梅雨上がり、海原の虹霓(にじ)

名暮ゆう

本文


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 例えば、実にお喋りで交友関係もそれなりに広く、ほとんど誰からも好印象な人物がいたら、あなたにはどう映るだろう。もちろん、その人が置かれた社会的立場によって見方が変化するのは前提だよ。教師からすれば扱いやすい生徒かもしれないし、会社員からすれば使い勝手のいい後輩かもしれない。

 ……さて、僕にはこう映る。


 


 唯一無二の才能と努力でゴールデンタイムを賑わせる有名芸能人であろうと、一寸の光も差し込まない路地裏で孤独を噛みしめる路上生活者であろうと、年相応の時間を与えられ、各々の人生を築いてきた。

 僕はそれを知りたいと思う。あなたの性格や思考を形作った人生を、あなただけの感覚を――多彩な言葉と柔軟な身体で表現してほしい。


 ……たとえそれがであったとしても、ね。


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 雲一つない晴れ空を快晴と言うなら、青一つない曇り空を厭曇えんどんと言うのだろうか。辞書には載っていないよ。僕が考えた造語だから。

 地蔵の額を躊躇わず叩く大粒の涙は、最後の勇気を振り絞って助けを乞うようだった。こういう日は、決まって僕を憂鬱にさせる。


「……歩くの面倒だなぁ」


 高校に入学しておよそ二か月。いくら面倒であっても、学校を休むという罪悪感が拭えない僕は今日も仕方なしに学校に向かっている。

 在籍する高校の最寄り駅は県庁所在地にあるので、毎朝通勤ラッシュが発生する。もちろん、公共交通機関だってそれを想定して運営している。だから、特にバスの発車時刻を調べずとも容易に乗車できる――なんて、甘い考えでいた僕が馬鹿だった。


「うげっ……流石にみんな考えることは一緒か……」


 憂鬱な天気に、傘の死角から襲ってくる雨鉄砲だ、今日くらいはバスで通勤・通学しても罰は当たらないだろうと考えた人々がターミナルに押し寄せていた。我先にバスへ乗り込む様子はさながら沈没寸前のタイタニックから脱出する乗客のよう。遅刻の危機感が彼ら彼女らをそうさせているのだろう。

 他人の歩調に合わせるのは得意だけど、こればっかりは遠慮したい。人だかりに余裕ができてから乗車しようと決めて、バスを数本見送ることにした。

 普段は徒歩で登校しているからまったく知らなかったけど、朝のバスは塹壕戦よりも過酷な戦場が広がっているらしい。それも雨の日は激戦区で、あのレマルクもえらく青ざめながら「西部戦線異状あり」と叫んでしまうに違いない。梅雨特有の停滞前線に倣って、僕もバスターミナルに一日身を置いてサボタージュに打って出ようかしらん。

 ……しかし、どうやら僕には意地でも欠席してはいけないと記録された回路が埋め込まれているようで、サボりの機運が最高潮に達しようとしていたところで、諭すように左肩が痛くなった。やがて痛みのテンポが速くなる。そして――やたら冷たい?

 何だろうこれ……そう思って振り向くと、今度は何かが後頭部に直撃してそのまま制服へと流れ落ちてゆく。

 ……どうやら雨漏りが直撃していたらしい。何か特別なことが起こったんじゃないかと、心のどこかで期待していた自分をお手本のように裏切ってくれた梅雨がますます嫌いになる。

自然現象に対してほとんど無力な人間が何を言っているのかと思われるかもしれないが、正気を取り戻した僕も同じことを考えて、後悔したよ。

 ……頃合いを見計らってバスに乗り、どうにか席を確保する。先客によって汚された足下にリュックを置くのは癪なので、渋々膝上に乗せてから胸をなでおろす。

 朝の乗車戦争は僕の完全勝利で幕を下ろした。仮に僕の行動の一部始終を眺めていた人間がいて、真逆のことを言ったとしても、それは虚報だ。抵抗勢力による罠である。僕を欠席させようと目論む悪の組織。そんなのいるはずないのにね。


 ……低気圧とともに不安定になった情緒を振り払い、顔を上げた。周囲を見渡すだけで客層は分かってくる。車内は学生と大人で満たされており、比率は折衷。各々年齢相応の時間を与えられ、今日までその人生を確実に歩んできたのだ。

 できることなら一人ひとり言葉を交わし、各々の人生に想いを馳せたいよ。しかし、僕だって何の変哲もない人間だ。同様に与えられた時間は有効活用しなければならない。純粋な知的好奇心を満たすことで安定した収入が得られるのであれば、誰もが研究職を志すだろう。

 どんな人生を送ってきたか、それは僕が考える人間の評価項目の一つだ。今を形作った経緯が見えてくる。だけど――少なくとも僕に与えられた時間だけでは――八十億人近い人間の生き様に耳を傾けることは不可能。

 だから、僕はどうしようもなく惹かれた人間の生き様に耳を傾けるようにしている。歴史上の人物、政治家、哲学者、科学者に医者……そして、奇行に走る周囲の人間。興味・関心を誘う人間の生き様は隈なく調べてきた。

 ……えっ? 奇行に走る人間について、もっと具体的に教えてほしい? そうだなぁ、例えば――僕は絶賛バスに乗車中だけど、ここで突然バスジャックなんて起こされたら、知りたくなってしまうだろうね。それこそ、犯人以上の興奮状態になってしまうかもしれな――


 その時、僕は無意識に顔を動かした。


 別にバスジャックが起こったわけでなければ、バスが急停車したわけでもない。いたって平穏で、世界には五月雨が容赦なく降り注いでいた。


「次、停まります」


 気づけばそんな機械音声が車内に響き渡る。ああ、次は停まるのだな。乗客・運転手ともに誰もがそう感じたことだろう。


 僕とを除いては。


 車内放送が流れる直前、僕の視線は一人の少女に釘付けになっていた。見覚えのある制服――確か、僕が通う高校の近くにある女子校の制服だ。

 肩にかかる程度まで伸びた髪が丁寧に整えられており、鼻筋も通っている。左頬の絆創膏が気になるものの、肌つやはよく吸い込まれるような瞳もチャーミング。年相応の美しさに異を唱える者は十中八九存在しないだろう。しかし、僕が彼女に気取られていた理由は、単に美人だから、というものではない。

 僕が知る限り、彼女の動作は不自然極まりないものだったからだ。

 降車ボタンに手をかけては止め、手をかけては止め……五回ほど繰り返していた。俯き気味で完全にその表情を掴めたわけではなかったけれど、消化不良とも言えるの感情が顔色に表れている気がした。

