26. アッシュからマヌールへ(3)

 フレア・ルングマンが、絶対に漏洩ろうえいするはずのない文書を入手したという噂が、ぼくたちの耳に入ったのは、いまから(この手紙を書いているときから)ちょうど半年前くらいです。もちろんそれは、自宅の捜索をするための名目であり、嘘です。


 ルングマン宅への家宅捜索は、定期的にすることになっていました。フレア・ルングマンの情報は、できるかぎり多く仕入れておく必要があるということもありますし、その父、ブニエーエル・ルングマンへの尋問を行なうこともできるからです。


 しかし折しも、フレア・ルングマンが風邪かなにかで病にふせっているところで、ブニエーエルは、家宅捜索は今度にしてほしいと頼んだとのことです。ですが、こちらもいくつかの手続き(名目上ですが)を踏んで家宅捜索にきているものですから、帰るわけにはいきません。


 ということで、強行突破でルングマン宅に踏み込んだとのことでしたが、現場の官憲とブニエーエルが口論になり、一悶着あったとのことで、ぼくの所属している役所の方でしばらく拘留こうりゅうすることになりました。


 その程度の刑罰で済んでいることに、きみは驚くかもしれません。しかし、ブニエーエルはそれくらい慎重に扱わなければならない人物なのです。その理由については、これから書いていきます。


 ブニエーエルが拘置されている間の見張りは、交代で行なうことになりましたが、ぼくは三日目、深夜から早朝にかけて見張り番をすることになりました。ほかに拘留されている者のいないなか、一番奥の独房にブニエーエルは入れられました。


 彼はなんどもなんども、フレア・ルングマンのことを聞いてきました。彼女の体調のこと、どのような状況下に置かれているのかということ……とにかく、彼女のいまの様子を気にかけているようでした。ですが、ぼくにはそれに答えられる十分な情報が入っていませんでした。


 ぼくは、そのとき、せっかくふたりきりなのだから、いままで疑問だったことを聞いてみようと思ってしまいました。ほんとうに、未解決問題のひとつである「この国の上には国がない」ということは証明されているのかと。


 もちろん、ブニエーエルはそのことについては答えません。しかしぼくは、どうしても気になっていたことがあったのです。


 ぼくたちが自明のものとしている未解決問題は、「ほかの国があるかもしれない」という前提がなければ提起されないはずです。だからあの未解決問題は、「国というものがない」ということを証明するために、意図的に用意された「課題」なのではないかと思ったのです。


 こうした問いに対してブニエーエルは、「フレアも同じことを言っているね」と、小さく、それでもこちらに聞こえるように、つぶやきました。「言葉の使われ方を、真剣に考えている者しか気付かないからね……そういうことは」などとも。


 それからしばらくの沈黙がありました。しかし彼は、ふと思いだしたかのように、「自分はフレアを守りたいんだ」と、独房の上の方へと視線を向けながら言い、「そのためには、研究者として失格の烙印らくいんを押されてもいい」と悄気しょげたようにいい捨てました。


 ぼくは、そこで了解したのです。きっと、フレア・ルングマンの日頃のふるまいが、銃殺の対象へと転じないのは、ブニエーエルになにか秘密があるのだと。そしてそれは正解でした。彼は正直にこう言うのです。


「この国の上には国がない……なんていうのは『妥当性が高い結果』ではあるけれど、確実なものではない。でも、確実なものにしてほしいと、この国の為政者いせいしゃはいう。そしてその報酬が、ひとつ願いをかなえてくれること……そんながあったら、きみはどうする?」――と。


 きっとブニエーエルは、娘の命を護ってもらうことを引き換えに、研究不正を行なったのだと直感しました。


 そしてそのとき、もしマヌールとの間に子どもができたなら、自分はどういう風に変わってしまうのだろうと考えました。悪い方へと転ぶことはないし、きみを悲しませるようなこともないと断言できます。しかし、なにかは変わってしまうでしょう。


「きみはきっと……この国の下に国を見つけたときに、早速それを論文として世に出してしまうことを、躊躇ためらわないだろうね」と、もうなんでも話してしまおうと思っているのか、そんなことまで言ってくるのです。そのときぼくは、ブニエーエルは、この国とはべつの国を発見したのではないかと直感しました。


(ですから……この手紙を書きながら、きみが生きていることを、なんとなく信じられるのです)


 話してはならないことを話してしまったという焦りからか、彼は急に話題を変えはじめました。

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