第2話 気がつけば、実質的には夫婦に『成って』いたよね。法律どうこうはさておいて


「大好き♡ 大好き♡ 大好き♡」


 なにやら室内にボソボソと不審げな声がひびく。


 声の発生源を見ると、男がベッドに眠っていて、女がその脇にひざをつき、男に愛をささやいているようだ。


 時計へと目を転じると、なに、まだ朝5時にもなっていないではないか。ずいぶん早すぎはしないか。


 男――26歳となった古祐こすけがううんと寝返りをうつ。


 古祐こすけの睡眠は深く、自分で決めた起床時間まで容易よういなことでは起きない。

 深夜に地震が来ても気づかないことしばしばである。最低限の野性までもうしなっているのではないか。震災が起きたらどうするのだ。


 一方、女――26歳となった翡鞠ひまりはその寝返りを見とどけたのち、ひきつづき古祐こすけの耳もとでささやく。


「ざぁこのザコスケ♡ ざぁこだけど大好き♡ もしかしたらざこは私のほうかもしれない♡」


「ザコスケは起きたら翡鞠ひまりちゃんに告白したくなぁる♡」


 なぜ寝ているときに言うのだ。

 なにも反省していないのか。


 その真意はようとして知れぬが、この習慣はすでに3年ほどつづいている。

 3年つづいてなんらの変化も生じないのならこれは無意味な行いであると結論づけてもよさそうなものだが、「いや、こうすることで私への告白が深層意識に刷り込まれているはず」と翡鞠ひまりあんずに主張したことがある。

 あんずが深くため息をつき、あきれはてたことは言うまでもない。


「私はあと何年こいつらの進展ゼロの話につきあわないといけないんだ?」


 とそのとき嘆いた声は、しかし悲しいかな、夢を見る翡鞠ひまりには届いていなかった。


 場所をもどして、古祐こすけが寝ているのは、古祐こすけがひとり暮らしをしているマンションの一室である。外観・内装ともになかなかきれいなマンションだ。

 自分の家なので、古祐こすけがここにいるのは当然といえよう。


 では、なぜ翡鞠ひまりがいるのか。


 シングルサイズのベッドがひとつしかなく、翡鞠ひまりが寝ていた痕跡こんせきもないため、同居しているわけではなさそうだ。

 歩いていける距離の実家の一室には、いま現在も翡鞠ひまりの自室が存在している。


 ひととおり(無意味な)刷り込み作業を完了すると、洗面台に置いてあるメイク道具をとり出す翡鞠ひまり

 男のひとり暮らしなので洗面台なんてあってもなくてもいいのだが、借りる家をさがしているときに翡鞠ひまりが強硬に必要だと主張したため、しっかりした洗面台のある物件にしたのであった。


 6時がすぎ、セットしているアラームが鳴った瞬間とめてムクリとロボットのような正確さで起きあがる古祐こすけ


 ホカホカとみそ汁のいいにおいがただよってきた。


「遅いのよザコスケ」


 翡鞠ひまりがつめたく吐き捨て、テーブルにまぜごはんのおにぎりと具だくさんのみそ汁が置かれる。

 顔を洗ってうがいをし、席についた古祐こすけに、翡鞠ひまりは「ザコスケ&ネボスケね」とミュージシャンかお笑い芸人のコンビ名かのようにつぶやく。


「おいしいよ」


「まずいなんて言ったら熱々のみそ汁ぶっかけてやるから」


「あれ、おれ紺のスーツどうしたっけ」


「きのうクリーニングから戻ってきてクローゼットの奥にかけてたでしょ。ビニール取ってなかったから取って同じ場所においてある。ビニールのままだとカビちゃったりするんだからちゃんとしてよね」


 みそ汁をすすりながら翡鞠ひまりが刺すような口調で言う。

 古祐こすけは「そっか、ありがとう」と気にした様子もなくおにぎりをパクついた。


 翡鞠ひまりはこの家の合鍵を用いて無断で侵入したすえに朝餉あさげをともにしているわけであるが、古祐こすけ翡鞠ひまりに朝食をつくってくれと頼んだ事実はなく、そもそも家の合鍵を渡した事実もない。


 ただなぜか不動産を契約するときにとなりにいて、正妻のようなふるまいをしたあと「スペアを含めて2つカギがありますので、退去までになくさないようお気をつけください」と渡されたカギのひとつを当然のように自分のバッグに入れたことがあったのみだ。

 「契約するとき」と書いたが、上でも述べたように物件さがしのときや見学のときにも「ふたりの家をさがしています」といった風情ふぜい凛然りんぜんと横からかもし出していた。


