二章 4話
シンシアがたったいま聞いたのは、男の悲鳴だった。
作戦については、頭に入れてある。怪盗『灰仮面』の侵入ルートについても、なんとなく把握している。屋根の爆破という陽動にひっかかり、こっそりと窓から侵入され、警護が次々と無力化されていったことも、知らされていた。
そして、最後の砦だったアルバートすら倒されたことも。
つまり作戦が失敗だという事実を、シンシアは受け入れたつもりだ。
だからこそ、理解できなかった。
『――――こちら二階! 何者かの……ぐ、ああああぁあああァ…………』
ブツリ、と。
魔導石の通信が、またひとつ、強制的に遮断された。
「……ねぇ、ベル」
シンシアは喉を絞る。
か細い声しか、出てくれなかった。
「いったい、何が起きてるの……?」
最初の悲鳴は、屋根裏の警護からだった。
そこから連鎖するように、次々と悲鳴が届くようになった。そうして警護の仲間たちが倒れていく絶叫を、大広間にいるシンシアは、ただ聞いていることしかできなかった。
怪盗『灰仮面』は、警護を突破したはずだ。
悔しいが、今ごろ金庫室の隠し部屋に侵入しているはずなのだ。
ならば、この悲鳴は――?
「……ううん。じっと考えてても、だめだよね」
腰に差した細剣の柄に、そっと触れる。
すぅ、はぁ、と深呼吸して、
「ベル、お願いがあるの」
「なりません」
「……わたし、まだ何も言ってないんだけど」
「お嬢様の考えることなど、この私にはお見通しなのです。お優しいお嬢様のことですから、アルバート様たちの救出をお考えなのでしょう?」
そこまで言って、しかしベルは首を横に振った。
「ですが、許すわけにはいきません。お嬢様をお守りすることが、この私の役目なのです。私は、お嬢様のメイドですから。この命を、お嬢様のために使いたいのです」
あぁ――やっぱり、ベルには敵わないな。
けれど。だからといって、引き下がるわけにはいかなかった。
「……ベル、ごめんね?」
ぺろり、と舌を覗かせてみせる。
瞬間、シンシアは魔法を発動させた。
シンシアだって、これでも『セントシア聖騎士団』の一員なのだ。魔法の腕に関しては、ちょっとだけ自信がある。
「っ、お嬢さ――――」
ベルの呼びかけを、ゴゴゴという音が遮った。
その直後、床から生えるかのようにして、土の壁が形成される。
土属性の魔法である。見た目よりも薄くて脆い壁だが、足止めにはちょうどいい。
――ベルには、安全なところで待ってて欲しい。
そんなことを心の中で思いながら、シンシアは駆け出した。
◇◇◇
不思議なもので、長いはしごが一瞬だったように感じた。
もちろん、それが体感時間がうんぬんの、つまり気のせいだということを、アッシュは理解している。けれどそれだけ、今の自分は気分がいいというわけだ。
ぐるりと金庫室内を見渡してみる。
さて、脱出ルートをおさらいしようと思う。侵入のときと違って、脱出は単純かつ容易だ。ただ外にさえ出てしまえばいいのである。それが成功すれば、あとは一目散に逃げるだけ。この漆黒の外套には、追跡系の魔法を阻害するための小細工がしてある。追っ手を撒くことなど、アッシュには朝飯前というやつだ。
「さぁて、とっとと帰ってメシでも食うか」
調子よく呟いて、鉄扉の取っ手に触れる。
念のため、右手には〈マギア・リボルバー〉を構えておく。残弾は光属性の銃弾のみだが、これは目眩ましの性能に優れている。逃走には充分だろう。
ギギギ、と重い鉄扉を押し開き、
「……ん?」
悪臭がした。
鼻奥に絡みつくような異臭。不快感とともに、ちょっとした吐き気が込み上がってくる。
鉄のような、酸のような、生臭い――
それは、死臭だった。
「な、ん――」
嗅覚で気づいたのではない。
それを、視界で捉えたから。捉えてしまったから。
倒れ伏せたアルバートが、鮮血に塗れていた。
「――――っ」
言葉が出ない。足が動かない。
それでも、ほとんど本能的にアルバートを凝視してしまう。その胸部に、斬り裂かれたような痕があるのを視認できた。
しかし、その原因とか、生死の確認とか、そういうことに思考を回せるほど、脳はまだまともな稼働をしてくれなかった。
先ほどの戦闘では、アッシュは、ここまでやっていない。
