第一章 聞こえ始めた薬恋歌③



 夜風が心地ここちいい。開け放たれた窓から入る風は、熱にかされた身体には寒さを覚えもしたが、すがすがしい思いのほうが強い。レイルはひどくげんが良かった。胸の内に巣くうどす黒いえんが、今夜ばかりは鳴りをひそめている。こんなに気分がいいことなど生まれてこの方あっただろうかと思うほどに、面白い夜だった。

 代わりえのしない、むためだけに存在する日々の中、ぞういかりは既にまんぱいまでちくせきされている。機会はのがさない。いつしゆんで立場を逆転させ、おのれかかわった人間すべてを殺す。絶対的上位に立っているゆうからか、元来の性質なのか、残酷に他者の尊厳を踏み躙る人間達にふくしゆうを。

 いつもの憎悪がうずを巻く胸中で、青色のびんが音を立てた。てのひらに視線を落とす。ちりちりとかすかにふるえる音は、夜風と同じで心地よい。んだものはきらいじゃない。深い森の中に似ている。

 薬術師は初めて見たが、彼らはみなやせっぽっちだと聞く。癒術は術者をけずる。キオスという守りを離れた薬術師の寿じゆみようは数年を切るらしい。それだけの力をしげもなく使ったやせっぽっちの少女は、細い指で瓶を押しつけた。冷え切った指は、熱をめた瞳を揺らすも、その熱を決してレイルへと落とさなかった。

「喜べ、ライラ。名を教えた人間はあんたが初めてだ」

 二度と会うこともないだろう少女と、しかしもう一度会ってしまった時。誤って殺してしまわぬよう名をわたした。薬草くさい少女が残したかおりが、今も部屋に残る。ああ、面白い奴がいた。うるさく、薬草臭く、やっぱりうるさい。けれど不快ではなかった自分が少し愉快で、レイルはくすりと笑った。

 今夜はひどく静かだ。二度とありえぬと思っていた、もはや思い出すことすらかなわぬ穏やかな夜が、ここにはあった。それもすぐに失われると知っていたが、レイルは目をざし、薬草の香りを胸いっぱいに吸い込む。生まれた森のにおいが、した気がした。


 月が大きく位置を変えたころわずらわしい女が戻ってきた。

 身体中をこれでもかとそうしよくした王女だという女は、やみに明るい色のきんぱつを、美しいだろうとまんするようにかき上げるくせがある。色に罪はなくとも、たっぷりとした金髪が放つ色が煩わしい。それに比べて今日会った少女のかみ色は好ましかった。

 月明かりでも妖人の瞳は夜目がく。がんに真っびたくろかみは、つやがはっきり出て美しかった。あの黒髪は、月明かりを流し、目をうばう。

「ねえ、わたくし今日が誕生日なの。皆が盛大に祝ってくれたわ。おまえも祝ってちょうだい」

 レイルは視線を向けず月を見上げている。王女は額にかっと青筋を走らせた。母親であるおうも、白い額に青筋が走るりんが強い女だ。

「命令よ! 口づけて、祝辞を述べなさい!」

 王女の首筋にぶら下がっている、すぎる装飾をほどこされた白い宝玉は、レイルの命だ。王女はそれをにぎりしめ、声をあららげた。それはこんせきを奪った妖人への命じ方だ。

 命令を受ければ逆らえない。どれだけうらんでも、くちびるみ千切っても、命を絶つことすら不可能だ。だから魂石を奪われた妖人は、その命じ方を受けずとも言葉だけで従った。

 しかしレイルは、魂石を通した命令以外は決して応じなかった。だと分かっていても、余計な傷を負おうと、魂石を通して無理矢理下された命以外は指一本動かさない。ささやかなはんこうだ。いずれ、全員の首をねるまでの。

「おめでとうございます、マリアンヌ様」

 白いぶくろめた手を取り、ゆうに口づける。ごうしやな部屋の中、月明かりを背に王女が満足げに微笑ほほえむ。けれどれる口づけはどこまでも冷たいと、手袋しの彼女は気づかない。気づいたところでどうでもよいのだ。求めたときに求めたものが返れば、そこに意味も心も必要ない。それが支配だ。

