ep5 腕に呪いを受けし者

「篠原、ちょっといいかな?」


 休み時間中、読書をして過ごしている咲乃に一人のクラスメイトが声をかけた。クラスメイトの名前は、重田陽介しげたようすけといった。彼は神谷の次に、親しくなった友人だ。他の男子のように咲乃に嫉妬したり、咲乃にあやかって女子にモテようというような下心なく接してくれる。


「ん、どうしたの?」


 咲乃が本から目を離して穏やかに問いかけると、重田は数学の教科書を咲乃に見せた。


「この問題がどうしてもわからなんだよ。よかったら、教えてくれないか?」


 サッカー部でエースを務めている重田だったが、数学が少し苦手だ。このままだと定期テストが危ういと、咲乃を頼りにしてきたのだ。


「うん、いいよ。ここはね――」


 咲乃が重田の勉強をみていると、二人の背後から神谷の顔がひょっこりと覗いた。


「お前ら、勉強やってんのかよ。せっかくの休み時間なのにもったいねーな」


 重田は文句あるかと神谷を睨んだ。


「今のうちに苦手分野をつぶしとかないと、テストのときに苦労するだろ」


「テストねぇ。んな、直前でやりゃあいいじゃん」


「ばーか、そんなこと言ってるから、後々後悔すんだって」


「後々ってなんだよ?」


「受験とか」


 大真面目に言う重田に、神谷はひぇーと嫌そうな声を上げた。


「俺たちまだ2年だぜ? もう受験のこと考えてんのかよ!」


 神谷は心底嫌な顔をしてしゃがみ込むと、咲乃の机にあごを乗せる。

 

「重田には、行きたい高校があるの?」


 偏差値の高い進学校を目指すのであれば、既に受験を意識していてもおかしくはない。咲乃が興味を持って尋ねると、重田は照れくさそうに頬をかいた。


「静岡の方にサッカー部が強い高校があるんだよ。スポーツ推薦で入れればいいけど、受験勉強も視野に入れないとと思ってさ。篠原は、高校とか考えてる?」


「俺は一応、桜花咲おうかさき学園高校にしようと思ってるよ」


「桜花咲ってマジ!?」


 重田が身を乗り出して尋ねると、咲乃は困った顔で笑った。


「そんなに大げさなことでもないよ。重田みたいにやりたいことがあるわけではないし」


「そんなことないだろ。桜花咲を受けるってだけで、十分すごいことだと思うんだけど!」


 重田は目を輝かせて、咲乃を尊敬したように見つめた。


 二人のやりとりを眺めていた神谷は、強く机を叩き、勢いよく立ち上がった。


「んじゃ、俺もそこにしよ」


「いや、おまえじゃ無理だろ」


 神谷の宣言に、すかさず重田の突っ込みが入った。


「桜花咲って、偏差値70以上ある難関私立校だぞ。バカが行けるわけないだろ」


「わかってねーな。この俺にどれだけの可能性に満ちあふれてるかってことをよ」


 神谷はどんと胸を張った。


「かの偉大なプロレスラーも言ってたぜ。“元気があれば何でもできる!”ってな。んじゃ、トイレ行ってくるわ」


 咲乃と重田は神谷の後姿を見送り、嵐が去ったようだと感じていた。


「篠原、おまえ厄介な奴に気に入られたな」


 重田に言われて、咲乃は何とも答えず曖昧に笑った。





「篠原くん、桜花咲を目指してるって本当?」


 美術の授業中、山口彩美やまぐちあやみは、となりに座る咲乃に話しかけた。各自、好きなものを持ってきて、それをモデルにデッサンをするという内容の授業だったが、咲乃は教室の花を持って来たようだ。普段、教室の風景に溶け込んで忘れられているその花は、透明な一輪挿しの中で、淑やかな純白の花びらに日の光を受けて美しくきらきら輝いている。


「うん、本当だよ」


 咲乃は視線を花に向けたまま、手を止めずに応えた。長く細い指で鉛筆を持ち、手早く手を動かして、白い画用紙に美しい花を咲かせている。彩美はうっとりとその手を見つめた。気を抜くと、咲乃の繊細な手の動きに見惚れてしまいそうだった。


「すーごい! もう受験のことまで考えてるなんて、篠原くんさすがだなぁ!」


 彩美はつぶらな大きい瞳をきらきら輝かせて、咲乃を尊敬するように見つめた。実はこの時、彩美は内心焦っていた。咲乃が転校して来てからもう何日も経つが、未だにふたりの関係には進展がない。折角くじ引きで同じ班になったのだ。関係を進展させるとしたら、今、この時しかない!