ただ、雷属性の銃弾を撃っただけだ。神経を麻痺させただけのはずだ。
そんなことばかりを、アッシュは考えていた。
だから――最初、気づけなかった。
この場に、ひとりの少女の気配があることに。
気配が、こちらに気づく。
「――起きたら面倒かなって、そう思ったんすよ」
聞き馴染みのある声だった。
よく知っている声だった。
「だからまぁ、追い打ちしとこうかなって。センパイ、けっこう詰めが甘いときあるっすからねぇ。あたし、こういうのは完璧にやっときたい主義なんすよ」
その声に、アッシュの意識が吸い寄せられる。
視界が、少女の顔を捉えた。
「……おまえ、は」
ちょこんと後ろで結んだ黒い短髪に、鮮やかな緋色の瞳。
小柄な体躯と、やたらと露出と網目の多い着物。
あぁ――見間違えるはずがない。だって、この少女は、
「ツバ、キ?」
「そうっすよ? あたしっす」
にやり、と。
少女――ツバキの表情が、妖艶に歪む。
その右手には、見慣れない形の短剣が握られていた。
「あ、これっすか?」
ぽたり。その短剣の刃から、紅い滴が垂れる。
「これ、クナイって名前の武器っすよ。あたしの祖国に代々伝わる、由緒の正しいようなそうでもないような、あたしにもよくわからない暗器っす」
「……んなこと、聞いてねぇよ」
アッシュは、鋭くツバキを睨みつけた。
「答えろ。どうして、お前がここにいる」
「もう、センパイったら。そんなの、ひとつに決まってるじゃないっすか」
いつものような、砕けた調子で。
けれど、アッシュの知らない不気味な笑顔で。
「あたしの目的は、〈禁忌の魔導書〉を手に入れること――」
はっきりと。
ツバキは、笑顔で告げた。
「――センパイから、お宝を奪い取ることっすよ?」
瞬間。
アッシュの足元で、何かが蠢いた。
「……ッ!? なん――」
蠢いた何かの正体が影であると、一瞬遅れて理解する。
そのときにはもう、全てが手遅れだった。
不気味に蠢いた影が、四本の手のような形を造った。その直後には、アッシュの両足が影の手にがっしりと掴まれ、動きを封じられていた。それに気を取られた一瞬のうちに、残りの二本の影の手が伸びてくる。回避できるほどの余裕などなく、両腕までもが拘束され、完全に両手足の動きを奪われる。
「……ツバキ! こいつは、どういう――」
「紅桜流忍法、【影縫い】っすよ。あたしの祖国流の魔法っす」
噛みつくようなアッシュの言葉を遮って。
ツバキは唇に指先を当てて、静かに答えた。
「あたし。ずっと、センパイを利用してたんすよ」
「……は」
耳を、疑った。
彼女が何を言っているのか、わからなかった。
「その〈禁忌の魔導書〉は、ただ五千億のお宝ってだけじゃないんす。これには、とんでもない力の魔法が封印されている。でもでも、なんたってユースティス家の金庫の施錠が厳重っすから、みんな欲しくても手を出せなかったんすよねぇ」
「……お前ッ、まさか――」
「だからぁ、そう言ってるじゃないっすか。あたしはセンパイを利用して、その〈禁忌の魔導書〉を頂戴しちゃおうって企んでたんすよ。
まぁ、つまり――あたし、センパイを裏切ったんす」
「……――――ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、アッシュの中で、何かが切り替わった。
指が、勝手に動く。
拘束されているのは足と腕のみだ。指は動かせるから、〈マギア・リボルバー〉の引き金は下ろせる。そして幸いなことに、装填されている銃弾の属性は光。強烈な光には、影を弱める効果がある。この拘束が解けるくらいの出力には期待できるはずだ。
瞬間、光属性の銃弾が、
――銃弾は、放たれなかった。
「な……んで」
引き金を下ろす感触はあった。
銃弾を装填したときにも、違和感はなかったはずだ。
だったら、どうして――
「あはははっ。どうかしたんすか、センパイ?」
ツバキは、嘲笑っていた。
「あ、そうそう! その〈マギア・リボルバー〉の調整、どんな具合っすか? 今回のはあたしに任せてもらったわけっすし、責任重大っすよねぇ。ちゃんと全属性が使えればいいっすけど……あはっ、もしかしたら、一属性くらい抜けちゃってるかもっす」
「……ッ! そうか、あのとき……ッ!」
「あのとき? はてさて、なんのことっすか?」
