第31話 救世主

「〝鷲掴みグリップ〟!」


「おっと……」


 目の前で広がった触手を、バエルは糸を用いて回避する。

 彼はそのまま糸の力で天井へと張り付き、ルルを見下ろすようにして観察した。


(何かを吹っ切ってから、触手の物量が大幅に上がった……僕ならすぐに締め落とされることはないだろうけど、捕まったらまず逃げられそうにないな)


 ルルの触手には、射程距離がある。

 その距離、実に三十メートル。 

 これは触手に制限をかけることなく伸ばせる限界値であり、細くしたり多少頑丈さを無視することで、さらに二十メートル程度であれば追加で伸ばすことも可能だ。

 現状、バエルはその射程距離を把握して、その外に身を置いている。

 しかし、彼自身が得意なのは近接戦。

 懐に入らなければ、バエルという魔族の真価は発揮されない。


(糸で距離を詰める……真っ直ぐ立っているように見えるけど、彼女の体はボロボロなはず。もう一回拳を叩きこめば、僕の勝ちだ)


 バエルの予想通り、ルルは立っていることもやっとなくらいのダメージを受けていた。

 攻撃を受けた脇腹は絶えず激痛を発し、気を抜けば膝から崩れ落ちそうになる。

 そこでルルは、自身の体に触手を絡ませ、強く締め付けていた。

 これによって触手がサポーターの役割を果たし、彼女の体を支えている。


「よっと……」


 糸を離し、地面に足をつけるバエル。

 その瞬間、ルルはバエルに向かって走り出した。


「なっ⁉」


 ルルの距離が縮まったことで、バエルは触手の射程内に入ってしまう。

 四方八方から襲い来る触手をかわしながら、彼は舌打ちをこぼした。


(体ごと距離を詰めることで、僕を無理やり射程内に収めた……! ボロボロなのによくやるよ!)


 ルルは自分に限界が近いことを悟っていた。

 恐怖に打ち勝ったとしても、〝深淵の呼び声ディープコール〟の発動時間が十分であることは変わりない。

 それに今は体を触手で支えているが、体力的な限界もすぐそこまで迫っていた。

 

(クーちゃんとの接続が切れる前に、この人を戦闘不能にする……!)


 ルルは体力を削るというリスクを取ってでも、最短でバエルを倒せる可能性がある方法を選んだ。

 バエルに主導権を握られ、時間を稼がれてしまうよりも、せめて戦況を支配しているのが自分であった方が、いくらか勝算が高いと踏んだのだ。


「〝大いなる鷲掴みオーバーグリップ〟!」


 ゾッとするほどの量の触手が、一気にバエルに押し寄せる。

 視界がすべて触手で覆われたバエルは、初めて顔をしかめた。


「はははっ、理不尽にも程があるね……!」


 バエルは真後ろに糸を飛ばし、一気に距離を稼ぐ。

 しかしそれを想定しないルルではない。

 

「逃がさない……!」


 一部の触手だけ、急に速度が上がる。

 限界まで魔力を使用し、ルルは触手のポテンシャルを底上げしたのだ。

 目の前にある触手の速度を限界値だと認識していたバエルは、その対応に追いつかない。

 

「チッ……!」


「捕らえた!」


 やがて触手に絡みつかれ、バエルは勢いを止められる。

 足が止まれば、後はもう触手に飲み込まれるだけ。

 バエルの体は、あっという間に夥しい数の触手に埋もれてしまった。


(ここで確実に仕留める!)


 バエルを飲み込んだ触手に魔力を注ぎ入れ、さらなる強化を施す。

 そして――――。


「〝粉砕クラッシュ〟!」


 触手が一気に収縮する。

 この技は、触手で掴んだ対象をそのまま握り潰すというもの。

 強靭な触手に極限まで締め付けられた生物がどうなるのか、想像に難くない。

 

