10. マヌールからの手紙(2)

 しかし、ある日、本を三冊入れたバッグを引っさげて喫茶店に行ったら、わたしの席とされているところに、あなたが座っていました。びっくりしました。だれも注意をしなかったのでしょうか。もちろん、だれかに、ここは彼女の席ですから……なんて忠告してほしくもありません。


 わたしはあなたの前の椅子に座りました。別の席に座ると、わたしのテリトリーが拡大され、町のひとたちのための喫茶店でなくなってしまうと思ったからです。


 するとあなたはこう言いましたね。「べつのところが空いてますけど」――と。わたしはまた驚きました。わたしのことを知らないのだろうかと。うろたえたままでいるわたしを、周りは「ざまあみろ」と思って見ているようでした。わたしはその日、帰ってしまいました。少なからぬ拍手の音が聞こえてきたので、店のなかはさぞかし大喝采だったと思います。


 それからというもの、いつ言っても、あなたはあの席に座っていました。喫茶店のマスターが雇った「傭兵」みたいな存在なんじゃないかと疑うこともありました。


 しかしあの日――あの祝日の日、喫茶店は大盛況で、わたしの座る席は見つからず、これならあなたの目の前に座ってもいいだろうと思い、そこに腰を下ろしました。するとあなたは、なにも言いませんでした。わたしはそのとき、勝ち誇ったような気分になりました。そして、そんな気持ちを抱いた自分が恥ずかしくなりました。


 それでも、あなたは席を立たなかった。ヘンな人だと思いました。だからこそ、興味がわいてしまいました。


 わたしはできる限り周りに聞こえないような声で、「なにを読んでいるの?」と尋ねてみようと思いました。でも、なんだか恥ずかしく、無視されたとしたら、どれくらいの失笑と嘲笑を受けるのだろうと思うと、尻込みしてしまいました。


 わたしだって、傷つくのです。それを、だれも知ろうとしない。マヌールという個人名があるのに、「政府側の人間」というくくりのなかに入れられ、そのくくりにいるという理由で敵にされ、敵であるならばどういう扱いをしてもいいのだと決めこまれる。


「個人」というものが消されてしまう。寂しいし悲しいし、傷つくし泣きたくなる。死にたくなったときだって、何度もありました。


 わたしは、三冊の本を、まるで露店を開いているかのように並べて、わたしの方から「こういう本を読んでいるのよ」とアピールしました。それが、せめてものわたしができることだったんです。ですが、あなたは一瞥いちべつをくれただけでした。あたりまえですよね。こんなことをしても、「そうした本を読んでいるんですね」なんて言うわけがないのですから。


 わたしは、いつもより文字を読むことができませんでした。本に眼を落とすより、あなたをちらちらと見ていた方が、素敵な時間を過ごすことができていたのです。そのときは、これが恋だということに気付きませんでした。


 そうして注意が散漫になっていたからでしょう。わたしは紅茶をこぼしてしまいました。そして、おりしも机の上で横たわっていたあなたの本を浸してしまいました。


 どうしよう、弁償をしないと。そう思ったのも束の間、周りからの視線に気付きました。こんなことまでして、ここから彼を追い出したいのだという姑息な手段。そう取られたのでしょう。まゆひそめているのです。そして、すぐにそっぽを向くのです。


 怒られるのか、弁償代を請求されるのか、黙って喫茶店を出て行かれてしまうのか、このうちのどれかが、わたしの運命であろうと思いました。しかしあなたは、四つ目の方角から、沈黙しているわたしに声をかけてくれました。


「きみの本を一冊貸してよ」――と。


 わたしは、きょとんとしました。べつに貸すのはいいのですが、濡れたあなたの本をどうしたらよいのでしょう。そう口にしたわたしに、「夕方まで時間を潰すために買った本だから、気にしてない」なんて、本当かどうか分からないけど、そういうふうに答えてくれましたね。


 それから、わたしたちは少しずつ話すようになり、あなたは、あの「モンブラン」の比喩をわたしにくれたのです。

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