ぺろり、とツバキは唇を舐めた。
それはまるで、獲物を前にした捕食者の仕草のようで。
「クソ……ッ!」
何か手を打たなければ、と思った。
けれど、何もできなかった。行動を封じられ、頼みの綱の〈マギア・リボルバー〉も使えない。ほかの魔導具も、ここまでの戦闘で使い果たしてしまっている。
つまり――抵抗の手段が、アッシュには残っていない。
「……なぁ、ツバキ」
わずかに首を動かして、ツバキの顔を見る。
いつも笑顔ばかり浮かべていたはずの表情が、今は底抜けに冷徹だった。
「……もう一度だけ、聞く。お前は、何のために、ここに来た」
「はぁ。あたし、何度も言ってるじゃないっすか。センパイから〈禁忌の魔導書〉を頂戴しに来たんすよー、って」
「……ははっ。心配しなくとも、分け前ならくれてやるぜ? なんなら、俺は折半でも構わない。なんたって、五千億の超大金だからな」
これは、冗談だ。
冗談でも言わないと、やってられなかった。
「むなしい強がりっすね。あぁ、可哀想なセンパイっす」
誰のせいで、こうなったと思ってやがる。
「――俺を、騙したのか」
喉でつっかえていた言葉。
それが、やっと声になった。
「…………だから、そうだって、言ってるのに」
ツバキの緋色の瞳が、少しだけ揺れたような気がした。
「ねぇ、センパイ。どうしようもないことって、あると思わないっすか?」
クナイに滴る鮮血を眺めながら、ツバキが唇を動かす。
「辛いことも、悲しいことも、痛いことも、嫌なことも。ぜんぶ、どうしようもないんすよ。あたしは……あたしたちは、それを受け入れるしかない。それが生きるってことなんだって、そうは思わないっすか?」
「……意味、わかんねぇよ」
「あたしにとってのコレは、どうしようもないことだって意味っす」
そっと、ツバキが歩み寄ってくる。
コツ、コツ、と、足音が迫る。
互いの吐息を感じるほどに、距離が縮む。
「そういうわけっすから。お宝は、あたしが頂戴していくっすよ」
ツバキの白くて小さな手が、アッシュの外套の内側に忍び込んだ。
拘束を振りほどけないアッシュには、やはり抵抗の術はない。
がさりとツバキの手が動き、〈禁忌の魔導書〉を探り当てて、奪い取る。
「……やめろ、ツバキ」
無駄だとわかっていても、口が動く。
「なぁ……いつから、なんだよ」
沸き立つ激情を抑えながら、声を絞り出す。
「いつから、俺を騙してた。俺たちは共犯者で、怪盗を名乗って、貴族どもを敵に回して、お宝を盗んで、金を得て……金こそ全てのこの世界で、俺たちには勝ち上がる力があった。俺たちの〝目標〟だって、夢物語じゃなかったはずだ。なのに……ッ!」
「あたし、演技力には自信があるんすよ」
返ってきたツバキの声音は、平淡だった。
「最初からっすよ。あたしとセンパイが運命的な出会いをした、あの日から。
王都をぶらぶらしてたセンパイから、あたしが財布を盗んで。あたしの財布ごと、それをセンパイが盗り返して。あたしがセンパイの腕を見込んだっぽいことを言って、怪盗のことを提案して。情報屋のことを話して、協力して、怪盗としての実力を鍛えて。
最終的に、〈禁忌の魔導書〉を盗んでもらうつもりだったんすよ、最初から」
「あいつも……ディランも、そっち側かよ」
「あのひとは中立っすね。お金さえ稼げればいいって、そんな感じのこと言ってたっす」
――少し考えれば、わかることだった。
そもそも、あのディランがタダで情報を寄越してきた時点で、罠を疑うべきだったのだ。
なのに、アッシュは疑わなかった。金額に目が眩み、冷静な判断ができなかった。
その結果が、これだ。
アッシュは――怪盗『灰仮面』は、ただの道具として使い潰された。
「あたしにだって、誤算はあるんすよ?」
コツ、と足音。
ツバキの手には、〈禁忌の魔導書〉が掴まれている。
「この計画当初の想定よりも、センパイはすごい怪盗になっちゃった。……だから、早急に処理しろって命令が下っちゃったんすよ」
「命令……?」
「センパイには、関係ないっすよ。だって、これから始末されるんすから」
始末。
殺す、ということか。
「……は、ハッ」
乾いた笑いが、アッシュの口元を歪ませた。
――死。
それを目前として。けれど、避ける手立てなどなくて。