「やっぱりきれいな物件のほうが、彼女さんもうれしいでしょう。ねえ?」


 と、見学時にふたりの関係をはかりかねた不動産屋が、さりげなく関係を確定させようと翡鞠ひまり相槌あいづちを求める。


 それに翡鞠ひまりが「ま、そうですね」と髪をフワサとかきあげクールビューティーもかくやという所作しょさで返答を発しはじめた瞬間、古祐こすけ


「いえ、ただの幼なじみです」


 とバカ正直にふたりの関係を告げた。

 たしかにかつて恋人になってもらえないか打診をし、断られた経緯はあるにもせよ、となりで翡鞠ひまりが「げっ」とにがにがしい顔をしているのが見えないのか。


「あっ、失礼しました」


 不動産屋は「じゃあなんでここにいるんだ」という疑問をのみこみ、「まあどうせ賃貸の客だし適当に案内して終わりでええやろ」と思い直したかのような態度で以後は淡々と契約まですませた。


 翡鞠ひまりは「あっ、あー、そのことなんだけどぉ」と契約のあと、ふたりで帰っているときに「ただの幼なじみ」を修正しなければとモゴモゴ口にしていると、


「きょうは会社寄らなくていいから、このままどっかで夜ごはん食べる?」


 と古祐こすけから聞かれ、


「はっ? はー? ごはんね、ま、きょうはめちゃくちゃ忙しいんだけど、中華の気分でもあるし中華だったら、ま、時間つくってあげても、いいよ」


 と腕組みして、目に宿ったハートがバレぬよう顔をそらしてこたえているうちにどこかへすっ飛んでいってしまった。バラしたらいいではないか。どこを向いている。


「あ、本格中華じゃなくて、町中華ね。タンメン食べたい」


 ちがうちがう食事の内容ではなく、幼なじみ云々うんぬんのところを掘りさげよ。


 また、ほぼ半日にわたり、自分にはなんら関係がなく、頼まれてもいない不動産物件さがしに同行している時点で「めちゃくちゃ忙しい」理論が通るはずもないことを自覚せんことを念願する。


 古祐こすけ古祐こすけで、そのような論理のほころびを指摘すれば、「それは実のところあなたのことを好いておるからで、あわよくば同棲状態にまでもつれこみたいと画策かくさくしているためなのです」といった回答をひき出し円満にふたりの関係が発展していきそうなものであるが、なにを考えているのかぼーっとした無表情でそうした気のきいたことをしない。


 だから進展しないのだ。


 またまた現在へと場所を戻して、やはり頼まれたわけでもない朝食をせっせと翡鞠ひまりがこしらえ、ふたりで食べ、その洗いものを古祐こすけがし、準備を終えて古祐こすけが出勤する時間となった。


 この日は土曜日であった。

 古祐こすけの会社は本来休みであるが、古祐こすけは大学時代の友人ふたりから「会社をつくりたいから力を貸してくれ」と請われて参画さんかくした経緯があり、会社の役員、取締役とりしまりやくという肩書きで働いている。


 とはいえ設立したばかりの中小企業における取締役というものは、代表取締役(社長)のあれやこれやの思いつきにふりまわされることも多く、また役員には残業代という概念がないため、休日も朝も夜もあまり意識せず働くことが多かった。


 一方で、翡鞠ひまりは比較的大きな会社の広報として働いており、従業員の労働条件がきちんと守られている会社であるため、土日祝日は休みである。


 ふたりは駅で別れ、桃太郎の冒頭ではないが古祐こすけは半日仕事をこなし、翡鞠ひまりは家へ帰って古祐こすけ宅へ置いている自分の着替え類を洗濯などした。

 古祐こすけの仕事が終わると、また駅で合流する。


「きょうは早く終わったから、おれがごはんつくるよ」


 と古祐こすけに言われ、翡鞠ひまりの胸がどくんとハート型にはねあがったのち、ムリヤリ抑えつけてこうこたえる。


「ふーん、ザコスケにちゃんとおいしいごはんつくれんのかしら」


翡鞠ひまりほどおいしくはできないけどね。使っちゃったほうがいい食材ってなにかあった?」


「……じゃがいも」


「じゃがいもね。先月つくったあんかけでもいいかな」


「……ひき肉も冷凍してある」


「じゃあみそ汁の具材でも買って帰ろうか」


 そんな話をして近くのスーパーへむかって歩き出すが、翡鞠ひまり


(えっ、翡鞠ひまりのごはんが世界で一番おいしいって言った!? おまえのごはんが毎日食べたいって!? プロポーズ!?!?)


