1979
デッサン会が終わって、葉子はそこに参加していた、柏葉均という若い男に声をかけ、その後二人はレストランで食事をしていた。二人が会話を交わすのは、この時が初めてだった。
葉子は自分のことを、意図的にではないが、結果的に、一方的に話した。自分が小さい時から絵が好きで、絵の勉強をしていて、絵画の道に進もうとしたが、いくつかの事情でそれを断念したこと、それでも趣味として絵画作成を続けていて、こうして時々デッサン会に参加していること、好きな食べ物や、よく見るテレビ番組や、よく聞いている歌手のレコードなど、脈略なく、思いつくままに、ゆったりとしたペースではあるが、話し続けた。それを、均は、嫌がる様子もなく、時々頷きながら、聞き役に徹していた。
随分長いこと、自分だけ話続けてしまった。自分がこんなにおしゃべりだったとは思わなかったし、そのことに、葉子は自分自身で驚いていた。それにしても、この人、どこを見ているのだろう? と、葉子は不思議に思った。彼は彼女の話を静かに、そして、確かに、彼女の眼を見て、聞いているように見えた。しかし実際には、彼の眼は彼女を見ていなかった。その視線の焦点は、彼女よりも先にあるようだった。そして、喜ぶでも嫌がるでもなく、淡々とした表情で、彼はそこに座っていた。痩せた体に、細い顎が、若さを感じさせた。そして、その瞳は、彼女ではない何かを見つめて、薄暗く光っていた。
葉子は緊張していたが、勇気を出して本題に入るべく、彼に語り掛けた。
「あなたのデッサン、拝見したわ。写真のようにリアルな筆致で、体も髪型も、全てモデルの形体を忠実に再現している、ただし、それは顔以外。何故その顔だけが、どう見ても、モデルを再現していないのに、でもやっぱり、モデルにしか見えない、その底なしの乖離に、吸い込まれそうになった、衝撃的だったわ。貴方の作品には、対象の本質を見抜いて、それを実際の絵画として表現できるだけの技量があることは、すぐに分かったわ。結果として、その絵にはある種の予言さえも感じさせるのよ。素晴らしいわ。貴方のこと、深く知りたくなったし、もっと貴方の絵を見てみたくなった。作成の過程も含めて、ね。それで、今初めて話し合ったばかりなのに、突然で驚かせてしまうかもしれないけれど、今度は私をモデルに描いて欲しいの。だから、私の山荘に来ていただける? そこで好きなだけ私を描いていただきたいの」
「驚くなんて・・・・・・、そんなこと、あるわけありません。そのようなお誘い、とてもうれしく思います」柏葉均は長い沈黙の後でそう答えた。「千代崎さんのお話し、楽しく聞かせていただきましした。もう少しお話を聞いていたいとさえ思いました。ですので、基本的に、そのお誘いをお受けしようと思います。ただ、その前提として、いくつか確認しておきたいことがあるのです」
「それは何? 遠慮なく言って。解決できることであれば、何とかするわ。もしそれがお金の問題なら、全く気にしなくていいのよ。だって、私は貴方に絵の制作を依頼する、クライアントなんだから」
「ありがとうございます、できるだけいい絵を描きたいと思います。ただ、一つ目の懸念として、そうなると、時間がどれくらいかかるか、ちょっと分からないんです。今そう言われて、絵の構想を考えたのですが、それを実現するには、1カ月はかかるかもしれないです」
「時間のことなんて、何の問題もないわ。貴方が納得するまで、時間をかけていただいて良いのよ、もちろん、貴方の仕事や勉強に、迷惑がかからなければ・・・・・・、だけど」
「いえ、自分はバイトだけで生活しているので、時間を取ろうと思えば、いくらだって取れるんです。それでは、絵の作成に関しては、全力で頑張ります。それから、気を悪くしないでいただきたいのですが、滞在期間が長くなるので、僕も暫くそこで宿泊させてもらうことになると思うのですが、少なくとも、描き終えるまでは、男女の関係になることについては、期待しないでいただきたいのです。それは、決して千代崎さんに興味がないという訳ではないのです。あくまでも自分自身の問題なのです」
「随分はっきりとそういうこと言うのね。でもますますあなたに描いて欲しくなったわ。じゃあ決まりね」
「ありがとうございます。それと、全力で描くことは約束しますが、結果として、完成した絵を見てがっかりしないで下さい。僕は、自分自身が見ているものをそのまま書いているだけなのに、まったく違うものを描いていると言われてしまうことがあるんです。今回もデッサン会もそうでしたし」
「それは、貴方のあの絵を見ればすぐに分かることだわ。だからこそ、あのデッサン会で、私が、いえ、皆が衝撃を受けたわけだし、さっきも言った通り、貴方の絵に本質を見抜く力があると思ったのよ。だから、貴方の絵は、私を裏切らないと確信したわ。私をどう描いてくださるのか、とても楽しみだわ。貴方の準備が出来次第、早速出発しましょうね」
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