ep7 理想的な生徒

 校庭を走り込む野球部員たちの掛け声。吹奏楽部の演奏が、遠くに響く。放課後の職員室には数名の教師が残り、課題の採点や、保護者からの電話対応をしている。

 2年2組の担任である増田ますだも、翌日の授業準備をしながら、ある生徒の到着を待っていた。


 夏休み明けに突然やって来た転校生の存在は、他の教師陣の間でも話題になっていた。時期的にも中途半端で、あまりにも唐突だったその転校生は、聞けば家庭環境も複雑なようである。なんでも、叔父が面倒を見ているそうだ。明らかに複雑な事情を抱えていることは察しがつく。そしてそのような家庭の子供が真っ当に育つはずがなく、どこかしら性格に歪みが生じるのは、教職を続けていればわかることだった。


 ――ただでさえ、うちのクラスには津田成海という問題児を抱えているのに――。


 しかし、篠原咲乃という生徒は、増田が想像していたのとは全く違っていた。彼は理想的で、模範的な生徒だった。転入時期のせいもあり、クラスに馴染むのも時間がかかるだろうと思われたが、あっという間に馴染んでしまった。

 協調性があり友人関係は良好。学業も真面目にこなし、提出物が遅れたことはない。遅刻欠席等は一切なく、成績は極めて優秀。勉学だけでなく、体育や音楽などの実技科目にも不足がない。性格は穏やかで柔軟。非常に理知的で感情面でのコントロールにも長けている。同級生と意見が合わないことがあっても、決して衝突せず相手の意見を尊重することができる。品行方正で教師などの大人への反発心がなく、聞き分けが良く素直。どの面をとっても篠原咲乃という生徒は理想と言える生徒だった。どの教師の口からも、咲乃を褒める言葉ばかり上がる。


 篠原咲乃は増田にとっての誇りだった。不登校の生徒を抱え全く改善の兆しの無い中で、篠原咲乃という優等生の転入は、まるで闇夜に浮かぶ明星だったのだ。



 職員室のドアが開いて、待っていた生徒が入ってきた。当番制で回していた、津田の家へ連絡物を届けるという役は、咲乃の好意ですべて引き受けてくれるようになった。転入してから咲乃の係だけが決まっていなかったので丁度良かった。


 増田はいつものように、用意しておいた茶封筒を手渡した。


「今日もすまないな。よろしく頼んだぞ」


 と言っても、今までプリントを届けて何か進展があったことは一度もない。定期的に家まで訪問しても、津田成海は一切応じなかった。わざわざプリントを生徒に家まで届かせることで、生徒同士の交流を……と思っていたのだが、それすら上手く行っているようには思えない。正直、津田成海がここまで固く心を閉ざしている以上は、復学の見込みはないように思えた。


「わかりました」


 咲乃は短く返事をして、封筒を受け取った。


「あの、先生。津田さんのことでご相談したいことがあるんですが、よろしいですか?」


 珍しくそう言った咲乃に、増田は驚いて目を大きくした。


「津田のこと? どうした」


 何か困ったことでもあったのかと心配していると、咲乃の口から意外な言葉が出た。


「実は最近、津田さんの勉強を見ているのですが」


「篠原が、津田に勉強を!?」


 今まで頼んできた生徒で、わざわざ彼女に関わろうとする生徒は一人もいなかった。みんな、一度もクラスに顔を出さないクラスメイトのことを不気味がっていたからだ。まさか、咲乃が津田成海と関わっていたとは思っていなかった。

 

「そうか……。いや……知らなかったな。篠原がそこまでしてくれているとは……。津田は勉強嫌いだから大変だっただろう?」


「そうでもないですよ。たしかに、津田さんは勉強には苦手意識を持っていたようでしたが、最近は少しずつやってくれています。今は、一年生で学ぶ範囲を教えています」


「そうか! よくやったぞ、篠原!」


 増田は、咲乃の自主的な行動に心から感心した。やはり、咲乃に頼んだのは正解だったようだ。


「それで先生にお願いなのですが、津田さんにテストを個別で受けさせてあげたいと思っているんです。お時間をいただけませんか?」


「津田にテストをか?」


「はい。努力の成果が見えれば、津田さんも自信につながると思うんです」


 増田は、首をひねって考えた。


「うちの学校では、個別でテストを受けさせたという事例は聞いたことがないからなぁ……」


 問題は、いつ、どこで実地するかだ。成海が学校に来ないのであれば何の意味もない。


「テストの実地に関してですが、自宅で受けられるようにしていただくか、放課後などの時間帯に、特別に実地していただけたらと思うんです。津田さんのために、どうか時間を作ってあげてくれませんか。お願いします」