 間違いなく何かある。僕は彼女の行動原理にどうしようもなく惹かれていた。


 ……さて、「次、停まります」というアナウンスがあった以上、誰かがボタンを押したのは確かであり、それが向かい側に座る女子高生であることを、僕は知っている。だから、ここで降車するのだと考えるのは、至極当然のことだと思う。


「お降りの方はおられますか?」


 しかし、その予想は大きく外れる。

 運転手がバックミラーを確認しながら問いかけるも、誰一人として降車する様子を見せなかったのだ。


「お降りの方はおられませんか~?」


 何人なんぴとも降車しないと言うなら、それはただただ迷惑の所業である。不機嫌な運転手の声と車内の湿気が相まって吐き気を催す。

 ……結局、誰も降車しなかった車両は次のバス停に向けてエンジンを唸らせた。きっとただの押し間違いだろう。乗客はその程度の表情を浮かべていた。僕もかくありたかったが、一部始終をこの目に焼きつけている以上、その程度の感想でことを済ませるわけにはいかなかった。


「次、停まります」


 その直前、僕はスマホのカメラを起動した。犯行の瞬間をどうにか抑えて、額に滲む汗を右手で拭いながら窓の外に顔を向けた。

 ……厭曇えんどんは依然、空を覆っている。かつて日本に開国を迫った蒸気船の黒煙が百七十年の時を超えて再び姿を現したみたいだ。胸の高鳴りを感じる。野性に任せドラムを叩く感覚。雨に一憂していた僕にとって、彼女との出会いは、何某かのなのかもしれない。


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 天気予報もたまには外れるものだとつくづく思うよ。

 昨晩、バーチャルお天気キャスターさんが、

「明日は曇りのち晴れ。梅雨にしては珍しい初夏並みの気温上昇が見込まれますので、熱中症対策を心掛けましょう」

 と、営業スマイルを含ませながら報道していたのに、まさか昨日以上の雨が待っているなんて。篠突く様子がニューロンを刺激し、再び僕を憂鬱にさせる。

 今日こそは休んでしまえ、今日こそは休んでしまえと、僕を揺さぶるのだ。

 ……だけど、休むわけにはいかないよね。

 天候の前に無力な僕は、仕方なく経口頭痛薬を服用し頭痛の鎮静化に努める。そして、ある目的を果たすため、堂々自宅を後にする。


 ――ある目的とは、

   犯罪に片足突っ込む少女に話しかけることだ。


 昨日、登校のために利用したバスで降車ボタンを連打する少女がいた。その実態は営業妨害も甚だしく、僕を含めたほとんどの乗客が定刻通り目的地へ辿り着くことができなかった。運転手もご立腹で、ついぞ犯人は特定できなかったものの、これが三度と続けば路駐からの犯人捜しも起こりかねない。

 生物的に見ても猟奇的な快楽に耽る人間だ、犯人を吊し上げて罵詈雑言を浴びせる可能性も十二分に考えられる。

 ……ああ、僕自身もまた、猟奇的な快楽に耽る人間だと自覚しているよ。しかし、暴力は論外だ。犯人を突き止めている僕が彼女を路地裏に連れ込み威嚇して手懐ければ万事解決――んっ?

 ……妄想を振り払い、改札を出る。軽快な足取りで階段を下ってバスターミナルにたどり着く。相変わらずの人だかりで息苦しいけど、目的がある僕は急ぎ足で周囲を見渡しながら彼女を探す。一度見た顔や髪型は墓場に行くまで覚えていられる地震があったし、左頬の絆創膏がえらく印象に残っていたのですぐに見つかった。

 バス停で佇む姿からはどこか喜びを感じられた。何故だろう。視線の先には人の気持ちも知らずに厭曇が空を覆っているというのに。

 彼女と言葉を交わすために登校したわけだけど、初対面の人に声をかけるとなると流石に改まってしまう。そもそも、公共交通機関では痴漢冤罪が多発しているのだから、意を尽くして簡潔に言葉を紡がないと手首の自由はおろか、社会から隔絶された冷酷な世界に投身せざるを得なくなってしまう。

 まあ、彼女の方が犯罪らしいことをしていたけどね。


「……あの」


 意を決して声をかける。しかし、彼女は振り向かない。何故? ……考えてみれば明らかだった。話しかけられているのが自分であると考えもしなかったのだろう。このような場所で赤の他人に声をかける人間はほとんど存在しないのだから、無理もない。

 だからもう一度声をかけることにした。今度は肩をちょこんと叩きながら。


「あのー、すみません」

「……?」


 振り返る少女の尊顔に微笑みはなく、むしろ困惑や恐怖の色が窺えた。まさに不審者が声をかけてきた、といったところだろうか。

 一体どっちが犯罪者なんだろうね。


「な、なんですか……」


 という表現の方が適切な気がした。慰めの可能性が秘められた両脚を小刻みに震わせる彼女は、まるでこれから鞭打たれるのを予感し、恐れ、慄いているようだった。昨日の彼女とは明らかに別人。あの憎悪に思えた表情は一体どこに?

 ……いいや、憎悪に見えたあれは、実は恐怖心だったのではないか。ますます彼女の素性が気になった。


「えっと、い、いきなり話しかけちゃってごめんなさい。どこか嬉しそうに雨を眺めているのが不思議で……ぼ、僕は雨が苦手なものですから……」


 他者の人生について、やたら自信満々に語っていた自分が嘘みたいだ。せせら笑いを浮かべたいが、彼女を笑っていると勘違いされたら困るので、どうにか抑えた。


 話しかけることに緊張するなんて、今までなかったのに。


 言葉を詰まらせながら問いかける姿は不信感極まりなかったかもしれない。その証拠に、彼女は距離を保ちつつ僕に疑いの視線を向けてくる。僕は思わず両手を軽く上げて降参するように見せた。正直なところ、悪手だと思った。その姿は実に愚かに映っただろうし、何より僕が犯罪者であることを認めたようだったからだ。

 しかし、幸いにも彼女は僕の望む捉え方をしてくれた。少しくらいは安全だと判断したのだろう、彼女はおもむろに顔を空へ向けると口元を綻ばせたのだ。


「……今は、好きなんです」

「雨が? どうしてですか?」

「貴方みたいな人が、少しでも、苦しみそうだから」


 笑いが抑えられなくなり、咄嗟にそっぽを向いてしまった。苦し紛れとか、苦笑いを浮かべているわけではない。「この人、とんでもなく性格が悪いのでは」という、底知れぬ面白さを含んだ存在が目の前に現れた際に感じる高揚に乗せられて笑いが抑えられなくなったのだ。