 王女はいつも通り、今日あったことを話し始める。れいには何を言ってもいいと思っている人間は多い。だからレイルは自由のないまま事情通だ。

 どこの女がりんをし、どこの男がちよう簿し、どのじよが目の前の女のかげぐちたたき、どの衛兵が部下の骨を折り。王がかんげんした臣下を一族諸共焼きちにし、王妃が王にし上げられた側室の両親と元こんやく者を殺し、家臣達のふところが国費からうるおい続け。

 そんな、どうでもいい情報ばかりが膿んでいく。ここには新たに生まれるものなどありはしない。元々あるものがくさり落ちているばかりだ。

「アコディーはくしやくからのおくり物は大したことなかったわ。正直がっかり。もっと大きな宝石にしてくれると思っていたのに。最近りが悪いと聞いていたけれど、あれほどとは思わなかったわ。オン大臣からはらしかったわ。見て、このかみかざり。こんなにもダイヤを使っているの」

 贈り物についての評価は、レイルにとってどうでもいいことの筆頭だった。どうせその日の気分で評価が変わるのだ。それは彼女が語る物事の全てにおいて言えることだったが。

「でも、全体としては最悪だったわ。お母様はお父様が新しくむかえた側室のことでげんだし、お父様は側室への贈り物をわたくしへの贈り物を見て思いつくし、皆が連れてきてた子息は不細工ばかり。ぱっとしないわ。何より腹立たしいのはあの薬術師達よ!」

 急にを荒らげた王女の言葉に、レイルは思わず反応した。

「薬術師?」

 答えたレイルに王女は驚いた顔を向けたが、すぐに気紛れかと興味を失い、勝手にしやべり始めた。だんは命令以外でほとんど反応を示さない相手が興味を向けた事実より、己が話したい欲がまさるのだ。

「二人ともからすみたいに真っ黒な髪できたならしいし、一人は先のいくさで有名になったとかで、わたくしよりほかの興味を集めるのだからひどいの。何より、連れている護衛が子息なんかよりよほどれいなのが腹立たしくってよ。おまえのように、いいえ、おまえのほうがずっと綺麗よ? けれど、そこらの男よりはずっと美しくて、見せびらかすのだからいやらしい。あんな、はだいつさい出さない服で、男性を集めるのもきようだわ。わたくしのドレスのほうがよっぽどてきなのに。本当に最悪。やせっぽちでしようの一つもしていなくてみっともないし、ものめずらしさだけで囲まれてへらへらしているのに綺麗だなんて不当な評価よ。皆、物珍しいだけなのに。何が最悪かって、このわたくしのパーティーを台無しにしたのよ!」

 額に青筋が走る。その様は悋気にたける母親、パオイラの王妃によく似ていた。

「みっともなく走りながらもどってきて、もう一人の薬術師にしがみついて泣くのよ。無礼にもほどがあるわ! このわたくしが、わざわざ、声をかけてあげたのに、無視したのよ!」

 泣いたか。レイルは心の内で笑った。

 妖人が奴隷にされていて泣ける人間がどれだけいるだろう。レイルの前でなく、約束通りはなれてから。ここで泣けば憐れまれたと怒りもできた。人間お得意のあいに見せかけた自愛なのだとあざけりもできた。しいたげられた者を前に、なぐさめを期待してなみだを流す人間ほど信用できぬものはない。彼らの流す涙は、奴隷のために泣けるやさしい自分へのとうすいだ。

 今にも泣きだしそうな目元はこわっていたのに、最後まで口角をり上げて笑った顔を思い出したレイルの口元がふっとゆるむ。だが、あの薬臭い少女はそうしなかった。そこに価値をいだすなど簡単だ。目の前にいる女には、死ぬまで理解できないだろうが。