 増田はなおも二の足を踏むように、うーんと唸り声をあげた。


「自宅でのテストが許可できるかは、先生一人では決められない。それに、1年の問題を用意するとなると、他学年の先生からの協力も必要になるだろうし……。こればかりは先生一人が決められることでもなぁ」


「他の先生にも、お話だけはしています。賛成はしていただけますが、やはり増田先生しだいだそうで……」


 他の先生の耳にはすでに入っている上で、好意的に受け止められているのであれば、担任である自分が渋るのもおかしな話しだ。増田は苦々しく考えた後、「わかった。職員会議で提案してみよう」と頷いた。


「しかし、篠原も頑張ったんだな。津田のやつ、人見知りするだろ。誰にも心を開かないんじゃないかと思っていたぞ」


 1年生の頃から受け持ちだった増田にとって、津田成海は苦手な部類の生徒だった。内向的で自分を出そうとしない彼女は、いつもぼんやりしていて何を考えているか分からない生徒だったのだ。


「もしかして津田のやつ、篠原に気があるんじゃないか?」


 ほんの冗談のつもりで言うと、「津田さんは、そんな人じゃありません」と咲乃がぴしゃりと遮った。いつも穏やかな咲乃にしては珍しい反応に、増田は、思わず笑った顔のまま表情をこわばらせた。


 咲乃は、悲しむように目を伏せた。


「きちんと向き合ってあげれば、応えてくれる人です。自分の気持ちを言葉にするのが苦手みたいなので、他人ひとからは誤解されるようですが……」


 夕日の柔い光が、彼の白く透明な肌を染める。長い睫毛が下に落ちると、その線がぼやけ光をはじくように、光沢に輝いているようにさえ見える。そのあまりの美しさに増田はたじろいだ。けして触れてはいけない美術品を前にしたときのような、危険な緊迫感がある。増田は息を呑んで、危うい静けさをもつその生徒を見つめた。


「……津田さんの悩みを聞いて、僕もクラスメイトとして津田さんのために何か力になりたいと思ったんです。最初は確かに大変でしたが、それでも津田さんは僕を信じてくれました」


 咲乃は溜息をつき、悲しそうに儚く笑った。


「津田さんも、津田さんなりに頑張っているのに、そんな風に言われてしまうのは……可哀想です」


 ひとりのクラスメイトのことを真剣に考えている咲乃に、増田は目が覚めるようだった。


「……そ、そうだな……そうだよな。悪かった。先生が軽率だったよ。せっかく津田がやる気をだしてくれているのに、それを茶化すみたいな言い方、だめだよな」


 津田成海のことは個人の問題だけではない。これはクラスの問題だ。クラスメイト一人ひとりが真剣に考え、向き合い、取り組まなければならない問題だ。咲乃の言葉に、改めて大事なことに気付かされる。


 今まで、彼のように真剣にクラスメイトのことを想う生徒は居なかった。もし、もっと早くに彼のような生徒がいてくれれば、津田は登校出来たかもしれないのに。


「津田の件はな、先生も困っていたんだ。クラスメイトなのにみんな関心がなくてな。冷たいものだよ」


 増田は心から感心した。まるで、咲乃が完璧で理想的な生徒像を体現するかのようだと。一番はじめに匙を投げた人間が、誰に問題を押し付けているのか。少年が、そう自分の担任を冷静に捉えていることなど知らずに。


「よし、わかった。津田のテストの件は先生に任せなさい。篠原のサポートもあれば、きっと津田も大丈夫だろう」


「ありがとうございます」


 増田が期待を込めて力強く咲乃の肩を叩くと、咲乃は眩いばかりの笑顔で礼を言った。


 急遽開かれた職員会議で、増田の提案は他の先生からの助言もあってスムーズに進んだ。学年担当の違う、1年生担当の教職人も全員協力的だった。津田成海の学校復帰を目指す貴重な機会として、日程も時間帯も、彼女の負担がないように配慮されて決められた。


 誰もが津田成海への特別な処置に賛同した。しかし、成海のために行動していた教師は、そこに誰一人いなかった。

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