「な、なんですか」

「いやぁ……性格、悪いなーって」

「はぁ!? 失礼です、取り消してくださ――」

「この動画を根拠に言っているんですよ?」


 昨日撮影した動画を彼女に提示する。周囲にも聞こえる声で反論してきた彼女も、こればかりは口を閉ざすのみだった。

 年端もいかぬ生娘を物的証拠で脅すなど、青少年の煩悩を刺激するアニマルコミック(比喩)やアニマルビデオ(比喩)以外ではあり得ないと確信していたが……。股間節から背筋にかけて痺れるような感応が走る。どちらかというと気分が良い。なるほど、これが背徳感という魔物か。癖になりそう。

 ……なんて、存外なことは決して考えていない。彼女の出方を窺っていると、乗車予定のバスが僕らの前に停車する。


「……とりあえず隣に座ってください。話はそれからです」


 俯きながら小声で呟く彼女は、恥じらいを隠すためか我先にと乗車していく。ワンテンポ遅れた僕は他の乗客に押し出されそうになりながらも、どうにか彼女の隣を確保した。

 ……紆余曲折あったが、どうにか彼女と本格的に言葉を交わす機会を得ることができたのであった。


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「あの……お名前は?」


 彼女は僕だけに聞こえるような声で言った。そういうシチュエーションが好みなのかと思ったけど、公共交通機関で騒ぐのは失礼だし、昨日の出来事が露呈してはいけないから、敢えてということかな。

 ここは彼女のペースに合わせようと耳元に顔を近づける。


「うみのこうき。漢字は「海」に野原の「野」、「虹」を「貴」ぶと書いて、海野虹貴うみのこうき渡里台わたりだい高校の一年です」

「……私はさみだれさつき。「五月」の「雨」に花が咲くの「咲」く、そして季節の「季」と書いて五月雨咲季さみだれさつきね。私は泉平いずみだいら女子の一年生。敬語は必要なさそうだね?」


 五月雨か。雨が好きなのも頷ける名前だ。ただし、彼女が雨を好む理由はからであり、性格が悪いという印象が覆ることはない。

 ……それにしても、見覚えのある制服は泉平女子高等学校のものだったか。あまりけど、少なくとも僕が通う高校よりは頭が良い。そんな彼女がどうして常識を欠くような行動に……やはり気になる。

 そろそろ本題に移ろう、僕の気持ちを汲み取ってくれたのか、五月雨さんが口火を切った。


「そ、それで海野くん。貴方の目的は何?」

「そうだなぁ……五月雨さんの身ぐるみを剥がしてコレクションの一つとして部屋の額縁にでも飾ろうかな」

「……距離近くない?」

比喩表現すきんしっぷだよ。僕はただ、君をもっと知りたいだけさ」

「知ってどうするの? これでも私、結婚願望はあるの。了承もなく手を出した場合、私はいくら動画が拡散されようとも通報するからね? 分かった?」

「……何か勘違いしてない? 僕は純粋にどうして君が降車ボタンを押しまくっていたのか知りたいだけなんだけど」

「そうやって言い包めて私の懐に入り込むつもりでしょう。昔からママに言われているの。は常にワンチャンを狙っているんだって」


 ……よく喋るなぁ、五月雨さん。表情も新芽が地面から次々に顔を出すようで実に豊かさを感じるよ。人間、言葉を交わしてみなければ分からないものだよね。

 そして、いくらか頭のネジが外れた教育方針、これは面白い。その母あってこの娘、ということだろうか。女子高を選択した理由はそこにあるのか。


「……ワンチャンなんて狙っていないよ。こと僕にいたっては、やましい気持ちで話しかけてないから」

「嘘だぁ。どうせあれでしょ、『どしたん? 話聞こか(ニチャニチャ)』ってやつでしょ。精神的に疲弊している私に擦り寄って、あわよくば貞操まで奪ってやろうって算段でしょ」

「……五月雨さん、驚くほど下ネタが弾むよね。少なくとも僕よりは素質があると思うよ」

「それは遠回しに、女子高は品がないと差別しているの?」


 白いセーラー服に身を包む可憐で美しい女子高生、蓋を開けてみたら高度な下ネタで僕を威嚇する恐ろしい女の子でした。

 ま、まあ、仮に精神的に疲弊しているのが事実であったとしたら、防衛機制が働いている可能性が高いので、ここはめげず言葉を交わしていくことにする。


「……それで、ボタン連打にはどんな意図があったの? ストレス発散?」

「……まあそんなところ」

「頬の絆創膏は?」

「今時の若者は絆創膏をお手軽ファッションとして嗜むの。これは貼った者勝ち。貼れば貼るほど優位に立てる」

「絆創膏っていつから権威主義の象徴になったんだ……」

「怪我は誰でもするものでしょ。今回は当たりどころが悪かっただけ」


 仏頂面を浮かべる五月雨さんだけど、それはどちらかというと悲壮――いいや、に近い様子だった。痛みが走るのか、左頬に手を当てながら視線を下ろす。


 ……彼女と過ごす時間はあっという間だった。

 秒針速度が四割増しになったのではないかと疑うくらいには退屈しなかった。そんな時間とももうお別れ。

 感傷に浸りつつおもむろに降車ボタンを押すと、聞き慣れた音声が車内に鳴り響く。

 先に降車するのは僕だ。彼女はハッとした様子を浮かべていた。


「あのっ、今日は……ありがとう」

「え? 何がですか、五月雨さん?」


 突然の感謝に訳も分からず問いかける。その表情からは一寸の希望を感じ取ることができて、余計に気になってしまった。


「いや……それの話」


 五月雨さんが顔を向ける先にあるのは僕のスマートフォン。先程まで犯行の一部始終が表示されていた。


「……何となく感じてはいたけど、五月雨さんってエムっけあるよね」

「どうしてそうなるの??」

「えっ、だって撮られて良かったってことだよね?」

「そんなわけ……いやまあ、そういう意味でもあるけど」

「どっちだよ」

「……勘違いしないで! 私は決して海野くんが想像するような女じゃないから!」

「えぇ……」

「わ か っ た ?」

「は、はあ……」


 僕は自身の感性に基づいてその人を評価しているから、そう言われてもなかなか譲歩できない要素があるのだけれど……僕はまだ、彼女を女子高に咲く一輪の汚花程度しか理解できていない。どんな場所に咲いているのか、どうやって花開いたのか、どんな人々を魅了するのか――汚花が他者を魅了するのか、甚だ疑問ではあるが――彼女について知りたいことが山ほどある。そのために、海野虹貴はもうひと踏ん張りしなければならない。

