろん実家の両親には一言も相談していなかった。今は夏休み期間であるにも関わらず、バイトが忙しいという理由で、帰省を拒否していた。

いずれにしても、元の生活に戻るつもりはさらさらなかったから、退学でも何ら変わりはなかったが、休学届を出すにとどめることにした。いきなり退学まで踏み切るだけの勇気が無いだけといえば、それまでのことなのかもしれないと、彼は投げやりな自己判断を下していた。

そして、東京に来たもうひとつの目的が、栗田夕貴と会うことだった。先日、葉子の運転する車で麓の街に出て買い物をしているときに、彼のスマホに着信があったのだが、それが夕貴からのものだった。山荘では、スマホの電波が入らないため、時々こうして街に出て、着信状況を確認する必要があった。夕貴は一度会って欲しいという内容のメールを送信していた。彼はいつものファミレスで会うことを約束して、その結果として、再び東京に出てきたのだった。

夕貴とは、以前交際していた、という言い方が正しいだろうか。彼女とは、高校時代の同級生であり、ともに美術部員で、透が部長で、彼女が副部長だった。

ふたりは、高校時代は交際していなかったが、別々ではあるが、お互い東京の大学に進学することになり、新学期早々から半同棲生活の状態となっていた。今から思えば、初めて親元を離れた不安、孤独、そして自由が、ふたりを引き寄せただけなのかもしれない。

しかし、目標を見失った、透の腰の定まらない生活が、ふたりの関係に悪影響を与えた、最大の原因だと、透は思っている。夕貴との生活においても、明確な目的や未来を思い描いてたことは、全くなかった。些細なことで喧嘩が重なり、すれ違いから、最近四ヵ月は、殆ど会ってはいなかった。

そんなわけで、たしかに夕貴との不仲の原因は、自分自身にあるのではあるが、葉子と知り合ったのはその後なので、葉子との関係が、夕貴との関係を直接的に悪化させたわけではない、と思うことにしていた。

モデルのデッサン会に参加したのも、透なりに、それを生活再建のきっかけとしたかった、それが最大の理由だったかもしれないが、そうと断言できるだけの自信もなかった。

そのデッサン会で、そこに参加していた千代崎葉子に出会った。同一モデルを、2週続けてデッサンする会だったので、彼女とも2週続けて会で同席し、2回とも席が隣になった。その2回目の会が終了した後で、初めて二人で会い、その時に、彼女に山荘に来ることを誘われた。そして、その山荘で、彼女自身をモデルとして描いていいと言われたとき、その提案に困惑したのは間違いないが、それ以上に、彼女の存在を、既に素直に受け入れていたことに、自分自身で驚いていた。

その結果として、今の彼の境遇が生じている。そして、彼女の裸体画を描くことが、彼の滞在の最大の目的なのだが、1週間たっても、ほとんど進捗は見られなかった。あの裸体画を見た後では、やはり絵を描く気力が著しく減退していることは、間違いなかった。

葉子にとって、透を山荘に誘ったひとつの目的が、あの裸体画を彼に見せることだったのは、まず間違いないように、彼には思えた。それが彼女にとってどのような意味があるのかは、今の彼には分からなかったが、まずは、彼が彼女の誘いを嫌がらずに承諾するだろうと判断したのだろう。ただしそうだとしても、彼としては、別にそのことで気分を害したりすることはなかった。寧ろ『招待』してくれたことを嬉しく思っていた。そして、さらに重要なことだが、彼女が彼を、あの絵を見せるにふさわしい相手として選んだということだ。それが、彼を選んだ理由を解明する最大の鍵となるだろうとは、漠然とではあるが、理解していた。

彼女は自分のことを、誠実すぎるといっていたが、それも理由の一つなのだろうか? それは、彼が『招待』しやすいキャラだったということを、婉曲的に言っただけなのだろうか? そして、自分が自分自身を愛そうと努力しているとは、どういう意味なのだろうか?

そして、先日葉子から聞いた、柏葉均との出会いが、自分が葉子と知り合って、この山荘に来た状況と、極めて似ていることは、当然ながら透も気付いていた。ただし、その後彼女から均の話は聞いていない。彼の方から話をせかすことはしなかった。無理に語らせようとしても、本当のことは語ってくれないだろう。彼女が自発的に続きの話をしてくれるのを、待つよりない。

これから夕貴と会おうとしているのに、透が考えるのは、葉子のことばかりだった。

ふたりが再会した場所は、透の下宿近くの、行きつけのファミレスだった。久しぶりに会った夕貴を見て、急に大人になったように感じられて、透は戸惑い、より一層肩身が狭い思いを抱いた。

「よかった、元気そうで」

「いや、君の方こそ」

「ごめんね、急に呼び出して。」

「いや、こっちこそ、連絡しないで悪かったよ」

連絡ができなかったことに関しては、精神的な問題以前に、山荘には固定電話がなく、スマホの電波も入らないという、物理的な問題のせいなのだと、透は心のなかで自分に言い訳を繰り返していた。