 信じられないものを見たと、自慢の顔をぽかんとほうけさせたマリアンヌは、ほおうすく染めた。十三歳の誕生日に父より贈られて四年、この妖人が笑う姿を初めて見たのだ。

「おまえ、笑えたの……?」

 すぐにこくはくみに変わった口元にかっとなり、むちちを呼ぶため口を開いた。しかし、とびらの前で待機させてある付き人は返事をしない。

「何よ! わたくしの声が聞こえないというの!」

 いらちは増すばかりだ。だれも彼もが使えない。今日はいつもよりもっとずっと、マリアンヌを世界中がたたえなければならない日だというのに。苛立ちのまま、ヒールでゆかを打つ。

「さあ、どうする」

 めずらしく少年から口を開いた。

「人間は本当に、群れで殺し合うのが好きな生き物だな」

 しかし、マリアンヌにはおどろひまも、言葉の意味を考える余裕もなかった。いかりでだり上がった思考に雑音が交ざる。何か、さわがしいのだ。いつだって呼びつける声だけが通りけるはずの場所で、誰かが大声を上げている。

 ぎようが悪い。まゆを寄せ、王族が住まう場所で声を荒らげる不届き者をばつそうと扉を開き、動きを止めた。一歩とも呼べぬきよを動かした足が、べちゃりと汚らしい何かをんだ。

「王女様、お下がりください!」

 じゆうこうな作りの扉一枚をへだてた先は真っ赤だった。いつもはしんっと静まり返っているろうに、せいけんがぶつかり合う音がひびき合う。

 折り重なって床にたおれる見慣れた服は、衛兵のものだ。服も、それをまと身体からだも、物言わぬ存在だ。かべの一部よりも置物らしく思っていたのに、置物が倒れてくだけるものはへんではなく赤黒い水だった。

 それらをちゆうちよなく踏みつけ立っている男達が、マリアンヌへと身体を向けた。

 足がふるえる。息が、できない。

 衛兵達が必死になってしんにゆう者を押し返そうとしている。だが、相手の数はあつとう的だ。

 ここはどこより安全な城のちゆうすう部。何より今日は誕生日。祝われて、誰からも視線を浴びて、幸せでなければならない日。たとえ、父親が新しく迎えた側室と、それに対する母親の悋気にばかり気を取られていても。母親が、新しく迎えられた側室をおとしめる言葉を必死に組み立て、いやがさしたとかたすくめる父親をすさまじい形相でにらみ続けていたとしても。

 マリアンヌは、幸せでなければならない日なのだ。

「いやぁ!」

 転がるように部屋の中へ戻り、薄ら笑いをかべている妖人の魂石を握りしめた。

「あいつらを殺してぇ!」

 悲鳴と共に命じ、震えながらおりを開いた手が、ぎくりと強張った。自分はいま、何と言った? あいつらと言った。敵と衛兵を区別しなかった。

 妖人を所有した際、持ち主は必ず自身を殺さぬよう命じる。だからおのれは、己だけは無事だ。それに人間が所有する妖人の多くは、たとえ命じていなくとも罰をおそれ、人間を害さない。だがこの妖人は、罰を恐れないのだ。

 息と悲鳴がぜになった音しか発せなくなったマリアンヌを、妖人はただ見下ろしていた。

 扉をやぶり部屋になだれ込んできた男達に、背後からかみつかまれる。まんきんぱつが無残に千切れていく。

「助けて」

 引きられながら手をばしたのに、妖人は口角を吊り上げたまま動かない。せいいつぱい伸ばしたてのひらは何も掴んでいない。彼の命は、持ち主の足に当たって、止まった。

 この美しい妖人は、こんせきで命じねば動かないと、マリアンヌはよく知っていた。そして、その魂石を人の手からうばい取ってはならぬとは命じても、手放されたそれに触れてはならぬとは、一言も。

 告げていなかった。

 己の魂石を、美しい指がすくい取る。ただそれだけの動作が、ひどく優雅に見えた。

「俺が、お前のたのみを聞く理由がどこにある? なあ、マリアンヌ様」

 月光を背負ったしなやかな一礼は、目の肥えた王女が見ても、世界で一番美しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る