滝の行方

八月光

2019

その油彩画は、寝室の隣にある、小さな部屋に飾られていた。

この山荘には昨日の日没近くに到着したのだが、麦田透は初めての高原の別荘という体験に、珍しく気分が高揚していて、まるで初めて他人の家に来た子供のように、家の中を歩き回っていたのだったが、一階廊下の突き当りのドアは、鍵が閉められていて開かなかった。

その手前、今の隣に、もうひとつのドアがあり、閉まっていたのだが、何気なくそのドアを開けて中を覗いてみたら、そこは八畳ほどの洋間になっていた。そして、入口から見て右側の壁に、その油彩画が架けられていたのだった。

透は吸い寄せられるようにその絵に近寄り、そしてその前で立ち止まった。

不思議な絵だった。

描かれている人物は、間違いなく現在の千代崎葉子だ。大きさは、実際の人物よりやや小さい程度だから、狭い部屋に飾られていると、その大きさがむしろ際立った。ただし、全てが今の葉子ではなく、それが、不可解さを生み出している、最大の原因だった。その顔は間違いなく今の葉子なのだが、体は、不釣り合いに「若さ」を感じるのだった。

背景は漆黒で、その中に強烈に実態的な筆致の、無表情のまま、立位で少しだけ足を交差させ、両腕は上腹部で軽く腕組みをしている、そんな構成の裸体画だった。そして、その人物描写が実態的すぎるからこそ、頭部と体のアンバランスが、逆に深い亀裂となり、現実感を奪っている。

いずれにしても、プロレベルの作者による作品であることは間違いなかった。彼自身も、この山荘に来て、1週間程度の時間をかけて、葉子の裸体をデッサンして、その後油彩画にとりかかろうと予定していた。しかし、自分には、どう考えても、こんな技量の絵は描けないし、この絵の前では、自分の絵など、存在意義を見出すことなどできないと、彼はこの絵を見た瞬間に思った。

たしかに、描かれている体は不自然に若く、現在の彼女の体、それは年相応の変化を経ているのだが、しかし、全くの別人をモデルにしたものか、架空の描写かといえば、そうとは言い切れない。

というのは、左乳房のやや外側に、黒子が描かれていて、その特徴が、昨夜葉子をモデルにデッサンした際に見た、彼女の実際の体のそれと、一致していたのだ。彼自身のデッサンにも、その黒子を描いていたから、間違いない。

透が部屋の反対側に目を向けると、部屋の窓際には、小さなデスクが置かれ、その上にコップ状のガラス製の蝋燭の燭台とが置かれていて、そこに途中まで使いかけた、一本の黄ばんだ蝋燭が刺さったままになっていた。燭台の隣には、マッチ箱があり、その中には、また未使用のマッチが数本残されたままになっていた。その隣には、数十年前のものと思われる、イヤホンが刺さったままの、古い小型のラジカセが置かれていた。

「あら、こんなところにいたのね」麦田の背後から、千代崎葉子の、優しく柔和ではあるが、明瞭で聞き取りやすく、若々しい声が聞こえた。

「その絵を、見ていたのね」

透が振り返ると、部屋の入口のドアに、葉子が立っていた。笑ってはいなかった。しかし、透が絵の前で戸惑ってる、この状況を楽しんでいる感じが、彼に伝わってきた。

「ドアの鍵が開いていたから、つい入ってしまったんだ・・・・・・」

「あら、そうだったのね。いいのよ、責めているわけではないわ」

「それは・・・・・・、本心で言っているようだね」

「あたりまえじゃない、そんなことで嘘なんかつかないわ」

「部屋に入ったことよりも、この絵を見たことが、君の御機嫌を損ねるんじゃないかと思ったんだけどね」

「どちらにしても、ちっとも構わないわ、貴方だったら、ね。既に、この絵を見る権利があるわ。貴方も、この部屋で絵を描いていいのよ」

そう言って近寄ってきた葉子を、透は少女を抱きしめるように抱きしめた。

「愛しているよ」

「ホントに? 嬉しいけれど、嬉しくないわ」

「難しいこと言うんだね。でもどうしてなんだろう。会ったばかりなのに、どうしてこんな気持ちになって、そのうえ、どうしてこんな言葉が素直に言えるんだろう」

「私も、貴方を愛しているわ。貴方は、正直で誠実だわ。でも、正直で誠実すぎるのよ。だから、私を愛してはいけないわ」

「それは、そう思うのは、やっぱり、年齢が離れすぎているから? でも、寧ろそのことに対して引け目を感じているのは、僕の方かもしれないんだ」

「そうではないのよ。私のようなお婆さんがこんなこと言うのも恥ずかしいけれど。でも、逆に私がお婆さんだから、貴方は私を好きになった、いえ、好きになったと、そう思えたのよ」

「ごめん、やっぱり君の言っている意味がわからないよ」

「貴方は、私の中に写る貴方自身を愛している・・・・・・、いえ、愛そうと努力しているのよ」

その時、部屋の中で、水の流れる音が聞こえた。透としては、これ以上押し問答を続けても、気まずくなるだけだと判断し、話題を変えることにした。

「それにしても、素晴らしい油彩画だね。でもただそれだけじゃない。不思議な絵なので、ちょっと見入ってしまったんだ」

「不思議? そうかしら。でも、貴方の言う通り、素晴らしい作品であることは、間違いないわね。この絵はね、私が若い頃に描いてもらったのよ、もう四〇年以上前になるかしら」

「え? 四〇年前? でも、顔は、今の君、そのものじゃない」

「そう、昔からこんな顔だったのよ、可笑しい?」

「まさか・・・・・・。いくらなんでも、それは信じられないな。もちろん、この絵のことを悪く言っているわけじゃないよ」

「冗談よ、貴方の言う通り、もう少し若かったわね」

「どうやら、訳ありの絵のようだね。誰が描いたか、聞いても良い?」

「ええ、この絵の作者は、柏葉均というの。当時まだ二〇歳になったばかりだったわ。でもプロではなかったのよ。あくまでも趣味で描いてもらったの」

「こんな絵を見てしまっては、僕はとても君のことなんて描けないよ」

「あなたはあなたの描きたいように描けばいいわ。この絵を乗り越える、いえ、別の世界観を描き出せばいいのよ」

「言うは易し、だね。まあいいか、ふてくされていても格好悪いだけだから、頑張ってみるよ。でも、とりあえず、その柏葉という人のこと、教えて欲しいな」

「ええ、そうね、わかったわ。順序も内容も、まとまりのない話になるかもしれないけれど、それを許していただけるなら」

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