二章 5話
あぁ――どうしてだよ、と思う。
あとは逃げるだけのはずだった。隠れ家に帰って、お宝を金に換えて、莫大すぎる財産を手に入れる算段だった。それこそ、貴族の爵位すら買えてしまうほどの金額を。
そうして、アッシュは〝野望〟に迫るはずだった。
何もかもが順調だと、本気でそう思っていた。
それがどうして、こんな結末になる。
「――うん、そうなの。治癒の魔法なら、わたしよりもベルのほうが……わ、わかってるって。お説教なら、あとでいっぱい受けるから……」
何やら通信の魔導石を使っているらしいシンシアが、悩ましげな息をついた。
通信を切ると、その精緻に整った顔が、まっすぐにアッシュを見る。
「ねぇ、きみ」
翠玉色の双眸と、視線が交わる。
「……んだよ」
アッシュは、空っぽな返事をした。
ムカつくことに、ツバキの魔法による拘束は健在だった。つまりアッシュは、いまだに身動きひとつ取れない状態というわけだ。
そしてどうやら、このシンシア=ユースティスという少女は、騎士であるらしい。秩序と正義の使者である騎士にとって、怪盗などという悪は敵でしかない。ついでに言えば、シンシアのような位の低い貴族は、アッシュのようなそこそこの悪党を仕留めれば、劇的な格上げを狙えるという立場にある。
要するに。今のアッシュは、彼女にとって格好の餌食というわけだ。
「……ごめんね。ちょっとだけ我慢してくれると、嬉しいかな」
言いながら、シンシアは歩みを寄せてきた。
カチャリ、腰の細剣が引き抜かれる。
「…………」
これから起きることなど、想像に容易いことだ。
美しい造形を誇るその細剣も、やはり命を奪うための道具。それを手にした正義の騎士が、悪の怪盗と距離を詰めようとしている。その先など、もはや言うまでもない。
――正直に言えば、死にたくない。
だけど、死ぬなら今日だろうな、とは思う。
アッシュは今日、何もかもを失った。共犯者だと勘違いしていた少女を、良き協力者だと思っていた男の信頼を失った。これまで盗んできたお宝だって、自分のもとに帰ってくる可能性は極めて薄い。
アッシュの未来は、ついさっき途絶えた。
だからもう、今日死のうとも、明日死のうとも、関係のない話
「……なあ、シンシア=ユースティス。せめて、一撃でやってくれよな」
虚しく笑って、少女を見やる。
シンシアは、こくりと無言で頷いた。
瞬間、
剣閃が、迸った。
「………………は」
その違和感に気がついたのは、たっぷり数秒の時間が経ってからだった。
見事な斬撃を喰らったはずなのに、痛みすら感じない。それどころか、
「動、ける……?」
アッシュの手足が、なぜか自由を取り戻していた。
あの忌々しい影による拘束が、きれいさっぱり解かれていた。
「――はい! これでもう、きみは逃げられないからね?」
カチャリ、と小さな音。
見ると、簡易式の手錠により、アッシュの両手が拘束されていた。
「ふふん。わたし、お手柄あげちゃった」
ドヤっとした顔をして、シンシアは胸を張った。
ここでようやく、アッシュの思考が状況に追いつく。
そう――シンシア=ユースティスの細剣は、アッシュの手足を縛っていた影だけを器用に斬り裂いたのだ。光属性の魔法を剣身に載せれば、そういう芸当も可能になる。そして、それを実現させるだけの剣術の腕を、彼女は備えていたということだろう。
けれど。
そんなことをした意味など、アッシュには不可解で。
だから、聞かずにはいられなかった。
「……俺を、殺さねぇのかよ」
きょとんと、シンシアは首をかしげる。
「な、なんでそうなるの。殺すなんて、そんな……」
「誤魔化すな。この状況で、俺を見逃す理由がねぇだろ。それともアレか? 俺を殺さずに捕らえようだとか、そんな甘っちょろいことでも考えてんのか? だとしたら、お前は俺を舐めすぎだ。こんなちっぽけな手錠、この俺にかかれば――」
「――わたしね。きみのこと、助けたいんだ」
にへへ、と笑って。
あたかも当然のことのように、金色の髪の少女は、そう言った。
「わたしはね。ひとは、誰でも幸せになれると思ってるの」
あどけない笑顔のまま、シンシアは言葉を続ける。
「きみみたいな悪いひとでも、ぜったいに幸せになれる。わたしはただ、その手助けをしてあげたいだけ。きっと、きみの力になれるはずだから」
「…………」
「だから、お願い。きみには、逃げないでほしいかな」
「…………お前、さ」
ぼそり、アッシュは声をこぼす。
「逃げんなってならさ。どうして、あの影の魔法を斬った」
「……へ?」
「こんな手錠じゃなく、あのままだったら、俺には逃げようがなかったってことだよ」
「…………あっ」
盲点だった、という間の抜けた顔をシンシアは浮かべる。
一瞬だけ時が止まった。気がした。
「い……いいから! ほら、こっち!」
そう言うと、シンシアの白くて細い指が、アッシュの腕――手錠のかかっている――をぎゅっと握ってきた。
そのままくるりと彼女は振り向くと、開けっ放しの鉄扉の奥、つまり金庫室内をじっと見て、その先を「ん!」と顎で示した。
「……どうしろと」
「隠れてて? ほかの警護のひとに見つかったら、たぶんきみ、殺されちゃうし」
「お前、マジでどういうつもり――――」
「あぁもう、うるさいなぁ! はい、またあとでねっ!」
「――――だっ!?」
ずどーん。背中を思いきり突き飛ばされる。
不意打ちであったし、手錠のせいでバランスも取りにくい。その勢いのまま、アッシュは金庫室の床に倒れ伏せた。
ギギギ、鉄扉が閉ざされる。
あっという間に、暗闇の中に取り残される。
「…………なんなんだよ、クソ」
手元を見る。
ただの鉄製の手錠。こんなもの、アッシュにとっては拘束にすら成り得ない。
脱走をしようと思えば、今この瞬間にだって可能だろう。
可能、なのだろうけど――。
(…………疲れた、な)
今はとにかく休もう、と思う。
瞳を閉じる。
暗闇の奥に、意識が落ちていく。
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