 と口のなかでゴニョゴニョと言っていたくとり乱している。

 ここにあんずがいれば「事実だけを的確に把握しろ」としかるところだが、いないため飛躍したまま空想が宙を気ままに泳いでいる。


 と、そこへ、


 ――ドサリ。


 となにかが地面へと倒れたような音がした。


 ふたりが目をむけると、スーツ姿の女性がひとり倒れ込んでいる。


 ――えっ、なに、どうしたんだろ


 と翡鞠ひまりが困惑をのどから発しようとしたときには、古祐こすけが女性のもとへ走っている。


「大丈夫ですか?」


 大きな声で、女性の反応を見る。

 突然意識を失って倒れてしまったようだ。

 急いで翡鞠ひまりもとなりへ駆けつける。


 女性はぐったりと力を失っており、ピクリとも反応しない。

 そうした反応の有無をじっと観察しながら何度か声をかける古祐こすけ


「えっ、ど、どうしたらいいかわかるの?」


「ちょうど最近、会社が入ってるビルで講習会があって、強制参加だったし自分で出たんだ。ごめん翡鞠ひまり、たしかここの駅にはAEDがあったはずだから、さがしてきてくれないか」


 話していると「どうしたの」と近づいてきたご婦人がいたため、「突然倒れられたみたいです。すみませんが119番お願いできますか」とテキパキとお願いをする。


 ――この人の命にかかわるかもしれない。


 事態の重さを認識すると、翡鞠ひまりはすぐに走った。


 古祐こすけは呼びかけても、おそるおそる肩をたたいても反応が一切ないため、「たしか……」とつぶやきながら女性の呼吸の有無を確認する。

 ブラウス越しで少々判別しにくいが、呼吸はしていないものと判断する。


 一分一秒が勝負になると、講師の言っていたことが脳裏のうりに浮かぶ。

 迷っているひまはないと自分を鼓舞こぶし、心臓マッサージをはじめた。


 1、2、3、4、5、6…………


 小さく口に出して数をかぞえながら思いきり胸骨きょうこつを押していくが、しばらく経っても女性に変化は見られない。

 講習でもそうだったが、見かけよりも力が必要な作業であり、あせりもあって汗がにじむ。

 ひたいから汗が流れて目のなかへ入り、瞬間的に痛む。


古祐こすけ!」


 翡鞠ひまりの声がして目をむけると、AEDをかかえてこちらへ走ってくるのが見えた。

 「ありがとう」と受けとり、電源を入れる。「この画面で、手順を案内してくれるはず」と翡鞠ひまりにむけてか自分にむけてか古祐こすけがつぶやく。


 案内画像とともに、AEDから音声にてつぎつぎと指示が発出はっしゅつされるが、


 <胸を裸にしてください>


 という言葉が聞こえたところで、古祐こすけは一瞬かたまった。


 ――講習会では人形だったから考えなくシャツを剥いでいたが、女性の服を、男の自分が脱がしていいものなのか。ここは往来おうらいで、人の通りも、多い。


 古祐こすけ逡巡しゅんじゅんはごく一瞬だったが、同じく音声を耳にした翡鞠ひまり


「代わる」


 と短く告げて古祐こすけの肩に手をおいた。


「手順はこの画面を見ればいいんだよね?」


 と確認し、古祐こすけがうなずく。

 ふたりは即座に入れ替わり、古祐こすけはこのさわぎで周囲に人が増えてきたのに気がつくと、スマホをむける人間に


「撮るなッ!」


 とはらから怒声どせいを放った。

 すぐに、


「まわりに、まわりを、ぐるっと囲っていただけませんか! これからAEDをつかいます。倒れているのが、女性なので!」


 とたどたどしくも周囲に助けを求める。

 その言葉をきいて、何名もの人が人垣をつくってくれた。まわりの野次馬からは見えなくなる。


 翡鞠ひまりは女性のブラウスのボタンをはずし、機械の指示のとおりに肌に直接パッドを貼りつけると、緊張感でゴクリとつばをのみこむ。

 と、119番通報をしてくれたご婦人がとなりへ来て、「それ貼ったら、上着をかけてもだいじょうぶらしいわ」となにやら調べながら教えてくれた。


 はおっていた薄手のカーディガンを脱ぎ、女性にふわりとかけて肌を隠す。

 「人に電流を流す」という行為におくする気もちをいだきながら、進んでいくアナウンスに遅れぬよう指をふるわせてボタンを押し、AEDを作動させる。


 そうしているうちに、早々と救急車がやってきた。

 あとは救急隊員へとお願いし、のちにその女性は一命をとりとめたとの報に接してふたりで胸をなでおろす。


 また、その日の夜に翡鞠ひまりあんずへと電話をかけ、


「あのときの古祐こすけ、かっっっっこよかったの……。いつもボソボソとしかしゃべんないのに、おっきな声出して、テキパキ動いてさ。やっぱり、いざってときには頼れる男なのよね。また惚れなおしちゃった……。何回惚れさせるんだっつーの! そんで私たちの連携、あれこれもう夫婦? この少ないことばで通じ合えちゃう感じ、もしかして実質的には夫婦成立してるんじゃない? 婚姻とか法律的などうこうはさておいて夫婦ってなれる、いやある日に『成る』もんなんだぁって私は、世界の真実を、知ったよね……」


 と興奮したまま蜿蜒えんえんと話しつづけていたが、あんずは「よかったねぇ」とペディキュアを塗ったりスマホゲームのログインボーナスをゲットしたりしてあんまり聞いていない。

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