07. マヌールの父からの手紙

 深い失意の中にいる。すべての疑問詞が一斉に襲ってくる感覚がある。

 

 小説家としてではなく、ひとりの親としての私のいまの「仕事」は、娘の遺書をいくどとなく読み返すこと、娘の君宛の手紙を開封せずに君に送ること、私からもいくつか伝えたいことがあるから、この手紙を書くこと、この三つくらいだ。


 マヌールの遺書には「探さないでほしい」と書いてあった。しかしこの言葉には、「探してほしい」という意味が、その奥できらめいていると思うのだが、どうだろう。きみは、マヌールがどこにいるのか、知らないだろうか。


 マヌールがどこかへ行ってしまう予兆は、ひとつもなかった。凶兆があれば、逆に良かったかもしれない。しかし私には吉兆ばかりが感じられた。


 私はマヌールと君の結婚を認めないわけにはいかないと思っていた。両人が愛しあっているし、親としても、官憲どうしで結ばれた方が、都合がいいと考えていた。気兼ねなく生活をすることができる。もし「民間人」と結婚するならば、猜疑さいぎの心と監視の眼差まなざしが家庭を窮屈きゅうくつにしてしまうことだろうから。


 マヌールが君を愛していて、君もまたマヌールを愛している。そして両者ともに官憲である。これ以上に祝福すべき関係はないと思い、少しずつふたりの結婚に向けての覚悟が固まりはじめていたのだが、突如としてそれが脱臼だっきゅうを起こしてしまった。


 振り返ると、マヌールは不可思議なことを私に聞いたことがあった。「哲学者ってなにかの役に立ってるの?」――と。


 それは、今回の件と直接関係していないかもしれないし、しているのかもしれない。


 でも、そのときのマヌールには深刻さが足りていなかったし、無邪気な質問のようにも思えた。しかしいまおもえば、もっとこの質問の意味について考えておけばよかったかもしれない。


 マヌールは「ってなにかの役に立ってるの?」と、私に聞いてきたのではなく、「ってなにかの役に立ってるの?」と聞いてきたのだ。


 この質問には、ひとりの人物が想定されているような気がした。もしかしたらマヌールは、だれか特定の哲学者を憎悪していたのかもしれない。


 私は、哲学に関しては良い印象など全くないから、これくらいのことしか答えることはなかった。


「哲学なんてものは、なんの役にも立たない。たとえば、死んだあとにもなお、この世界が存在するかどうかなんて、それが分かったところで私たちにとってなんになる。そんなものは、死んだあとに経験すればいいことだ。それで差し支えはない」


「それに、どういう実験をして確かめるというんだ。馬鹿らしいじゃないか。誰のためにもならないことをすることで、社会の調和を乱さないように配慮してくれていると考えるなら、役に立っていると言えなくもないがな」


 …………というようなことを、マヌールに聞かせた。彼女はひどく安心した顔をしていた。


 私もむかしは、雨が降ることの意味というようなものを考えたものだ。晴れるだけでいいのに、なぜ雨が降らなければならないのか、その意味を。


 しかし、雨は降るものだという事実を知っているだけで、私たちは生きることができるし、屋根のある家と、日持ちのある食物と、飲んでも平気な水と……そういったものを手にするための手段を考える方が、人のため社会のため自らの身のためになる。


 この手紙を書いているいま、マヌールが「哲学者」のことを私に聞いたあのときのことが、どんどん鮮明になってくる。君に心当たりはないだろうか。あるとしたら、知っていることを書いた手紙を私に送ってほしい。


 近頃、哲学というものを学生に教えることを禁止しようという動きがでているが、わたしもそれには賛成だ。


 もしかしたらマヌールは、無邪気にも哲学的な思索をした挙句、どこかへ消えることを望んだのかもしれない。


 マヌールから君に宛てて書かれた手紙を同封している。中身は見ていない。もし私に伝えるべきことが書かれてあったら、そのことも含めて手紙を書いてほしい。

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