第10話 「学生運動」の幻想

学生運動の最大の罪悪、それは学生から「恋」を奪ってしまったこと。普通に授業を受け、サークル活動をしていれば、教室で・キャンパスで・学食で・図書館で生まれるはずであろう「恋をする」場と機会を、学生運動というインテリのお遊びが奪ってしまった。「あんなものに引っかかることさえなければ」という思いは、「20歳の原点」多くの読者にあるにちがいない。高野悦子さん くらい頭がよく、ガッツがあり、前向きな女性(人間)であれば相当の人になっていたでしょう。大学教授、芸術家、冒険家・探検家、ビジネスウーマン。他の多くの学生と同じく、高野悦子さんも機動隊との戦いの中、その緊張感に真実を見ていたのでしょうが、当時の学生運動とは、インテリ学生たちの言葉の遊びでしかなかった。それが幻想であると気づいた時、彼女にとっては少なからずショックであったことでしょう。   ただ、彼女の日記からすると、学生運動に於ける暴力や破壊は非常に嫌っていらしたようで、同じ意味で、国家権力・機動隊(警察)という暴力装置も、非常に憎んでいた。  

「明治は遠くなりにけり」

55年前は、学生も市民も熱かった。今や「身体を張って権力と戦う」なんて、夢の夢。今の若者は、スマホのゲームで戦うのが、精々か。

→ 大学日本拳法の重要性


<参考> 訳のわからないことを口走る「革命戦士」たち

→ インテリの「言葉の遊び」。


「高野さんの〝死〟を生きよ」

 68~69年学園闘争の中で、ぼくたちは、よく「自己否定」、その主体である「全共闘」という言葉を日常用語として使う。しかし、「自己否定」「全共闘」の言葉の持つ意味、その言葉を吐くぼくたちのレーゾン・デートルをはっきりと踏まえているのだろうか。それを踏まえてないかぎり、僕たちは、今から語ろうとする、一人の立命闘争における同志の死を単なる生物学的な死へと陥しいれ、「自己否定」、「全共闘」は単なる薄ぺらな言葉、死んだ言葉でしかなくなり、ぼくたちの思想を語らない。

 中川会館封鎖、恒心館封鎖、機動隊導入で先頭になって闘っていた日本史闘争委員会3回生高野悦子さん、6月24日、下宿で自殺。それは、(直接的な原因は何であれ)死という形態をとることによってか、立命闘争、全共闘運動を貫徹できえなかったという意味において、立命闘争の内の死、立命闘争に関わり、関わった者すべての死であり、覆ってはいてもぼくたち一人一人が厳としてもっている恥部として視ねばならない。

 「自己否定」の思想をぼくたちは全共闘組織運動の原点として設定する、自己否定とは、自からの存在領域をたしかめ、存在証明をいかにして得るか、そこに始点をもつ。存在はハイデッガーのいう如くには、存在それ自身としては、認知しえず、情況と自己とのかかわりの中から実践的直観として認識の第一歩は始まり、それをバネにして、存在形態(労働力商品化として外部にからめとられ歪曲されている)につきあたる。その存在形態に対する反逆をただちに準備するが、反逆こそは、自己限定に他ならない。(具体的な学園闘争では、ここからここまでが自らの領域であるという〝占拠〟となって発現する)しかしながら自己限定は、単なる他者と自己の区別にすぎず、自己限定は自己権力と高められる。(個別学園闘争から全国学園闘争への転化は、その過程として位置づけられる)

 かかる過程において、 ・・・・。

(「ある視角─「自己否定」の思想」『立命館学園新聞昭和44年7月14日』(立命館大学新聞社、1969年))。

 ※記事中で死亡場所が「下宿」とあるのは誤りである。

(高野悦子「二十歳の原点」案内 https://www.takanoetsuko.com/shogen.html より引用)

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