第7話 死ぬまで独りで戦った高野悦子さん

  戦うとは、自分と他を区別すること。

  オレはお前のものではない。

オレはお前の考えや感じ方に影響されない。オレはオレ、という魂の自主独立を守るための抵抗であり、より自分自身を掘り下げるための努力・前進なのです。

私たち日本人の場合、「独りであること(真の自分を見いだそうと煩悶する)、未熟であること(外向けの仮面を付けることに躊躇う)」と、悩む時期が必ずある。そして、それをまるで麻疹(はしか)のように経験することで、二十歳過ぎには安定した人格になれる。

高野悦子さんは、最後まで自分と他とをClarify・Classify(明確に区分する)する努力に徹した。普通の人のように、麻疹でうやむやにしてしまう・終わらせることをしなかった。しかしその結果、「20年間、徹底的に独りであること」によって、真の自分を明確に浮き彫りにできた(帰りの切符を手にした)のです。


自分と他が不明瞭であれば、再び自分として人生を開始することはできない。

  親であろうと兄弟であろうと、恋人だろうが妻や夫であろうが、自分は自分という明確な区分がなければ、見た目には別の人間でも、形而上ではグチャグチャに入り交じった人格の群れとなって、誰がどの魂かを判別できない。

高野悦子さんは、生きているうちに「魂の判別ができる」までに自分を追い込み、追求し、浮き彫りにできたが故に、帰りの切符を手にしたのです。



韓国人が精神分裂症といわれるのは、彼らが、その土地土地の人間に同化しようとするから。日本に来れば日本名を使い、本名というものがない。

彼らは高野悦子さんのように自他の区別を幻覚・明確にすることはあり得ない。自分自身の中でさえ、内面と外面の違いに煩悶するようなことはない。魂はグチャグチャでも気にしない。


「韓流」なんていきがってみても、つまりは日流や米流の焼き直し。

モノマネ人生というのは(韓国)人の精神を不安定にしている。すぐにその土地や人に順応しても、完全なるパクり(全く消化しないでそのまま飲み込んでしまう)から、あとで精神的に障害が出る。

グチャグチャ・ゴチャゴチャの人格で居た方が、むしろ彼らにとっては安穏できる。都合が悪くなれば、別の人格に移動できるから。

しかし、当然のことながら、いろいろな人格がグチャグチャに入り交じっているから、ちょっとした要因で分裂が不安定となり、挙げ句、定まり処のない魂は、小学生の首を切り落としたり、小学校へ闖入して何人もの子供を刺し殺したり、養老院で無抵抗のお年寄りを19人も殺したりといった「狂気の妄想」へ向かう。

私たち日本人でも「ぶち○してやる」なんて気持ちになることはしょっちゅうだろう、東京のようなストレスのたまる町では、特に。だが、魂の行き場所が一つの日本人の場合、その狂気の思いが現実化することはない。

日本では「精神に異常を来した一瞬に発生した。或いは、精神が錯乱した状態だった」というエクスキューズが成立してしまうから、今後も彼らのこういう狂気は無限にこの日本で発生するだろう。

コンピューターで言えば、一つのコンピューターの中に無数のOSがあるようなもの。今、どのOSが自分という人間をコントロールしているかわからない。それを追求してもわからない。放っておけば、いつかなにかのトリガーで在日韓国人という、日本人でもない韓国人でもない「AI」は暴走する。

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