 考えがまとまったところで、彼女に視線を向ける。艶やかな頬を晒す彼女は瞳いっぱいに僕を映しこんでいる。間違いない、彼女は僕を見ているのだ。


 ――憂鬱が消え、頬に熱を感じる。


 違和感を覚えるほどに心拍数は高まり、両手は微かに震えていた。緊張、なのだろうか。それと似たような感覚だが、間違いなく経験したことがないもの。

 彼女は僕にとって何だろう。


「あのー、五月雨さん」

「うん?」

「……明日も、座って、いいかな」


 その言葉に彼女は両目を見開いていた。人差し指を自身の唇に当てると、何か考えごとをするように首をおもむろに傾げていく。


「知らない人よりは、海野くんと相席する方がいいけど……本気で言ってる?」

「本気ですけど」

「や、やっぱりワンチャン狙ってるでしょ?」

「狙 っ て ま せ ん」

「スマホの検索履歴の三番目に表示される言葉は何?」

「えーっと……『女性お天気キャスター かわいい』だね」

「嘘つき」

「だから誤解だって! これは推し活だよ!」


 ……ついぞ誤解が解けぬまま、僕は降車するハメになった。彼女の防御壁は分厚い。これを攻略しない限り、踏み込んだ話には到底できないだろう。

 仕方ない。少し遠回りだけど、外堀を埋めていく作戦に変更だ。ストレス発散で降車ボタンを連打する人だからね。未知なる人生経験を積んできたに違いない。

 外には相変わらず身体を冷やす雨が降り注いでいる。熱意に満ち溢れた身体を冷やさぬよう、傘を差して歩き出す。孤独に喘ぐ魔物から目を背けた僕の羅針盤は、既に空回りしていた。


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「海野くん、聞いてほしいの」

「五月雨さんのお願いならなんなりと」


 まるで冷ややかな視線、それも俗物を見るような。

 持ち上げられるような言い方に不快感を露わにする五月雨さんだけど、語り始めるのにそう時間はかからなかった。


「これは中学受験が当たり前の世界の話。小学校時代、賢い男女がお互いに好き同士で、志望校に合格したら告白しようと心に決めていたとする。しかし、片方は受かって片方は落ちた。この場合、どんな展開を迎えると思う?」


 なかなか難しい問題だな。僕は心理学をかじっているわけではないし、それくらいの年齢の男女は行動原理が不安定だから……。

 とは言っても、この問題は頓智や大喜利といった類のものではない。何故なら、これは彼女のスカートに置かれた美男美女が腕を組みながら対峙する表紙の――俗に言うライトノベルが発端となっているからだ。僕は今、その作品の展開か何かを問われているのだろう。冷静に問題文を分析してから沈黙を破る。


「絶縁、かな」

「あら、どうして?」

「……恋心の始まりはどうであれ、中学受験が当たり前の世界で好き同士だったなら、前提として賢いはず。だったら、受かった方にとっては裏切られた気分になるし、落ちた方にとっては対等関係が崩壊する。これは、落ちた方が再び対等になる努力をしなければ修復不可能だと僕は思う」

「……流石は海野くん。読みは抜群だよね」


 お褒めの言葉をいただけるのは素直に嬉しい。全裸で交差点シャトルランに興じたいくらい。これは高揚感の比喩表現であって、仮にその舞台が与えられても絶対にやらないから。いいね? 絶対にね?


 ……さて、仮に僕の読みが抜群であったとしても、僕にとってその読みというのはまったくの見当外れだ。


「いいやまったく。だって僕、未だに五月雨さんのことよく分かってないし」

「そうかな。この二週間、いろいろなことを話したと思うけど」


 ……彼女の言う通りだ。朝のバスの時間を共有するようになってから二週間程度が経過している。外は相変わらずの雨模様だけど、僕は五月雨さんについて少しずつ理解を深めている。

 しかし、それは彼女の本質に少しずつ近づいていると言うより、終わらない土竜叩きを続けているようなもの。オブラートに包めば底なし沼だけど、容赦なく言うならその場しのぎの発言でやり過ごされている。

 なるほど、僕は彼女にとって未だに「ワンチャンを狙っている一般人」なのだろう。あるいは何か別の――ひいっ、形容し難いね。深淵を覗いている気分だ。

 とにかく、彼女は何かを隠している。

 そして、そこには明確に隠蔽しようとする意思がある。


 自分を綺麗に見せようとしている、と言ってもいい。


 それは、社会性を育んできた人間にとって当たり前の魅せ方かもしれない。しかし、それがどうも普通じゃない。少なくとも僕の感性がそう騒ぎ立てている。

 ……絆創膏が目に入る。今日の彼女は顔に二つ、両手と合わせて五つの絆創膏を貼っていた。彼女曰く相当な不器用であるらしく、裁縫で誤って指を刺してしまったり、ボール競技で顔に強烈な一撃をくらってしまったりするらしい。週が明けるとそれはほとんど外れ、一週間という時間をかけて、改めてその外貌に装飾を施していく。


「五月雨さん」

「……」

「おーい、五月雨さん?」

「……あっ、うん。どうしたの?」


 加えて、金曜日の五月雨さんは特段反応が悪い。虚ろな瞳に開かれた瞳孔からはわずかながら恐怖を催す。

 ……真相がどうであれ、五月雨さんの読む本が気になっていた僕は、それに人差し指を向けながら呟いた。


「もし良かったら、その本貸してほしいなって」

「あーこれ? 気になっちゃった?」

「五月雨さんがどんな気持ちで目を通しているのか、考察する余地があると感じられたよ」

「……構わないけど、来週でもいい? まだ読み終わってないから」


 僕は首を縦に振り、窓の外に目を向ける。

 およそ二週間、雨ばかりの憂鬱な日々に彩りをもたらすには十分なくらいだったと思う。なけなしのお年玉を握りしめて登校するくらいには、彼女と言葉を交わすことに意義を感じていた。

 ……いいや。彼女との時間を有意義に感じる一方で、僕は目的を前に無駄金を消費しているに過ぎない。着実に彼女との距離は縮まっているように思えて、実は遠ざかっている気がしてならないのだ。

