第二章 現実と真実と嘘(2)

それは私の直感でしかなかったが、99%当たっているだろうという確信があった。

以前看護師の友人と一緒に刑事ドラマを観ていた時、気になって尋ねたことがあった。「お腹を殴られて口から血を吐くのはよく見るけど、鼻や耳からは出たりしないの?」そう聞くと友人はあっさり答えてくれた。「体内で大量の出血があると上からも下からも出る。頭部に強い衝撃が加われば鼻からも耳からも出るよ」


右側を下にして寝かされた熊凝の左頬には大きなアザがあった。そして地面にまで達した鼻血。詳しいことは分からないが、結構な力で打ち付けられたか殴られたかだ。

高い場所から転落して出来たアザだとしたら、それは死後左側を下にして落とされたということだろう。


「どこに住んでいるか・・・ですか?」

あの写真の印象が強烈すぎてもう少しで隅田の質問を取りこぼすところだった。

「いえ・・・『部屋を借りている』とは言っていましたがそれ以上のことは聞いていません」

私がそう答えると隅田は「そうですか」と感情の無い声で言った。

「名刺の電話番号へ連絡は?」

次々と質問が降ってくる。

「次の日のお昼過ぎに掛けてみました。〝サントス〟という喫茶店でした」

「どんな話を?」

「熊凝という人がいるかどうか聞きました。電話に出た男の人は『一週間近く帰ってきていない』と言っていたのでお礼を言って切りました」

「あなたは名乗らなかった?」

「はい。説明するのが面倒だったんです。お昼休憩の時間も限られてますし・・・・」

家と職場は車で五分ほどの距離だったので、私は昼休憩には毎日家に帰ってきていた。

往復十分、昼食を食べるのに二十分、五分前に職場に着くとして二十五分しかない。

「先週の火曜日に男と会ったと聞きましたが、随分と記憶力が良いようですね?」

隅田の声色が一段低くなったような気がした。言外に元々会う約束でもしていたんじゃないのか、という含みがあるのかも知れない。

隅田の顔色を見ながら恐る恐る返答をしていたが、私は段々と平常心を取り戻し始めていた。こんな細かい質問を延々と繰り返していたらいくら時間があっても足りない。

さっさと終わらせて夕食の支度をしたかった。料理下手の母に任せておくとろくなことにならない。

「あの日は借りていたビデオの返却日だったんです。10月3日の火曜日。前に返却日を忘れて延滞してしまったので忘れないようにしていました。でも返しに行こうとしたら母にお使いを頼まれて・・・」

「歩いてあの家の前を通った?」

横から口を出したのは楢岡だった。

ペンを持ったまま視線だけをこちらに向けている。

「そうです」

私が頷きながら答えると、「なるほど」と隅田は少し安心したような苦笑いを口元に浮かべた。どうやら私への疑念は晴れたようだ。

「あれだけデカい字だと老眼でもよく見える」

レンタルビデオの返却レシートのことを言っているのだろう。「返却日」がやたら大きく書かれた薄っぺらいロール紙。

少し意外だった。

「刑事さんでもビデオを借りたりするんですか?」

咄嗟に口を突いて出た言葉に「しまった」と思ったがもう遅い。どういう反応が返ってくるのか肝を冷やしたが、隅田の返事は存外明るいものだった。

「そりゃあ刑事だってビデオくらい借りますよ。私は「ネイチャーシリーズ」が好きでしてね」

世界中の遺跡や名所を旅する人気シリーズだ。

てっきり任侠ものでも借りているのかと思ってしまった。

殺伐とした稼業をやっていると雄大な自然に癒しを求めるようになるのだろうか。

どうしても私の刑事のイメージは凝り固まった先入観の域を出ない。

そんなことをぼんやりと考えていると、ペンを持ったままの楢岡が割って入るように質問を投げかける。

「いつ頃から見掛けるようになりました?」

さすがにそこまでは覚えていない。

「さあ・・・・?私が気付いたのは名刺をもらう数日前だったと思いますけど・・・・・」

ふと熊凝が言っていたことを思い出す。

『詳しいことは知らん、と言われたでなぁ』

そうだ、熊凝は高橋さん(老女の燐家に住む五人家族のことだ)に老女のことを聞きに行っている。

「高橋さんの方が詳しいと思いますよ。お隣ですし。熊凝さんも空き家のことを聞きに行ったと言っていました」

私の言葉を聞いてほんの一瞬だが隅田の顔色が変わった。

だが次の瞬間、煙が消えるようにすっと元の表情に戻っていた。

私は何かまずいことを言ったのだろうか?


隅田が楢岡に向かって軽く目くばせすると、楢岡は手帳とペンをポケットにしまいこみ私に頭を下げた。

「ありがとうございました。何かありましたら警察の方へ連絡してください」


薄暗くなり始めた夕闇の中を遠ざかる二人の後ろ姿は、まるで別の星から来た生物のように見えた。

私の知らない種類の人たち。彼らはここで何を得てねぐらへ帰るのだろう。

あまり知りたくはないが。


近くに停めてあった車まで戻りながら、楢岡は独り言のように隅田に話し掛けた。

「おかしいですね。高橋の奥さん、『誰も来てない』の一点張りだったのに」

隅田は車のキーを取り出しながら呟く。

「・・・・面倒臭いことになりそうだ」

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