第3話 遠い日の鬼灯笛

 母は忙しい人だった。ゴロンと寝転がったりお茶をのんびり飲んだりといった姿を見た記憶は一度もない。そしてあまり笑わない人だった。いや笑えるほど心のゆとりがなかったのかもしれない。家族の用事を黙々とこなしながらお金の心配ばかりしていた。私は特に気にはしていなかったが家はとても貧乏だった。ときどき何も食べるものがなくなると沸かしたお湯に胡椒を大量に振りかけて飲んで凌ぐこともあった。そんな時には母は同じ市内に住む継母(実父の後妻)宅に私を連れていき、畳に正座して深々と頭を下げお米を分けてもらっていた。継母の嫌味とともに。母は家の苦境を一身に背負っていた。

 ただ一度だけ、その表情が緩んだのを見たことがある。近所の公園で私と妹を遊ばせていた時、どこで採ってきたのか鬼灯の赤い実を口に含みブランコに腰かけて鳴らしていた。その顔は少女のように無邪気に見えた。私と妹は話しかけることもできずただただその時間が長く続いてほしいと願った。

 やがて私は母の肩の荷を少しでも軽くするため家を出て自立する道を選んだ。出発の日、見送りに来た母は「お腹がすいたらこのお金で何か食べるんだよ」と言いながら小さく折りたたんだお札を三枚私の手に握らせた。断ろうかとも思ったが、旅立つ息子になにかしてやりたいと考えた末のことだろうから黙って受け取った。すぐに返すからね、と心の中で呟きながら。

 毎月、手取り給与の三分の一を現金書留で母に送った。ようやく母に楽をさせてあげられると嬉しかった。でもそれもそう長くは続かなかった。続ける必要がなくなった。

     ◇

 火葬場の霊安室に駆け込んだのは夜中だった。火葬許可が出る二十四時間のちょうど半分が過ぎたころだ。家を出なければよかった、もう少し一緒にいてあげればよかったと危急の帰省道中考えていたが、棺に横たわる母の顔を見た途端考えが変わった。これで楽になれたんだね、そう思えた。その顔は遠い日の鬼灯を鳴らしていた時の顔だった。

 長くもない人生の大部分を重荷を背負って生きてきた母。もっと長生きしてほしかったとか、まだまだこれから幸せが待ってたのにとか考えるのはやめた。何もいらないからこのまま眠らせて、と母の顔は言っていた。

 子供を除けば母の唯一の家族だった実父の墓に納骨し、手を合わせて顔を上げると自生している鬼灯の赤い実が揺れていた。遠い遠い、もう手が届かなくなった思い出だ。

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ほろ苦い思い出のエッセイ集 広田ただし @allen2023

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