二章 3話
結果から言えば、アッシュの侵攻は、誰ひとりとして止められなかった。
〈追い風のブーツ〉による加速と、それを最大限に活用する身のこなし。右袖に仕込んだワイヤーは手放さず、シャンデリアなどに引っかけて立体的な動きを実現させるために使った。〈マギア・リボルバー〉の残弾も、最適な場面でのみ放ってきた。
そして間もなく、アッシュはほとんどの警護を突破してみせたのだった。
『――センパイ、ストップっす。その廊下を曲がったら、金庫室前っすよ』
「っと、了解。ようやくあと一歩ってことだな」
『その一歩が楽だったら、どれだけハッピーだったっすかねぇ……』
金庫室前は、いわば最後の砦だ。
そこに配置される警護には、やはり最強の戦士が選ばれる。
『アルバート、けっこう本気みたいっすよ?』
厄介なのは、この金庫室前は、ただ突破すればいいというわけじゃないことだ。
金庫室の鍵を開けるには、アッシュの固有魔法が必要不可欠となる。しかし《アンロック》は、触れているものしか解錠ができない。そしてもちろん、そのためには触れてから扉を開けられるだけの隙が必要になってくる。
つまり、さっきまでのような逃げれば勝ちは、成立してくれない。
『センパイ……くれぐれも、気をつけてくださいっすね?』
「ハッ。誰に言ってやがる?」
語気を強めて、言い放つ。
ある種の自己暗示でもある。こうすることで、覚悟を固める。
アッシュは深く床を蹴り、加速を発揮し、廊下の角へと突入して、
――殺気。
「――――ッ!?」
アッシュは、咄嗟に身体を捻った。
直後、黒い布の残骸が、ぱらぱらと宙を舞う。
遅れて、それがアッシュの外套の一部なのだと気づく。
「……そうか、これでは届かないか」
前方から、男の声。
悔しがるような、それでいて面白がるような、アルバートの声だった。
「推測だが、君には遠距離からの観測ができる協力者でもいるのだろう? その協力者すら見逃す速度の魔法ならあるいは、と考えたのだけどね。不意打ちなど、騎士としていかがなものかとは思うが――君の相手ならば、そうも言っていられない」
「そいつは……どうも、嬉しいね」
アッシュの仮面の下で、冷たい汗が流れた。
いま放たれたのは、かなり高質な風属性の魔法だった。速度に優れた、アッシュも好んで魔導具に組み込む属性。不意打ちには、確かに優れている。
しかし、まさか不意打ちを仕掛けてくるなどとは、アッシュは考えていなかった。
もしツバキに一度ストップをかけられていなければ、咄嗟に回避できたかわからない。
「……ハッ。こりゃ、マジのマジに本気ってわけだな」
「その通りだとも。これでも僕は、反省と対策を怠らないタイプでね」
カチャリ。アルバートの腰の長剣が、抜き放たれる。
「君が相手では、本気を出さざるを得ないということさ。いやもちろん、先日の一件だって、僕は本気で挑んだよ。君を、本気で捕らえようとしたさ」
「……そりゃ偉いな」
「けれど今回は、君を、本気で殺そうと思う」
――ぞくり。
アッシュの背筋を、凍てつくような感覚が走る。
「誇り高き王国の騎士であるこの僕が、罪人が相手だとはいえ、殺しを選択した。その重みを、せめて君にだけはわかってほしい」
「…………」
言葉を返さず、アッシュは外套の内側に手を突っ込む。
〈マギア・リボルバー〉には残弾が少ない。無駄打ちができない以上、一対一の戦闘では、確実に弾が当たる状況でなければ使えない。
そのため、紫色のナイフと交換する。麻痺毒を塗った、接近戦用の得物。
「……お前、〝正義のアルバート〟とかいう二つ名なんだよな?」
息を吸って、吐く。
呼吸を整えてから、アッシュは身体の前にナイフを構えて、
「安心してくれていいぜ。お前は今日、殺人なんてしねぇからよ」
「遠慮しないでくれるかな。僕はもう、覚悟を決めているからね」
空気が、変わる。
アルバートの放つ殺気に、世界が張り詰めた。
斬撃。
魔法の乗った長剣の刃を、アッシュは身を翻して躱す。
斬撃。
切り返された剣身を、転がるように回避。
斬撃。斬撃。斬撃――
「どうした、避けてばかりじゃないか」
きらりと輝く剣先が、アッシュを睨む。
「そのナイフも知っているよ。強力な麻痺毒が塗られているんだろう?」