 何故だろう。何故、ここまで不安にさせられるのだろう。

 他人の思惑が一切分からないことに焦燥感を覚えるのはこれが初めてだった。


「……じゃあ、また来週」

「……うん。それじゃあ」


 名状し難い感情を抑えつつ、僕は微笑みながら切り出した。彼女もまた、笑顔で応えてくれる。

 進展がないのは心苦しいけど、ここまできた以上、必ず君の人生に耳を傾けるよ。本当の君を知る日が来ると思うと、待ち遠しくてたまらない。

 だからもう少しだけの辛抱だ。

 もう少しだけの辛抱。

 そう、もう少しだけ……。

 

 明くる月曜日、彼女はバスに現れなかった。


(5/10)


「おはよう、海野! ……ん、どうした? やけに落ち込んでるみたいだけど」


 教室に足を踏み入れると、真っ先に声をかけてきたのがクラスメイトの千本木宜哉せんぼんぎたかやだった。

 僕が落ち込んでいる理由か……雨天続きも多少なりとも影響しているのかもしれないけど、やはり五月雨さんに会えなかった事実が大きいと思う。

 昨週、僕は五月雨さんから本の借りる約束をした。五月雨さんを知る手がかりを掴めそうで心を躍らせていたのだけれど、結果的に五月雨さんはバスに姿を現さなかった。

 深淵を覗こうと身を屈めていたら、何者かに押されて落ちていく気分。どうやらそれは、表情にまで表れていたらしい。


「やあ千本木。まあいろいろね……」

「そのいろいろを訊かせてくれって言ったつもりなんだがな。……ま、まさか別れ話? 最近、校内で別れたカップルがいたって聞いたけど、お前のことだったのか」

「そんなわけあるか。逆に訊くけど、僕が誰かとお付き合いできそうな人間に見える?」

「人は見かけによらないからな。俺には海野が落ち込んでいるように見えたけど、実際に訊いてみないと分からないだろ? それと同じだって。まあ、俺にとって海野は話の分かる奴だし? 気が合う奴となら上手くやれるんじゃないかって思うけどな」


 ……図太さが時折厄介な千本木だけど、筋の通った発言ができるのは彼の長所だ。それだけじゃない。千本木はわりと誰とでも会話が弾むタイプで、クラスや学年はおろか周辺の学校の情報まで知っている、いわゆる消息通なのだ。

 僕とはまた違ったベクトルで人間が好きなんだって。そういった要素が、僕らの関係を良好にしてくれているのだと思う。話の分かる奴だと言ってくれたのは素直に嬉しいよ。あまり面と向かって言われたことがない言葉だから。

 ……ちょうどさっきまで僕の心を締めつけていた何かが緩んでいく気がした。できることなら早めに話を切り上げたいと思っていたけど、今は千本木と言葉を交わしていた方が安らぐ気がして、背負うリュックを下ろしつつ口を開く。


「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」

「へへっ。いいってことよ! それで? 何かあったのか?」

「……せっかくいい気分だったのに」

「友達のよしみだって。それに『赤信号、皆で渡れば怖くない』って言うだろ? 危ない橋なら一緒に渡ってやるって」

「あれはお笑いのネタだよ。そして千本木は渡る直前に逃げ出すから嫌だ」

「えぇ……まあ、確かにフェアじゃないか。分かった。海野の教えてくれた情報に関連する内容をできるだけ詳らかに話そう。ただし、個人が特定できるようなことはお互いになし。それでいいか?」


 譲歩らしい提案がされてしまった以上、これより退くのは関係悪化に繋がりかねない。あまり五月雨さんのことをペラペラ喋りたくないけど、千本木に嫌われるのも好ましくない。


「分かったよ。そこまで言われたら、僕も応えずにはいられないよね」

「へへっ、流石は親友! よろしく頼むよ」


 まったく、調子のいいやつだ。呆れ顔で見つめてみるけど、あまりの澄まし顔でもう笑うしかなかった。

 ……千本木の言う通り特定できる言及はなるべく避けることを心に留め、僕は口を開いた。


(6/10)


 龍が鳴いている。

 ひどく傷ついた声だ。耳が痛む。

 締めつけられた喉からどうにか裏声を発している。

 モスキート音の方がまだ幾分か耳にいい。

 虐待か、あるいは成長による脱皮か――傘には大粒の鱗が打ちつけられる。

 とにかく前へ、前へ。

 雨を忌避していた身体が、今やそれを求めて歩いているようだった。

 ……いいや、違う。本質的に求めているのは、決して雨などではない。僕が求めているのは、五月雨さんの安否だけだ。

 千本木に言われた言葉が何度も鮮明に蘇ってくる。


「泉平女子か……これは風の噂だけど、最近の泉平女子はいじめが横行してるって話だぞ。海野を全面的に擁護する形で言うけど、もしかするとお相手さんは海野に愛想を尽かしたんじゃなくて、別の理由で顔を見せなかったんじゃないか」


 ……僕は今まで、彼女に抱いたいくらかの感情を見殺しにしてきた。


 憎悪、戦慄、諦念――。


 時に僕らを隔てる巨大な城壁にも感じられたそれは、今では僕と彼女の世界を二分するほどにまで膨れ上がっていた。

 それでも彼女に会いたいという気持ちは、一体何だろう。

 天空の頬袋から溢れんばかりの涙はズボンの裾を濡らし、僕の想いを滲ませる。

 頭痛が激しくなり、考えが一向にまとまらない。

 知りたいのか、知りたくないのか――僕は何を想う。

 疲労困憊する身体に鞭打ち五月雨さんのもとへ走るのは、本当の彼女が知りたいからか。

 ……本当の彼女って、一体何だろう。

 まるで今まで噓で塗り固められた彼女を見ていたと言いたげな――


 言いたげなのではない。


 最初から感じ取っていたではないか。

 承知の上で彼女と言葉を交わしていたではないか。

 その表情、仕草、言葉に並々ならぬ理由があることを理解していながら、僕は彼女に声をかけたのではないのか。

 ……僕はその人の性格や思考を理解する上で、歩んできた人生を知ることに努めている。たとえそれが真っ赤なであったとしても。嘘つきは決して嫌悪することではない。一種の防衛機制だ。より光度が強い色彩を放つための――自身の体裁を保つための、防衛機制なのだ。

