三章 1話
三章
幼い子供が、走っている。
ぼろぼろの外套を纏い、息を切らせて、薄暗い路地を駆けている。
泥だらけの汚い灰色の髪が、風になびく。
(あぁ……また、この夢か)
何度も見た夢だった。
そしてこれは、アッシュの幼いころの記憶そのものだった。
子供の手の中には、巾着状の財布が握られている。それを大事そうに抱きかかえながら、子供はとにかく走っている。
細く狭い路地裏へと逃げこんだ。はぁはぁと荒く呼吸して、その場にしゃがむ。
両手で口元を抑え、気配を消した。
大人たちの走る音が、どたどたと過ぎ去っていく。
それを確認してから、子供は財布の紐を解いた。
「……クク、ははっ」
細かい傷の目立つ顔が、笑いの形に歪む。
財布の中身は――金貨が一枚、銀貨が六枚。
過去最高の収穫に、子供の心臓がどくりと跳ねる。
「これで、しばらくは生きていける――」
この子供には、家族がいない。
この子供には、帰る家がない。
だから、こうやって盗みで食いつなぐしかなかったのだ。
(――そうか。このとき、だったのか)
思えば。
この瞬間に、金を得ることの喜びを知ったのかもしれない。
この世界では金こそ全てだと、そう悟ったのかもしれない。
「ククク……は、ははははははは――――」
金ってやつは素晴らしい、と思う。
だって、金さえあれば、今日を生きていけるのだから。
金が、人間の価値を決定づけるのだから。
金こそ、全てなのだから。
◇◇◇
目が覚める。
ぼやけた頭が最初に浮かべたのは、昨夜の記憶だった。
「…………ははっ。最悪だな、マジで」
少しずつ、記憶を辿っていく。アルバートとの戦闘を制したこと。〈禁忌の魔導書〉を盗んだこと。ツバキに裏切られ、まんまとお宝を奪われたこと。なぜかシンシアに命を救われたこと。最後に、ちゃっちい手錠をかけられて――
「……ん?」
ふと、気づく。
両手が、自由に動かせた。
それだけじゃない。背中にはふかふかの感触があり、空気からは古臭くも清潔な香りがした。見上げてみると、木目のおんぼろ天井があった。視線を下げると、やはり手錠など見当たらない。そして何より正面には、
「おはよっ、アッシュくん」
絹のような金色のロングヘアに、あどけなさと大人びた魅力が同居した顔立ち。
そんな美しい少女――シンシアが、じっとこちらを見つめていた。
「はい、これ持って?」
と、シンシアが右手に握った棒のような何かを差し出してくる。
よくよく見ると、それは竹ぼうきだった。
「ほら、早くする」
「…………?」
しばらくの間、アッシュは固まっていた。
数秒が過ぎる。
そしてようやく、それが自身に向けられた言葉だと気づく。
「……早くって、なにを」
「む。もしかして、まだ眠たいの? でもわたし、そういうとこには厳しく行こうと思ってるから。だからほら、しゃきっと起きて、仕事の支度する」
「……仕事?」
思わず聞き返すと、
「そう、仕事。きみ、今日からわたしの屋敷で働いてもらうから」
よくわからない答えが、返ってくる。
「……なんで」
「なんでって、それは、その――」
くるり、とシンシアは竹ぼうきを器用に一回転させた。
その尖端をアッシュへと突きつけて、
「――死刑と、掃除。きみ、どっちがいい?」
改めて、よくわからないことを告げてきた。
◇◇◇
「――というわけで、本日よりアッシュ様の上司となります、使用人のベルと申します。以後、どうぞよろしくお願いします」
ぺこり、と。
メイド服の少女――ベルが、礼儀正しくお辞儀をしてくる。
「いや、意味わかんねぇって……」
一方のアッシュは、まだ脳が現実に追いついていない状態だった。
それでもとりあえず、状況を整理してみる。痛ましい敗北から一晩、シンシアの屋敷の空き部屋にて、アッシュは朝を迎えた。現在の服装は、着心地の悪い執事服。手には竹ぼうき。目の前には「上司だ」と主張するベル。隣には、
「ね、どう? 似合ってる?」
くるりひらひら、とメイド服姿を見せびらかせてくるシンシア。短いスカートが風に揺れ、ふとももの付け根がチラリと見える。ディランならば悶絶するような――今となっては思い出したくもない名前だが――、そんな類いの絶景だった。金色の髪をツインテールで結んでいるのは、動きやすさとカチューシャの形状を考慮してだろう。
……とまぁ、いちおう再確認してみたものの。
やはりというか、まるで意味がわからない。
「早速ですが、本日の分担を発表させていただきます」
アッシュの困惑など知らぬ顔で、ベルは淡々と話を進める。
「昨夜の怪盗『灰仮面』との交戦にて、ただでさえボロい当屋敷は、トドメを刺されんばかりの甚大な被害を受けました。私は屋根の修繕に専念しますので、お嬢様とアッシュ様は、ひとまず廊下に散らばる瓦礫の清掃をお願いします」
「な……なぁ、おい!」
ここでようやく、疑問を口にできるだけの思考を取り戻す。
「これは……その、どういうことなんだよ」
「はて。どう、とは?」
きょとん、とベルに首をかしげられる。
アッシュは灰色の髪をかきながら、
「――俺は、怪盗『灰仮面』なんだぞ」
それが、どうしても不可解だった。
アッシュは怪盗で、つまりは悪だ。それも、なかなか大規模な被害額を叩き出してきたわけだし、それなりの大罪人だという自負がある。
そんなアッシュも、昨夜、惨めなまでの敗北を喫した。
最後には、シンシアに拘束をされた。
そもそもあの場で殺すべきだったのだろうが……それはまぁ、今はいい。
ともかくだ。あの程度のものを拘束と呼べるかはさておき、騎士が悪党を捕らえたのだから、その次の行動は詰所への連行と決まっている。そこでアッシュの罪の判決が下り、しかるべき処罰が実刑されるはずだった。
なのに、アッシュは今、どういうわけか竹ぼうきを握っている。
この状況を飲みこめと言われても、できるわけがない。
「でもきみ、たぶん死刑だよ?」
こともなげに、シンシアは言った。
「だったらさ。わたしの屋敷で仕事したほうがマシじゃない?」
その言葉の意味をそのまま受け取ると、つまり、
「俺を、匿うつもりかよ」
そういうこと、になる。
「うーん……、匿うというか、さ」
と、シンシアは桜色の唇に指を添えて、
「セントシア王国の刑罰だけが、償いの方法ってわけじゃないでしょ? だからね、きみの罪は、わたしが裁くことにしたの。屋敷での仕事は、そのうちのひとつ。そういうわけだから。きみには諦めて働いてもらうからね?」
「……なんだよ、そりゃ」
ふい、と視線を斜めに逸らす。
いつだったか、ベルから聞いた言葉を思い出す。
――シンシアお嬢様は……少し変わっている、のです。
――優しいのです。
――少し……いえ、とても優しすぎるのです。その余り、時折ですが、おかしな行動をなさることがございまして……
なるほど――このシンシア=ユースティスという少女は、たしかに変人だ。
優しすぎるあまりに、正常な思考を欠いている、れっきとした異常者である。
(……ハッ。なら、せいぜい利用させてもらうかね)
心の中だけで、アッシュは笑う。
何もかもを失ったと思っていたけれど、奇跡的に、命だけが残った。
まだ、勝機はある。
だから今は、この幸運を活用しよう。起死回生の機会を狙うための隠れ蓑として、ぞんぶんに利用してやろうと、そう決意する。
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