「……どうだろうな。確かめてみるか?」
「口先にキレがないね。なるほど、所詮は怪盗『灰仮面』などその程度の――」
瞬間。
アッシュは外套の右袖からワイヤーを射出した。照準はアルバート。本来なら戦闘に使う道具ではないが、それなりの威力はある。が、
「……つまらないね」
アルバートは淡々と剣を振り、ワイヤーを両断。
その直後の隙を、アッシュは狙う。強く踏み込み、ナイフを切り上げ、
「それも、つまらない」
長剣を縦にされ、いとも簡単に防がれる。
「やめてくれないかな。僕の覚悟が馬鹿みたいじゃないか」
心底から呆れたような、アルバートの嘆息。
長剣にナイフが押し返され、アッシュは弾かれるように飛び退く。
「――聞け、怪盗『灰仮面』」
アルバートの、凜々しくも鋭い声。
「僕は、君のことを調べ尽くした。戦略、戦術、戦法――なるほど、君には盗みの才があるらしい。動体視力と機動力の高さ、魔導具を扱う抜群のセンス。……解錠の手品だけは、最後まで解き明かせなかったがね。まぁ、特殊な固有魔法と考えるのが無難かな」
「……ハッ、教えてやらねーよ」
「しかし君には、ひとつ明確な弱点がある。それは、決定力の欠落だ。魔導具では火力に制限がある。かといって、君は剣士でも魔法使いでもないのだろう? そのナイフに頼っていることが、何よりの証拠だ」
「…………」
一歩。
アッシュは、足を退いていた。
「つまり、だ。戦闘において、君はたいした脅威にならないのさ。魔導具による手数は厄介だが、今回は警護たちが役立ってくれたからね。まだ何かを隠している可能性はあるけれど――この攻防を見るに、どうやら君の手札は切れたらしい」
「……へぇ。お前、俺のこと好きすぎだろ。どんだけ勉強してくれたんだっての」
「僕なりの礼儀だよ。完勝をもって、死にゆく君が未練を残さないようにと思ってね」
ぎしり、アッシュは奥歯を噛む。
たったそれだけの音だが、アルバートは聞き逃さなかった。
「そうか――それが君の答えなら、ここで幕引きといこうか」
告げて。
長剣が、鞘へと納刀される
アッシュは知っている。〝正義のアルバート〟の真骨頂は、抜剣による一閃にあると。
「……地獄耳かよ、気持ち悪ぃな」
「お互い様だろう? 君の盗聴の技能はかなりのものだと知っているよ」
「……マジで何でも知ってんのな、ちょっと引くわ」
長剣の間合いから、逃げるように。
アッシュは、じりじりと後退る。
少しでも、距離を開けようとする。
「王国流魔法剣術、奥義――――」
アルバートは、長剣の柄に手を添えた。
腰に差した長剣に、魔力が集まっていく。
その刹那、
「――――【迅烈刃】」
一閃。
斬撃が、飛来した。
その速度は、一切の目視を許さない。
「……――――クソッ!」
アッシュの目には、抜剣の瞬間すらも見えなかった。
回避など、到底、間に合わない。
赤黒い液体が、飛散する。
魔法の風の刃によって、アッシュの胸部が裂かれていた。
ふらり、膝が崩れる。
そのまま身体は後ろに倒れ、床の上にへたり込む。
「……なんだ、本当にこの程度だったのか」
侮蔑の込められた、アルバートの視線。
「どうやら、少しばかり君のことを買い被っていたらしい。怪盗『灰仮面』など、所詮はただの小汚い泥棒だったというわけだ。殺し合いとなると、まさかここまで温いとは」
「うるせぇ、な」
「まだ息があるのは、さすがのしぶとさだ。だけど、ここで終わりにしよう」
「……なぁ。見ての通り、俺はもう動けねぇんだぞ」
弱々しい声を、アッシュは振り絞る。
「〝正義のアルバート〟なんだろ? 殺しなんてしちまったら、せっかくのカッコいい二つ名に傷がついちまうぜ?」
「覚悟なら決めてあると、そう言ったろう? それに――」
追い詰めるような一歩を、アルバートは踏んだ。
「――君は、ここで殺さなきゃならない。どうしてか、そんな気がするんだよ」
「はっ……そうかよ」
アッシュの口元が、力ない笑みの形になる。
一方のアルバートは、長剣を振り払い、その先端をアッシュへと向けて、
「最後に、言い残したことはあるかい?」
「そう、だな……」
視線を動かして、天井を眺めるようにして見上げる。
「……せめて、楽に殺してくれ。痛いのは、苦手なんだよ」