 そんな、真っ赤な嘘で塗り固める五月雨さんの本性を僕は知りたい。

 早朝の、おもむろに顔を出すであろう太陽の、眺めはさぞ美しいだろうと感じる丘、それを越えた先に目的地は待っていた。

 邪魔で仕方なかった雨もいつしかなりを潜めている。

 峠を越えて安静を取り戻した気になっているが、まだ目的は果たされていない。

 僕は五月雨さんの安否を確認しに来たのだ。


 校門前で立ち尽くす。傘はいらない。雨はもう止んだ。

 久々の傘要らずにはしゃぐ黄色い声がつんざく。

 しかし、彼女たちも僕の姿を見て我に返ったようで、汚いものを見るような視線がやけに鋭かった。

 それでも、五月雨さんの安否と僕の体裁をかけた天秤は五月雨さんに傾いた。周りの目なんてどうでもいい。

 僕は君さえ無事でいてくれればそれでいいんだ。


「……さ、今日も声殺そうと必死だったよな」


 さつき、という聞き覚えのある言葉が聞こえてきて思わず肩が震えた。傘の先端に滴る水滴が地面に吸い寄せられ、不気味な音を奏でた。


「それなぁーー」

「ほんといびり甲斐あるよね、あいつ」

「でもうち飽きたなぁ」

「まだまだ足りないって。むしろここからが本番ってくらい」

「えーー、まあいいや。喉乾いたしスタバ行かん?」

「いいけどお金あんの? 彼氏と遊びすぎて金欠って騒いでなかった?」

「あいつからし、いけるいける」

「カツアゲ、あんたが一番楽しんでるじゃん……」


 ……同名なだけであって、五月雨咲季であるかは分からない。とにかく僕は、彼女がいるかもしれないというなけなしの希望を握りしめながら校門の前に立ち続けた。


「……海野、くん?」


 やがて、聞き覚えのある声が雨に紛れてやってきた。

 咄嗟に顔を上げ、その正体を掴むために周囲を見渡した。

 そして、ようやく見つけることができた。


「さ、五月雨さんっ!」


 僕が躍起になって声をかけた時。



 彼女という花は、萎れてかけていた。



 龍の鱗を身に纏い、ひどく傷つけられた身体に毒が回っていた。立ちくらみにどうにか耐えながら一歩ずつ踏みしめているように思える。

 ……五月雨咲季は、疲弊していた。

 普段は絆創膏が目立つ左頬も、今は青黒いあざが顔を出している。

 普段は整えられた髪が四方八方に跳ねていた。

 膨れた頬袋は決壊寸前だった。

 彼女の生命線に崩壊が迫っている気がして腸が煮えくり返る。心のどこかで予感していた大地震が実際にやってきて、ものの見事に現実を破壊していった。

 主犯は先程の生徒たちだろう。生物的に見ても猟奇的な快楽に耽る人間たちは――どういった料簡か知らないが――五月雨さんを縛り上げて非道な暴力行為を働いた。

 この梅雨は、まるで。本当の彼女をひた隠しにするためにやってきたようだ。

 止まない頭痛、悪心催す空気。

 何もかもがお前のせいだ。

 お前さえいなければ。

 僕は、彼女は――



出会えなかった。



……ああ、そうだ。

   僕と彼女の出会いは、梅雨入りから始まった。

  僕らの物語は梅雨の日、あのバスから始まったのだ。

 今までは理解できなかった感情。それは自身を顧みずに駆け、彼女の苦しみを知り、身震いするほどの恨みを募らせてようやく理解できた。


 ――僕は、


 たった二週間程度の関係かもしれないけど、少なくとも既に僕の心は彼女に傾倒していた。むしろ初めて彼女を見かけたあの日から、そう感じていたのかもしれない。

 ……そうか、そういうことか。

 僕が本質的に彼女の人生を追い求める理由が分かった気がする。

 知りたいという欲望がえらく肥大化していた。

 それは何故か。


 簡単だ。

 僕は五月雨さんのことがだから。


 心臓に手を当てて、その鼓動を確かめる。

 感じたことのない心拍数だった。

 それでも今はぐっと気持ちを押し殺す。面と向かって言葉を交わすために、やらなければならないことがあるから。


「どこか雨宿りできるところはない?」

「えっ……なんで……」

「まずは傷の手当てをしないと。話はそれからだよ」

「……分かった」


 彼女は下唇を噛みしめながら頷いた。溢れんばかりの涙が頬を伝う。

 泣き崩れそうになったところを、僕がそっと受け止める。

 彼女はようやく僕に心を開いてくれた気がした。


(7/10)


 学校付近にいくつか公園があるそうで、そのうちの一つに雨宿りできるスポットがあると五月雨さんは言った。

 近くのコンビニで応急処置に使えそうな消毒液やガーゼ、そして絆創膏を購入する。その間、五月雨さんはなるべく目立たないところに身を潜めてもらった。彼女の美貌に正反対のレッテルが貼られるのは嫌だし、なにより彼女がこれからどうしたいのか僕は分からないから、それを聞くまではあまり人目に触れてほしくなかった。


「……私がいるってよく分かったね」

「分からなかったよ」

「……それなら、どうして校門の前に立っていたの?」

「会えると信じていたから」

「……嘘だ」


 どうして疑われなきゃならないのか。そんな感情が渦潮を乗り越えてやってきたけど、僕はすぐに振り払った。

 彼女は明らかに弱っている。身も心も疲弊している。

 自暴自棄になっているのは明らかだった。


「嘘じゃないよ。僕はいつも本当のことを言ってきたつもりだよ」

「どうしてっ、ぐぅ……うぅんぐっ……」


 彼女は言葉にならない声とともに耳元で咽び泣く。消毒液が傷口に沁みるから、ではないだろう。きっとさまざまな感情が彼女を板挟みにしているのだ。

 僕は彼女を優しく抱きしめることしかできない。次第に雨が頬を伝う。まるで彼女の涙を体現するかのように。懸命に鳴り響く心臓の音をかき消してくれる、そんな雨だった。


「嘘つきはわたしだ……ずっと、ずっと海野くんに……嘘ついて…………」

「うん」

「バレたら……嫌われると、おもったからっ」

「それで、僕は実際に君を嫌った?」

「……ううん、ちがうと思う」

「そうだね。違う」


 抱き終えて彼女を見つめる。木の葉をかき分けて彼女を濡らす雨は、やけに立場を弁えていた。濡れ場を彷彿とさせるとか、そんな情事を訴えているのではない。

 ただ純粋に嬉しかったのだ。

 彼女が僕を頼ってくれているという事実に。


「海野くん。どうして、どうしてあなたは……嘘つきのわたしに、声をかけてくれたの……?」


 嘘はとびきりの愛だと、最近どこかで耳にした。

 まったくその通りだよ。


 嘘つきも立派な性質だと僕は思う。

 どんなに内面が汚れていても、他者の前では体裁を保ちたいという願望、それが人間らしい形で表れている。

 だから僕は、たとえそれが真っ赤な嘘であったとしても聞き耳を立てる。

 理想のあなたと現実のあなた。

 どちらも知りたいって思うから。


「僕は人間が好きなんだ。実に愚かで醜く、それでいて美しく可憐で儚い、そんな人間が大好きなんだ。人間は等しく人生という時間を与えられている。今の君を形作っているのは今日まで歩んできた人生だと思っているよ。僕が五月雨さんに声をかけた理由は、その行動原理を知りたかったから。降車ボタンを連打するのは何故だろう、一体どんな人生が君をそうさせたんだろう。初めて君を見た時、素直にそう感じたんだ。だけど、今は違う」