「……」


 確かな手応えが、ルルに伝わる。

 しかし、彼女が勝利を確信したその時……。


「――――まさか、僕がこの力を使わされるなんてね」


「っ⁉」


 ルルは目の前で起きていることが信じられなかった。

 全力で握りこんでいるというのに、強引な力によって空間がこじ開けられようとしている。

 そして開いた触手の隙間から、彼の顔が見えた。


「実際、結構ダメージ食らっちゃったよ……君の力がもう少し洗練されていたら危なかったかもね」


 言葉の通り、バエルは体の節々から血を流していた。

 肉や筋肉が潰れ、所々おかしな方向に曲がってしまっている部位もある。

 それなのに、彼は自分に絡みついた触手を腕力で無理やり広げていた。


「っ……!」


 ルルは振り絞るようにして、触手に力を込める。

 しかしバエルは、こじ開けた触手の隙間から瞬時に脱出を果たした。


「ふう、危ない危ない」


 そんな風に言いながら、バエルはルルから距離を取る。

 それを見たルルは、当然追撃するために前に出ようとした。


「え……?」


 その瞬間、ルルは膝から崩れ落ちる。

 体に力が入らない。

 妙に全身が痺れ、あっという間に立ち上がることすら困難になってしまった。


「やっと効いたかな、僕の毒が」


「毒……?」


「僕の魔術、〝万物中毒マザーズトキシン〟は、ありとあらゆる毒物を体内に生成する。自分より弱い生物を眷属化する毒だったり、今の君のように、体を痺れさせる神経毒の生成だって可能だ」 


「あの、時、か……」


 バエルがルルの脇腹に拳を叩き込んだあの時。

 拳には、バエルが生成した神経毒が込められていた。

 触れればそれだけで全身の自由を奪う危険度の高い毒。

 効くまでの時間はかかったが、その毒は間違いなく機能して、ルルの自由を奪った。

 

「そして僕の生み出す毒は、こんなことまでできちゃうんだよね」


 バエルは自身の胸に手を置く。

 するとそこから肌が紫色になっていき、やがてそれは全身を包み込んでしまった。


「ぐっ……うぅっ」


 毒物による苦しみから、うめき声を漏らすバエル。

 すると紫色になった部分から、徐々に傷が治り始めてしまう。

 そしてその声は、肌の色が正常に戻ると共に収まった。


「ふぅ……こうして細胞を活性化させる毒物を生成すれば、傷を治すことだって可能だ。自分の筋力を強化することだってね」


 ルルの触手をこじ開けたのは、この毒物によって筋力を大幅に増強したから。

 モラクスほどの強化ではないものの、少なからず自身もダメージを受けるというデメリットが対価となり、圧倒的な身体機能アップに繋がっていた。


(こんな奥の手を持っていたなんて……)


 ルルの体は、倒れ伏したままピクリとも動かない。

 そんな彼女に、バエルはゆっくりと近づいてくる。

 

「意識さえあれば触手は動かせるのかって考えてたけど、どうやら魔術を扱うための器官も痺れて使えなくなっているみたいだね。これはいいことを知った」


 あれだけあった触手はどこかに消え、すでに邪神との接続も切れてしまった。

 もうこれ以上、彼女にはバエルに対抗する術がない。


「さて……それじゃ一緒に来てもらおうかな」


 バエルはルルを見下ろす。

 屈辱的な姿勢のまま動けないルルは、湧き上がる涙を歯を食いしばって堪えていた。


(悔しい……もっと早く、クーちゃんを信じていれば……)


 ルルの中に押し寄せる後悔。

 もう少しで勝利できそうだったからこそ、なおさら自身の愚かさが憎くなる。


(ごめんなさい……先生)


 心の底から漏れる謝罪の声。

 その言葉は、もう本人には決して届かない――――はずだった。


「――――俺の教え子に何をしてるんだ?」


「っ⁉︎」


 その時、一陣の風が吹く。

 突如として真後ろに現れた気配に対して、バエルは瞬時に振り向いた。

 しかしそれよりも早く、鋭い一閃が彼の胴体を切り裂く。

 

「がっ……なっ⁉︎」


 傷口を押さえながら、バエルは思わず後方に跳ぶ。

 

「なんとか間に合ったか……助けに来たぞ、ルル」


 彼を斬った張本人であるローグは、油断なく剣を構えながら、そう告げた。

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