 ひとりで燃え上がっていた彩美に、不意に咲乃が目を向けた。


「そんなことはないよ。山口さんも勉強出来るし、行こうと思えばどこにでも行けるんじゃない?」


 咲乃に褒められて、彩美の頬が真っ赤に染めあがった。


「そんな、さすがに桜花咲までは無理だよ。私は篠原くんほど努力家なわけじゃないし、特別勉強が好きなわけでもないから。やっぱり、篠原くんはすごいよ!」


 気恥ずかしさのあまり全力で謙遜すると、咲乃は穏やかに微笑んだ。


「ありがとう。でも、山口さんは、勉強だけじゃなくて部活も頑張っているし、俺はそっちの方がすごいと思うよ。尊敬する」


 咲乃に「尊敬する」と言われて、彩美は嬉しいやらはずかしいやらで頭がぼおっとした。いつも自分が一方的に咲乃を見ているだけだと思っていた。しかし、咲乃はちゃんと自分を見ていてくれたのだ。


「俺はもう完成したから、先に失礼するね。山口さんも早くしないと、授業が終わっちゃうよ」


 浮かれてしまってすっかり手が止まっていた彩美は、慌ててデッサンの続きを始めた。





 描き終わった生徒は、美術の先生に完成した作品を見せに行く。一発で合格点をもらう生徒もいれば、先生からアドバイスをもらい、何回か修正してようやく合格点をもらう生徒もいた。先生から合格点がもらえると、その後はトイレに行くなり、友達のもとへ見に行くなり、本を読むなり、自由に過ごして構わないことになっている。


 美術の先生から合格点をもらった咲乃が、神谷の様子を見に行くと、神谷は空のペットボトルを前に唸っていた。画用紙を覗くと、明らかにペットボトルの形が歪んでいる。


「クソッ、言うことを聞け! 聞くんだ!」


「何をやっているの。神谷」


 自分の手首を掴み、独り言をつぶやいている神谷に話しかけると、神谷は暴れだす左手(手動)を必死で抑え込んだ。


「魔獣が疼いて手が動かねぇ!」


 聞くんじゃなかったと咲乃が後悔していると、「アホなこと言ってないで早く描け」と、美術の先生の注意が飛んだ。


「篠原、ちょっと手伝ってやりなさい」


 この様子では授業内に絵が完成しないと判断した先生が、咲乃に手助けを頼んだ。咲乃は神谷の画用紙を受け取ると、空のペットボトルを描写する。いびつだったペットボトルの形が修正されていく様子に、神谷は感心するように目を大きくさせた。


「形はできたから、陰影は自分でつけてね」


 咲乃は最低限まで描いて、神谷に渡すと、神谷は必死にその続きを描いて、予鈴がなるギリギリまで粘って美術の先生に提出した。



 授業が終わり、美術室から廊下を出て行く流れの中で、彩美はがっかりして溜息をついた。結局、授業中に同じ班になった咲乃との仲を進展させることは出来なかった。


 今日こそはって、思ってたのにな……。


 心の中で呟くと、人混みのなかで咲乃の後姿が目に入る。話しかけるなら、今がチャンスだ。


「あっ、しの――っ!」


 咲乃のとなりに神谷がいるのを見つけて、彩美の声が止まる。


「またアイツ……?」


 彩美が話しかけようとすると、いつも咲乃の傍には神谷がいる。咲乃の親友だと勝手に名乗っているが、いつも咲乃に迷惑をかけているだけなのに……。


「なんでアイツなんかが篠原くんと一緒にいれるのよ」


 そもそも、ガサツでデリカシーの欠片のない神谷が、高潔な篠原くんの親友だと名乗ってること自体があり得ない。咲乃が優しいから付き合ってあげているだけで、本当はあんなバカ、咲乃はふさわしくない。


 私だって、篠原君と仲良くなりたいのに。


 彩美は、神谷の背中を憎しみを込めて睨んだ。昔から大きい声で騒いでるだけの神谷が嫌いだったが、益々憎らしく感じる。神谷なんか、大っきらい。あんなヤツいなくなればいいのにと、彩美は心の中で神谷を罵った。

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