 彼女は下唇に前歯を立て、それを上唇で覆ってみせる。視線がやけに鋭かった。そこから感じる痛みは、ピーラーで指先を切ってしまった時の何百倍もありそうだった。

 せっかく整えた髪を乱すような風が僕らをあおぐ。

 木々は枝葉を揺らされ、砂場は砂塵をまき散らす。

 使い古された遊具たちが音色を奏でて、興味・関心を一心に向ける。

 そして僕はこう呟く。


「五月雨さん。どうやら僕は君のことが好きみたいです」

「……えっ?」


 その言葉を耳にした彼女は、険悪だった表情を一瞬にして緩めた。

 呆気にとられた、というやつだろうか。


「好き、というのは……僕が今まで一度も誰かを好きになったことがないから、正確にはどうか分からないって話ね。ただ、ここ二週間の僕は気がつけば君のことばかり考えてる。どうしたら君は心を開いてくれるんだろう、どうしたら君はもっと微笑んでくれるんだろうって」

「え、うそ……ちょっと」

「好きみたい、この言葉に納得できないなら言い方を変えるよ。僕は五月雨さんを大切な人だと思ってる。他の誰にも代えられない、僕の中で唯一無二の存在。それが五月雨さんなんだ」

「や、やめて。ちょっと待って……どうしよう私、今どんな顔してるんだろう」

「物凄く赤いよ」

「うぅ……言うなっ」


 少しばかり突き放されて苦笑い。彼女は朱色に染まった顔を両手で隠して見せるが、あまり意味がない。羞恥心から反射的に突き放されたことが分かってホッとする。

 もう一度彼女に近寄って、僕の本心を打ち明ける。


「だからどうか教えてほしい。君は今日までどんな人生を歩んできたのか」


 ……口から出た言葉だけでその人の本意は掴めない。

 解像度は一定の水準で止まってしまう。少なくとも簡単なことではない。より明瞭に心情を掴むには、相手の仕草や雰囲気から探っていかなくてはならないのだ。

 だから僕は本心を紡ぐ。

 高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりと正確に本音を奏でる。

 身も心も傷ついていたはず五月雨さんの瞳には、今や光よりも真っ直ぐな、絶対に屈折しない強烈な意思が宿っていた。

 僕は確信した。彼女はようやく心を開いてくれたのだと。


「……分かった。今から話すのは、紛れもなく私の人生。受け止めてくれるよね?」

「もちろん。僕は君の人生を知りたいんだから」


 重厚感あるトロンボーンの音色。

 神々しい輝きを放つ夜空に目が向く。

 遠雷だ。どこかで雷が鳴いている。

 停滞前線は、ようやく重い腰を上げたのかもしれない。


(8/10)


「私の父親は警察官で、母親は看護師なの。二人とも正義感が強くて、幼い頃から二人の背中を見て育った私がそれと似たものを志すのは至極当然だった。

 そういうのが認められたのかな、小中学校では友達に困らなかった。学校の風紀を保つ仕事に精を出すのは生き甲斐で、褒めてくれる人も多かったよ」


 幼少期から中学校時代までざっくり語り終えた彼女は、先程自販機で購入した水に口をつけた。間を挟むのは、これから魔の高校時代を語らんとする自身を勇気づけるためにも感じられた。


「私の姿勢に神様が微笑んでくれたのか、高校入試は難なく突破できたの。入学当初はそれなりに友好関係を築けたし、友達の輪から外れることもなく充実した学校生活を送っていたと思う。今回も小・中のように順風満々な人生を送れるんだと、そんな希望的な観測さえあった。

 ……だけど、順風満帆に思えた私の高校生活は、六月を前に崩壊した。

 新入生の中でもやんちゃなグループがあって、そこの子たちがクラスで浮いてる子たちに手を出すようになった。平穏な学校生活を過ごしたいのなら、そんな現実からは目を逸らして生きていけばいい。自分を守るためなら定石だよね」

「……でも、五月雨さんはそうじゃなかったと」


 僕の相槌に彼女は首を縦に振って、言葉を続けた。


「見過ごせなかった。私のアイデンティティが、絶対に彼女を助けるんだと叫んでた。そのグループに真っ正面から立ち向かうのは時間の問題だったんだ……。

 そして、私に平穏な放課後は二度と訪れなかった。教師の目につかない空き教室や体育館倉庫に引っ張られてさ、いろいろされるんだよ。最初は水やゴミぶっかけられる程度だったけど、次第にエスカレートしていって……遂にこの様」


 彼女が負った傷について、これ以上の明言はしないことにする。よりよい社会を構築する上で制定された法律にいくつも違反する行為が彼女の身体に現われていた。五月雨さんに巣食う正義感は強大な悪に立ち向かい、結果的に傷だらけの身体で帰ってきたのだ。

 彼女は突然「バス」と呟いて両目を閉じる。


「海野くん、覚えてるかな。私が撮ってくれてありがとうって言った時のこと」


 ……うん、覚えてるよ。

 初めて彼女と言葉を交わした日、別れ際に言われたことだ。やけにエムっけがあるなぁと感じた記憶がある。


「それがどうかしたの?」

「私はあの時、ずっと海野くんがワンチャンを狙って話しかけてきたと思ってた。もちろん今はそう思ってないし、そうやって固定概念で人間を判断するのは悪いことだなって、海野くんの本心を知って感じたの。そしてもう一つ、貴方の告白で勇気を得た。もう一度、私なりの正義を御旗に戦う。そう決めたの」


 五月雨さんはスマホの画面を向けてくれる。そこに映し出されたものの正体は、悟られない位置にスマホを置いて、自分への暴行を撮影した動画だった。

 殴る蹴るの暴行、罵声の集中砲火、見覚えのある主犯たちの顔も鮮明に映っており、いつ誰が何をしたか、映像を眺めれば一目瞭然だった。

 息が詰まる思いでいっぱいになった。

 身体を張ってまでこれを……。


「それって……」

「そう。私がいじめられている一部始終をカメラに収めた。見返すのは結構しんどいけど」

「そりゃ……。五月雨さんは、これをどうするつもり?」

「ずっと迷ってた。提出するか、このまま気づかれずにいなくなっちゃおうか。……だけど、こうして今日、海野くんが本心を伝えてくれた。ううん、本当はずっと目を背けていただけ。私はその想いに応えたい。自分を隠すような生き方はもう止めたいの。……そう、貴方のように」


