第二章 現実と真実と嘘(3)
「隅さん、鑑識上がりました」
楢岡がビニール袋に入った名刺と書類を持って帰ってきた。
隅田は書類を受け取り、ざっと目を通すと楢岡に返した。
「出たのは仏さんと吉川か・・・・」
隅田がビニール袋に入った名刺を目の高さまで持ち上げて呟く。
「部屋を貸してたんなら付くんじゃないですか?ガイシャが渡してた可能性が高いでしょう?」楢岡は特に疑問を持っていない口ぶりだ。
吉川というのは〝サントス〟のマスターである。
自称『熊凝』は見つかった時には自分の素性を示す物を何も持っていなかった。
唯一持っていたのは安物の黒い財布だけで、その中に入っていたのは現金が二万とコンビニのレシート、新山口—岡山間の新幹線切符(下車後のものだ)、電話番号らしい数字が殴り書きされた紙切れだけだった。
それが〝サントス〟の電話番号であり、隅田と楢岡は何日か前に店へと足を運んでいた。
10月6日土曜日未明、香川県高松市の路地裏で男性の死体が発見された。
頭部と顔面に打撲痕、腹部への殴打、右足首に裂傷。
直接の死因は頭部外傷。
身元不明、推定年齢20代〜30代後半。
死後数時間が経過しており、仕事帰りのバーテンに発見される。
話は三日前に遡る。
〝サントス〟へ聞き込みに行った二人はマスターの吉川からなんとも要領の得ない話を聞く羽目になった。
「沢田 義夫?」
「ええ、そう名乗ってましたよ」吉川は店のカウンターを拭きながら続ける。「自分が経営してた店が倒産してしまって何もかも失くしてしまった、手元に残った物を車に積み込んでここに辿り着いた、って」
隅田は直感的にそれが偽名だと思う。殺された時にあの男は免許証も保険証もクレジットカードも、無記名のポイントカードすら持っていなかったのだ。犯人が財布から抜き取って行ったとしても不自然過ぎる。
「その倒産した店の名前は何と?」
隅田が聞くと吉川は「さあ?」と首を傾げたままカウンターの掃除を続ける。
「言いたくないこともあるでしょう。同じ商売をしている身からすればわざわざこっちから聞きませんよ」
吉川は五十過ぎの中背中肉の男で、愛想は良かったがギョロリとした目はどこか世間に対して諦めを抱いているように見えた。掴み所がないというか、三日も会わなけれ忘れられてしまうタイプの人間だ。毎日学校に来ているのに誰も名前を知らないクラスメートのような。接客業をしている割には話の要領が悪く、だが他人と喋るのは好きだという刑事からすれば若干厄介な人間だった。
吉川は三ヶ月ほど前から「沢田 義夫」と名乗る男に部屋を貸していた。
彼によると沢田は夜の公園のベンチの上で寝ていたらしい。具合が悪いのかと思って声を掛けると流れ者だということだったので、そのまま家へ連れてきたというのだ。
着替えを数着と一般的な工具を一揃い、カメラと毛布、何冊かの本が沢田の全財産だった。
喫茶店と隣接して吉川の家があった。吉川に家族はおらず(奥方は六年前に他界しており二人の間に子供はいなかった)、納屋として使っていた小さな離れを沢田に与えた。たまに飯を食わせて欲しいと店に現れ、小銭を置いていった。ふらりと出て行くと何日も戻らないことがあったが、吉川は特に気にしていないようだった。鍵の無い離れだったので「鍵を付けないこと」を条件に貸していたらしい。いつでも様子を見に行けるという気安さから悪さはしないと踏んでいたのだろう。
吉川にしてみれば善意から寝る場所を提供していたのだ。それ以外のことも面倒を見ろと言われても無理だっただろう。何かあっても「知らない」で押し通せる状況を作っておきたかったのだ。
沢田(熊凝)は決して人好きのする顔立ちではない。どちらかというと得体の知れない不審者といった雰囲気の方が強い。何故そんな男を世話する気になったのかという問いに吉川は「一度くらいはね、『人助け』というものをしてみたかったんですよ。山も谷もない人生送ってると間が指すことがあるもんです」
隅田はこれが「魔が差す」なのか「間が指す」なのか判別しかねた。
凡庸というには少しばかり癖があるな、というのが隅田の吉川に対する印象だった。
吉川が沢田を最後に見たのは九月の末近くだったという話だった。
自分が乗ってきた車で出掛けたまま戻ってきていない、離れを覗いてみたが特に変わった様子はなかった、と。
三ヶ月暮らしていた割に生活用品が増えない人でしたね、と吉川は言う。
この男の注意力は皆無と言っていい。もし嫁が浮気していても気付かなかっただろう。念の為に離れも見せてもらったが、確かに布団とゴミ箱くらいしか目に入らなかった。おそらく見られてまずいものは全て車に引き上げていたのだろう。妙に手際が良すぎる。
偶然というのは恐ろしいもので、吉川は沢田が乗っていた車のナンバーさえ覚えていなかった。
「名刺からコーヒーの成分が出たそうですよ」
楢岡が隅田に確認するように声を掛ける。やはり喫茶店で名刺を受け渡ししたのだろう、特に不自然ではない、と言いたいのだ。
「楢岡」
隅田に呼ばれて楢岡が少し緊張したように返事をする。
「はい?」
「名刺の裏側に右手の親指の指紋が付いているだろう。それは何故だ?」
隅田の問いに楢岡は答える。
「そりゃあ裏返しにして渡したからじゃないですか?」
「お前、世話になっている人に名刺を渡す時に裏返しで渡すのか?それも一度渡したものを返してもらってるんだぞ?」
「・・・・あ」
楢岡は大きな見落としをしていたことに気付く。
〈熊凝〉と書かれた名刺は吉川から入手したものではなく、沢田と会った女性から受け取った物だ。
「見せるだけ見せて返してもらったとか?」
楢岡の的外れな推理に隅田は小さく溜息を吐いた。
「吉川に『沢田』と名乗った男がこの名刺を見せる意味がどこにある?」
「・・・・・・・・」
「いくら吉川がお人好しだといっても知らない名前の下に自分の店の電話番号が書いてあればおかしいと思うだろう。何故沢田はわざわざ吉川の指紋が付いた名刺を彼女に渡したのか、ということだ」
「それは・・・・」
言いかけて楢岡は口をつぐんだ。咄嗟に名推理が飛び出すはずもない。
隅田は諭すように言葉を続ける。
「現実と真実は違う。『男が死んだ』ということは現実だ。だがそれは『全ての人間から見た現象の名前』に過ぎん。真実というのはその硬い殻の下でじっと見つけてくれるのを待っている。『男が殺されていた』というのが真実であり、そこに至るまでの経緯全てが『真実の全貌』だ。どこかで誰かが嘘を付けば遠回りをする羽目になる。・・・・お前はもう少し時系列の組み立てを勉強した方が良さそうだな」
楢岡にとってこの言葉が長い間刑事としての指針になっていた。
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