「そうだよ、みんな心配しているよ」

「みんなって?」

最近、夕貴は東京で、同郷の友人三人と会ったことを話した。その中で、当然のように、透のことが話題になった。二人が付き合っていることは、彼らの中では既成事実だったからだ。ただし、二人揃って彼らの前に姿を現したことはなかった。透は夕貴以外の同郷友人とは、距離を置いていた。その理由は、彼が東京での生活を放棄しようとしていたことと、ほぼ同じだった。

夕貴は、その会合に出ていた友人三人の、現在の動向について、一人ひとり説明し始めた。彼らのポジティブ(に思える)な現在の生活状況を聞けば、自分の状況が卑屈に思えてしまうので、聞きたくもなかったが、透は辛抱強く黙って聞いていた。

そんな中で、透が最も危惧していたのが、彼の近況が、このような関係者達の噂話から、両親に伝わってしまうことだった。

「でもみんなには、透、最近すごく忙しいみたいなんだ、勉強とか、バイトとかいろいろね、って感じで、適当にごまかしておいたから」

「悪いね、気を遣わしちゃって。それに、みんなの様子が少しわかって、懐かしい気分に浸れたよ。」

「あ、ごめんね、話がそれちゃって。今日はちょっと話があって、会って欲しかったんだ・・・・・・」

「いったい、どうしたっていうの?」

夕貴はティーカップを口に運び、一呼吸おいてから、透の目をまっすぐに見ながら言った。

「実はね、ちょっと言いにくいんだけど、できちゃったみたいなの」

「え、何が?」

「赤ちゃんが」

「え?! そ、それは、本当なの?」

「本当よ」

透は下を向いて、長い時間沈黙した。予想外の展開に、言葉が出てこない。この場から逃げ出したい衝動に駆られたが、体も動かなかった。

「ねえ、何か言ってよ」

「あ、いや・・・・・・、で、どうするの?」

「それは、私が先に答えることじゃないよ、透、あんたが先に答えなきゃいけないんじゃない? どうしたいかって」

「それは、まあたしかにそうなんだけど、いきなりだったものだから、どう答えていいのか、全く分からないよ」

「うれしくないの?」

「お下げしてもよろしいいでしょうか?」

店員が不意に声をかけてきたので、透は驚いて座っていた椅子から飛び上がりそうになったが、店員は無表情に食べ終わった皿を手際よく下げ、あとには水の入ったグラスだけが残った。

「嬉しいとか嬉しくないとか、そんなこと言えないよ。僕らはまだ学生だし、とても育てられないよ」

「じゃあ、堕ろせって言うの?」

「そうは言っていないけれど、でも・・・・・・」

「じゃあ、生んでいいの?」

「とにかく、もう少しだけ、時間をくれないかな」

「でも、もう時間がないの、もうすぐ4カ月だから」

「もっと前に言ってくれれば・・・・・・」

「でも、貴方が姿を消して、連絡も取れなくなったから、私もどうすることもできなかったんだよ」

「それは、さっきも言った通り、申し訳ないと思っているけど・・・・・・」

「なんで連絡してくれなかったの? どこに行っていたの?」

「言いにくいけれど、ある人の家に居候していたんだ。それが八ヶ岳の麓にある山荘で、固定電話もスマホの電波も入らないところなんだ。先日君からの着信が確認できたのは・・・・・・」

「ある人って?」夕貴は透の発言を遮って言った。

「実は、いま付き合っている人がいるんだ」

「それ、本当なの?」

「本当、だよ。先月から、付き合い始めたんだ。だから、今後は君に会うことは出来ないと、思っていたところだったんだ・・・・・・」

「そうなんだ・・・・・・。本当ならひどい話だね。わたしは、透と別れたつもりなんてなかったのに」

透は、はっきりとは言ってはいなかったが、夕貴とは別れたつもりでいた。

「私は、透のこと、好きだったよ、ずっと、高校の時から、だから、一緒にいてくれるだけで、嬉しかった」と夕貴は目を潤ませながら言った。「でも、貴方は、私が貴方のことを好きなほどには、私のことを好きじゃない。ううん、興味が無いと言ったほうが正しいのかも。自分自身にしか興味がないのよ。はっきり言っちゃって悪いいけど、自己評価が低くて、自信もないのにね、でも、これまでは、最低限、他の女性の影を感じることはなかったから、私もその点での不満は自分のなかで飲み込んでいたのよ」

「君の言うとおりだろうね。でも、今君の話を聞いて、どうすればいいのか、本当に分からなくなってしまった」

「相手は誰なの?」

「おそらく、君の知らない人だよ。付き合いだしたのは、つい最近になってからなんだ」

「教えてほしいわ、どういう人だか、何をしている人なの?」

「以前は医療事務で働いていたこともあったらしいけれど、今は、たぶん何もしていないと思う。」

「もちろん、独身よね?」

「いや、今は、独身、なのかな? たぶん、そうだと思うけれど、以前は、結婚していたかもしれない」

「そうなのね・・・・・・。ということは、年上なんだよね、透らしいよ、年上の女と付き合うなんて。で、何歳なの、その人?」

「七〇歳くらいだと思う」

「え?」

「ごめん、正確な歳は、訊いていないんだ」

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