27. アッシュからマヌールへ(4)

 これからぼくの書くことは、ブニエーエルが、フレア・ルングマンについて語ったことの、ほんのわずかです。それは、不都合な点を省いているということではなく、要点だけをまとめているということです。


 ブニエーエルは娘にたいして、あまりにも多くの形容詞をつけて話しました。たくさんの比喩を入れ込んでいました。そうした彼の娘への気持ちを書くことを、ここではしないということです。


 ぼくはこれから、なぜ、フレア・ルングマンと小説を書き合う仲になったのかということを、書いていきます。そのきっかけとなったのは、ブニエーエルの話のなかにあります……一言でいうと、感情移入をしてしまったのです。


 きっと彼女は、天文学だけではなくて、哲学だってやりたくなかった。ほんとうの夢はべつにあり、どうしてもそれになれなかったから、学者になった。その境遇が、どこかぼくには手触りのあるものとして感じられたのです。


 フレア・ルングマンは、幼いころから、窮屈な身の上にあったとのことです。父が高名な天文学者であり、未解決問題にひとりで取り組み、それを「解決」するという偉業を達成してもいるのですから、自然なことです。


 フレア・ルングマンは、自分は「こうあらねばならない」という規範を押しつけられた気になって、そのプレッシャーにさいなまれていったとのことです。父の威厳を傷つけないこと、そして、父と比類されても遜色そんしょくのない存在であることを望まれていたのですから。


 ブニエーエルの子どもというだけで、自分の「したいこと」をいくつか放棄しなければならなかったのです。それだけではありません。彼女には、「したいこと」を放棄するだけではなく、「したくないこと」で結果を出さなければならないという重圧もあったのです。父が学者なのだから、テストでは満点を取らなければならない。例えば、そういったことです。


 そうしたことを想像してみると、ぼくは彼女のことを、冷徹に突き放すことができないように思いました。そして、そんな憐れな彼女を、さらに窮屈な身の上にしなければならない自分の仕事が、情けなくなりました。いま彼女は、病床にしている。それにも関わらず、彼女の父を拘束している。そのことは、ぼくに罪悪感を与えるのに十分なことでした。


 フレア・ルングマンは、自分をこうした身の上に呪縛した父を恨んでいました。しかし尊敬もしていました。未解決問題を「解決」するということは、父に対する敬意を抱くには十分なことでした。


 しかし大人になるにつれて――研究者を目指すにしたがって、父に対するよくない「噂」を聞くようになり、そして、実際に「噂」を検討していくうちに、父を軽蔑するようになったようです。


 しかしブニエーエルは、娘を護るために、自分の研究に対する倫理観の一片を、泥のなかに捨てたと言うのです。だけれど、「娘を護る」というのは具体的にどういうことかということを、彼は口にしません。


 幼いころの彼女の夢は、学者ではなかったそうです。ですが、学者になることをいられてしまった……それは、彼女の置かれた状況がそうさせたのです。あのブニエーエル・ルングマンを父にしているということが、彼女の人生を規定してしまったのです。


 ぼくは、フレア・ルングマンに同情を抱いてしまいました。彼女の経歴と境遇から、そして、自分の抱く罪悪感から。


 ブニエーエルの拘束がとける日、フレア・ルングマンは、その身柄を引き取りにきました。そのとき、簡単な尋問があると称して、彼女を別室に呼び、上に述べたようなことを伝えて、こういう提案をしました。


 小説でも書いてみませんか――と。


 突飛でしょうか。いま思えば、自分でも突飛のように思いますし、なぜこのような提案をしたのか、論理の飛躍なしに説明しなさいと言われれば、無理があります。


 それこそ、これが小説の一節だった場合、失格の烙印らくいんを押されてもしかたありません。道路に石ではなく岩が落ちているというような、違和感があります。しかしぼくは、そういう提案をしてしまったのです。


 と、ぼくたちはこういう経緯で、お題を出し合って小説を書くようになりました。


 きみとはじめて喧嘩をした日のことを、いまでも覚えています。原稿用紙を片手に怒るきみに対して、なんらうまい返しもできなかったのは、こうした経緯の説明がとっさにできなかったことが原因なのです。当時は、仕事上の機密を漏らすわけにはいきませんでしたし、ブニエーエルとの会話のことも、口外するのははばかられましたから。


 手紙は以上になります。

 しかし最後に、もう一度、このことを伝えさせてください。


 マヌール、ぼくはきみを愛している。愛し続けている。


 もしかしたら信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくは、間違いなくそう思っています。

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