09. マヌールからの手紙(1)

 わたしはすっかり酔いがさめた、それも昼にこの手紙を書いています。つまり、お酒の力も、夕方の自然の美しさや切なさもかりずに、あなたに向けて、この手紙をつづっています。ですから、どうか最後までお読みになってください。


 わたしは、あなたがくれた万年筆で、あなたがプレゼントしてくれた紅茶をいれたカップを、カーテンの影に隠して、目の前を流れる川のせせらぎを聞きながら、いまは、あなたのことだけを想っています。一字一句、わたしの想いをインクのなかに秘めさせています。


 一口紅茶を飲んでみました。上品な味わいです。香りも甘くて、心がやすらぎます。しかしあなたは、こんな美味しい紅茶を、ぜんぜん味わわずに飲んでいましたし、隣の席から立ち上るコーヒーの匂いより良いのか分からないなんて、言っていましたね。


 それがおかしくて、わたしがくすくすと笑うと、あなたは耳のあたりをかきながら、わたしに優しく反抗してみせて、それでも最後は、温かい眼差しを送ってくれました。


 わたしがあなたを見つけて、あなたもわたしを見つけてくれて……その偶然の出会いのおかげで、わたしの人生における幸福は、あしの群れから離れて、清らかな川を流れていくようになったのです。


 あなたは、わたしの栗色の髪を褒めてくれました。「モンブランみたいで綺麗」と言ってくれました。まだ知り合って間もない女性に、そんなことを言えるんですから、きっと過去に、三人くらいの女性とお付き合いしていたのだろうと思いました。


 嫉妬しました。正直に言うと、わたしはそのとき、あなたが過去、お付き合いしていた女性とのむつまじい姿を思い浮かべまいと必死でした。しかし、わたしに口説き文句を向けたということは、あなたにいま、恋人はいないのだということが分かりました。


 わたしはいままで恋人がいませんでした。それは、あなたがご存知の通り、わたしの家庭のせいです。


 わたしの父親は小説家です。むかしは「純粋な小説の書き手」なんて言われて、少年少女に感動を与えてきたと評されていたのですが、いまでは「政府お抱えのプロパガンダ」という不名誉な冷評を向けられていて、また、父の逆鱗に触れれば官憲に捕まえられて拷問されるという根も葉もない噂が浸潤しんじゅんしているのです。


 ですから、たくさんの魅力的な男性と恋に落ちてもおかしくない時期を、ひとりきりで過ごしてきました。友達もいませんでした。だから、あの喫茶店・ネブラスで本ばかり読んでいたのです。


 そんなときに、あなたに出会いました。そして、「モンブラン」という甘くてかわいらしくて、香りがよくやわらかいケーキに、わたしの髪をたとえてくれたことが、すごく嬉しかった。それも、わたしを目の前にして、言ってくれました。


 わたし、帰り道で泣いていたんです。周りからも目に見えて分かるくらいに、涙を流していたんです。だれが彼女を泣かせたのだろう、きっと明日には官憲に捕えられるだろう、みたいな悪口を言うひともいたくらいに、激しく涙を流していたのです。


 わたしだって、もう大人なのですから、ひとがたくさんいるところで、嗚咽おえつしてしまうなんて恥ずかしいんですよ。でも、そんなことはどうでもいいくらい、たまらなく嬉しかった。


 わたしの髪の毛の色は、父親とはまったく違います。父は、少し白髪が交じってきましたが、真っ黒な髪色をしています。母もそうでした。だから、そのふたりから栗色の髪をした女の子が生まれるなんておかしいと……あるひとは父の不貞行為を怪しみ、またあるひとは、本当の子供ではないのだと結論づけるのをためらいませんでした。


 遺伝――親と子の身体的な関係性の研究は、この国では禁止されています。あなたはもう知っていると思いますが、この国では、推奨されている研究と禁止されている研究があり、そのせいで、政府の統治の安定に必要な分野の研究だけが、突出して進歩しています。だからこそ、わたしと父の身体的な関係に対することには、興味と陰謀だけがつのっていくのです。


 しかしあなたは、そうした噂や興味を一切しめさずに、わたしの髪に、「モンブラン」という素敵な比喩と、「綺麗」という真っ直ぐな褒め言葉をくださりました。こころのなかでどう思っていたのか、なんてどうでもいいんです。でもきっと、あなたは素直にそう思ってくれたんだと信じています。


 いま思えば、よくこんなわたしと仲よくしてくれたな、なんて思います。


 わたしの父が、政府と癒着している小説家であるという根も葉もない噂は、この町のひとなら誰でも知っていますし、下手な真似をしないようにと、みな、子供たちにもそのことを教えています。


 ですから、あの喫茶店の窓際の二人掛けの席は、言ってもいないのにわたしのためだけの席みたいになっており、物価の値上がりがあろうと、いままでと同じ値段でコーヒーとケーキを出してくれました。その特別扱いが、嫌いだった。

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