05. フレアという人 / ぼくの追想(1)

 ボイスレコーダーの音声を書き起こすのは大変だったけれど、文書としてそれを残しておくためにも、必要な作業だった。


 いつか、ぼくの手で写す必要がなくなる技術が、ぼくへと恵まれることはあるのだろうか。


 不思議なことに、この国では天文学が異常に進歩している。それに貢献しているのだから、フレアの父、ブニエーエル・ルングマンは噂通りの天才なのだろう。


 しかしなぜ、フレアは父と同じ天文学者にならなかったのか。そしてなぜ、天文学に批判的な哲学を展開し、未解決問題を哲学の立場から解決しようと試みるのだろうか。

 ぼくの頭の中には、こうした疑問があった。


 ぼくは、シャルロッテとの「じゃんけん」に負けて、今日の講義を記録する羽目になったわけだけれど、やはりフレアの言っていることは、ぼくには理解しがたい。でも、絶妙な説得力をそなえているように思えるのも確かだ。


 ぼくはいつしか、こっそりと彼女の講義の写しをもうひとつ作るようになった。簡単に複製できる手段を考えてみたのだけれど、なにも思いつかなかった。一瞬のうちに、もう一枚同じものを作ることができたとしたら、どれくらい楽なことだろう。

 しかし手間をかけたおかげで、ぼくはいま、複製した講義の記録を持っている。


 もう少し経てば、追っ手がぼくたちの居場所を見つけるかもしれない。


 明日の夜、ぼくたちは、このの際に向かう。それまでに、この記録を書かなければならないし、どこかに埋めてしまわなければならない。時間を省く意味でも、あの日の彼女の講義の全文は、ノートに貼りつけるにとどめておこう。


     *     *     *


「フレア……起こしちゃった?」


 次のとこちらとを仕切る引き戸が開いた音に振り返ると、月の光のなかに赤色の瞳を不安げにひからせているフレアがいた。


「こんなときに、ぐっすりと眠れるはずがないじゃない。いままでの記憶がべったりとまぶたの裏に貼りついていて、寝ようとしたらそれがじんじんと痛み出す」


 ノートを閉じて椅子から立ち上がり、彼女を抱き寄せると、冷たい夜のなかで消えかかっていた焚火たきびのような温もりが、胸から腹にかけて走りだした。


「窓の外の月を見ながら、やっぱり嫌だって、あなたが言ってくれたら、どれくらい楽だろうって考えてた。わたしは、いくらでも犠牲になっていいと思った。だって――」

「フレアには想像できないかもしれないけど、そうしたら、適当な言い訳を取りつくろって、ぼくは消されるんだよ。国の機密を少しでも知っているぼくを、反乱分子であるぼくのその命を、だれも守ってくれないよ」

「わたしがっ!」

「銃で頭を撃たれたら必ず死ぬけれど、フレアの仮説の検証のための実験台になることは、生きるか死ぬかがはっきりとしていない分、マシだと思う」


 フレアは、ぼくの胸に顔を強く押しつけてきた。


「この国を変えるためには、が存在しなければならない。フレアの言葉を使うなら、建前の裏側にある内臓を全部ひっぱり出して治療しないといけない」

「そんなグロテスクなたとえをした覚えはないけど……」

「してたよ? ぼくたちが初めて言い争った日の講義のとき」

「覚えていないわよ……」


 そのとき一陣の風が吹いて、もう使われていない小屋の窓が、ガタガタと鳴った。

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