だから。笑うくらいしか、できることがなかった。
「ねぇ、センパイ。……あたし、最後にセンパイの顔が見たいっす」
ツバキの手が、差し伸ばされる。
不気味なほどに丁寧な手つきで、灰色の仮面を剥がされる。
アッシュの素顔が、露わになる。
「そのおっかない目つき。あたし、大好きだったっすよ?」
「……黙れよ、頼むから」
「それは……あはっ、そうっすよね。でも――この気持ちだけは、演技じゃないっすよ」
コツリ、足音が迫る。
「さよなら、っす。センパイ――――」
鮮血の滴るクナイ。
その刃が、アッシュの喉元へと振り下ろされ、
「――――――お願いっ!」
突風が、吹いた。
風属性の魔法の球体が、ツバキの手を狙撃した。
クナイが宙を舞う。からん、と床に落下する。
「間に合った――の、かな」
鈴の音のような、美しい声。
そこに現れた少女の名前を、アッシュは知っている。
「……シンシア、ユースティス」
腰に差した細剣に、きっちりと着こなしたミニスカートの騎士服。絹のような金色の髪は、動きやすさを重視してだろう、ポニーテールに結ばれていた。
その白く麗しい横顔は、凜々しい目つきで正面を――ツバキを、睨んでいた。
「……あーあ。邪魔しないでほしかったんすけどねぇ」
肩をすくめながら、ツバキは睨みを返した。
「ってか、あんたがいま助けたのが誰なのか、ちゃんとわかってるっすか? これ、あの悪名高き怪盗『灰仮面』っすよ?」
ちょいちょい、とツバキが雑にアッシュを指し示した。
シンシアの目線が動く。翠玉色の瞳の奥に、灰色の髪が映り込む。
怪盗『灰仮面』の素顔を捉えた双眸が、わずかに見開かれて、
「――そんなの、関係ない」
言い切って。
シンシアは、その意識を正面に戻した。
「わたし、これでも騎士だから。ひとを助けるのが、わたしの仕事なの」
「……あはっ。だからって、まさか悪党の味方しちゃうんすか、騎士サマ?」
「うん、しちゃう」
にへへ、とシンシアは笑ってみせた。
それを受けたツバキは、きょとんと意外そうな顔をする。
「……センパイって、ほんとに悪運が強いっすね」
はぁ、とツバキの嘆息。
「シンシア=ユースティスお嬢サマ。どうっすか、ここは取り引きしないっすか?
あたし、ぶっちゃけあんたとは戦いたくないんすよねぇ。あんただって、無駄な戦闘はしたくないはずっす。今ここであたしが退散するのが、お互いにとって最善の選択肢なはずなんすよ」
「……見逃せ、ってこと?」
「そうせざるを得ないっすよ、あんたは」
ツバキの視線が、後方――倒れ伏せたアルバートに向けられる。
「そいつ、殺してはないんすよ。屋敷内で倒れてるほかの警護も、誰ひとりとしてトドメを刺してないっす。……でも、時間の問題かもしれないっすねぇ」
「っ、それって……」
「あたしと戦う時間って、文字通りの意味で命取りっすよ?」
シンシアの顔に、明らかな動揺が浮かぶ。
わずかに逡巡してから、その唇が開かれた。
「……その魔導書は、もう誰にも使えない。持って行きたいなら、好きにすればいい」
「成立っすね。いやぁ、話が早くて助かるっす」
くすり、とツバキは嗤って、
「あ。そこの怪盗『灰仮面』っすけど、あんたも一端の騎士なら、しかるべき対処をしてくださいっすよ? あたし、それの始末も命じられてたんすから」
「行くなら、早く行って」
「ちぇ、ノリが悪いっすね。……ま、〈禁忌の魔導書〉は手に入ったっすし、お言葉に甘えるとするっすか」
からん、と虚しい音が響く。
ツバキが剥ぎ取った灰色の仮面が、床に放り捨てられた音だった。
「それじゃ――今度こそ、さよならっす。センパイ」
アッシュを一瞥することすらなく、少女の背中が遠のいていく。
それをシンシアは追わない。悔しそうな目をしながらも、その場に立ち尽くしていた。
やがて訪れた静寂の中で、たったひとり。
「…………せ、よ」
アッシュは、声を唸らせていた。
ひたすら惨めに、影に縛られたままの手足を動かそうとする。
「返、せよ……ッ!」
かろうじて、手を伸ばす。
だけど、もちろん、届かない。
当然ながら、黒髪の少女が振り向くことはなかった。
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