 今の五月雨さんはどうしようもなく凛々しい。

 覚悟に満ちていて、自分の意思に忠実だった。強烈ないじめにその身一つで耐え続け、紆余曲折ありながらも、今はこうして反攻作戦に打って出ようとしている。

 ……やっぱり好きだなぁ。

 僕は心の底から彼女の虜になっていた。


 ……雨水は木の葉を伝い、頭皮を濡らした。

 僕は我に返って木陰を後にする。

 今日、こうして雨上がりを安心した気持ちで眺めるのは初めてだった。

 まさに一難が去っていったようだ。

 十二分の放念が全身を巡り、気づけば地面に両手を着いていた。手には泥がこびりつき、制服のズボンも糞尿と勘違いされそうな色合いが染みついていることだろう。

 だけど、もうそんなことはどうだっていい。


「後は私の問題。だから――もう、安心してね」

「……うん」


 僕がいて、君がいる。

 そんな夜景が、どうしようもなく美しかったから。 


(9/10)


 終わり良ければ総て良し、とはならないらしい。

 本日も雨天が頭痛の種だ。

 思えば彼女に出会ったあの日も、こんな天気が僕を憂鬱にさせてきたっけ。なんだか懐かしいなぁ。そう考えると、この憂鬱も少しは愛嬌を帯びているというか、僕と彼女の関係がバイアスとなって、決してネガティブなものではないように感じられた。

 ……たった一ヶ月前のことにここまで床しさを催すのは、良くも悪くも充実した日々を送ってきたということなのだろう。しかし、それは僕の世界でだけのお話。隣の君がどう考えているかなんて僕には分からないし、ましてや十人十色を体現するバス車内に僕と同じ感覚を共有できる人間がどれほどいるかなんて、考えるだけ無駄だってことも理解している。

 ただせめて、ほんの少しでも君との距離が縮まったのであれば、それで――。


「どうしたの、


 僕が顔を上げたことで視線が自分に向いていると感じたのか、相席する少女はスマホから目を逸らして首を傾げながら呟いた。その呼び方がどうもへんちくりんで、反応するのに時間がかかってしまった。


「あっ、いや……そう、そうだ! 今日の咲季も可愛いなって!」

「……その場凌ぎの発言に聞こえるけど」

「本心だよ! 僕は嘘をつかないから! ……下の名前で呼ばれるとは思ってなくてさ。言われたことを理解するのに時間がかかったんだ」

「ふぅん? ……それで、本は全部読んだの?」


 本――ああ、彼女に借りたライトノベルか。両片想いが高校全体を巻き込んで前代未聞の恋愛劇を繰り広げるラブコメだ。


「面白かったよ。個性的なキャラクターがしっかり人間していて、僕は好きだね」

「でしょう? また虹貴が好きそうな本があったら貸すわ」


 本を受け取る彼女の右手は小さくてスベスベで、何より傷一つない。まるで三週間前のひと騒動はなかったみたいだ。それくらい、咲季は前向きだった。

 ……その後どうなったのかは、クラスメイトの千本木が詳しく聞かせてくれた。以前からいじめの証拠として保存していた動画を被害者が匿名で教育委員会に届け出たことで事件は発覚。首謀者やいじめに加担していた生徒は軒並み退学・停学処分となり……これで咲季も救われたんじゃないかと思っていたけど、どうやら咲季も咲季で新たな道に進むことを決めたらしい。


「……くどいようで申し訳ないんだけどさ、本当に高校辞めるの?」

「うん、辞めるよ。残っても楽しくないし」

「そっかぁ……」

「そんなに絶望しないでよ。私だって毎朝虹貴と会えなくなるのは嫌だけど……通信制の高校に転籍したら、放課後会えるようになるよ」

「それは物凄く嬉しいし、もちろん咲季が決めたことだから止める気は一切ないんだけど……君のセーラー服姿を二度と拝めなくなるのは心が痛むよ」


 そう言い終えた途端、咲季がぴょこんと肩を震わせた気がした。まるで悪寒が走ったようだ。それも一生に一度感じるか感じないかレベルの。


「え、私は虹貴にとって性的消費物だったの?」

「ははは咲季って面白いことを言うよね」

「少しは……あるんだ?」

「美のイデアへの憧れはとどまるところを知らないねっ!」

「エロス、私をそういう目で見ていたと」

「……ご想像にお任せします」

「ふぅん?」

「……はい」

「うっわぁ」


 咲季が降車ボタンを押そうとする。僕は必死になって彼女の両手を掴む。周囲の冷たい視線が主に僕に注がれる。どうしてだ、咲季が発端なのにっ!!


「理不尽だ。今度は僕が降車ボタンを連打してやる!」

「構いませんよぉ? 今度は私が犯行の様子をカメラに収めてあげますからぁ」


 微笑みを浮かべながら鋭い視線を向ける彼女は、どこか幸せそうだった。

 何か気になることでもあったのか、彼女は窓側に視線を向けた。


「……ねえ、見て」


 突然どうしたのだろう、彼女が指差す方へ顔を向ける。


 想像以上の出来事に一驚した。

 先程までの雨模様はすっかり消えて、珍しい晴れ空が顔を出していたのだ。そしてもう一つ、それは天からのサプライズとも言える神々しさで僕らを魅了した。


「おっ、虹だ! 虹が架かってる!」

「うふふっ、虹貴の名前に相応しい天気だよね」


 その言い回しには有無を言わせぬ凄さが表れていた。久々の晴れ模様が醸し出す非日常的な様相を見事に表現している。

 ……訂正しよう。

 ほんの少しでも君との距離が縮まったのであれば、それでいい。

 僕は少し前にそう感じた。


 だけど。

 赤の他人から友達へ。友達から恋人へ。

 僕と咲季の距離はこの一か月で大きく縮まった。

 二人の出会いは梅雨がなければもう少し先か――あるいは決して訪れなかったかもしれない。


 終わり良ければ総て良し。

 快晴の海原に咲き誇る虹霓にじを、貴ぶとしようか。


(10/10)

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梅雨上がり、海原の虹霓(にじ) 名暮ゆう @Yu_Nagure

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