「なかなか贅沢なことを言ってくれるね」
「なぁ、頼むよ」
「そうか……そうだね、いいだろう。一撃で、安らかに眠らせてやろう」
アルバートは、長剣を振り上げた。
その碧色の双眸は、アッシュの胸元を睨んでいる。人間の急所、心臓が脈を打っている箇所。先ほどの風の刃によって斬り裂かれ、赤黒い液体が流れている。
「さよならだ、怪盗『灰仮面』――――」
鋭く、しかし緩やかな斬撃。
アッシュの――怪盗『灰仮面』の息の根を止める、最後の一撃。
そのはず、だった。
「な……ッ!?」
アルバートの表情が、驚愕に染まる。
なぜなら。
怪盗『灰仮面』の両手が、長剣の刃を挟み、受け止めていたのだから。
「どうして、その傷で動ける!?」
アッシュは答えない。
ただ、その口元だけが、笑みの形に歪んでいた。
『……はあぁああ。センパイってほんっと、ヒヤヒヤさせるっすよねぇ……』
耳元の魔導石から、ツバキの声が届く。
はふぅ、と特大の息も聞こえた。
『白刃取り、習得しといて良かったっすね?』
そう、これはツバキに教わった、東国シラナギに伝わる防御術だ。剣を両手のひらで挟むようにして受け止める技。
だが、これには大きな弱点がある。
「力比べで、僕に勝てるとでも?」
白刃取りは、ただ両手で刃を受け止めるだけの防御術だ。力押しをされてしまえば簡単に崩れてしまうほどに脆い。そのうえ、両手で受け止めてしまう以上、攻撃に腕を使えなくなる。せっかくの隙でも、攻めることができないわけだ。
それを理解したアルバートの行動は一択。このまま、刃を強引に届かせること。
だから。
「……ククッ」
思わず。
アッシュは、笑いをこぼしてしまう。
「どうした、何がおかしい。死を目前に、とうとう正気を失ったのか?」
その、答えを。
アッシュは、突きつけてやる。
「……………………は?」
素っ頓狂な声を、アルバートは漏らした。
その胸元には、〈マギア・リボルバー〉の銃口が突きつけられていた。
それを握っているのは、アッシュの右腕。
そう――三本目の腕である。
「……ッ!? そうかッ、まさか――――」
どうやら、アルバートは気づいたらしい。
されど、アッシュは容赦をしない。トリガーを引き、雷属性の銃弾を放つ。
零距離のそれを避ける術など、ない。
「ぐッ……あ、あああぁッ!」
アルバートの全身を、電撃が駆け巡る。
そこから先は、先日と同じ幕切れだ。神経が麻痺したアルバートは、がたりと膝を折り、その場で崩れるように倒れた。そして直後には、その意識すらも奪われる。
ばたんと廊下に伏せたアルバートを、アッシュは一瞥して、
「怪盗『灰仮面』の戦術とやら、お勉強したんじゃなかったか?」
アルバートは言っていた。――怪盗『灰仮面』には決定力が欠落している、と。
ああ、まったくもってその通りだ。アッシュはロクな魔法を使えないし、剣術を心得てもいない。頼みの綱は〈マギア・リボルバー〉の銃弾だが、これを直撃させるのは、なかなかに至難の業だ。
ならば、どうするか。
アッシュはその弱点を、〝欺き〟と〝不意打ち〟でカバーしている。
たとえば今回の戦闘では、複数の道具に頼って、アルバートを欺くことにした。
「よ……っと」
スポンッ! と小気味よい音。
アッシュが、右腕を取り外した音だ。
正確に言えば、これは医療用の義手である。魔力を介して操作できるという仕組みの魔導具だ。これをちょちょいと改造して、三本目の腕として運用させた。〈マギア・リボルバー〉を握らせ、トドメの一撃として使った。
これこそ、今回の〝欺き〟の核である。
「にしても、ここまで気持ちよく成功するとはなぁ」
『ほんとっすねぇ。センパイの作戦、ドンピシャだったっす!』
作戦はこうだった。まず、アルバートの斬撃を、胸元に仕込んだ金属のプレートで受け止める。そのプレートには、血液に似せた液体の袋を仕込んでいた。被弾すれば、あたかも血を流したかのように見せかけるために。
こうして、アルバートの油断を誘った。
そこで命乞いのような言葉を並べ、心臓を狙わせた。そこに、アッシュが白刃取りを合わせる。そうして防御したところを、義手による射撃で〝不意打ち〟を喰らわせる。油断と混乱の最中にあったアルバートは最後まで気づけないだろう、と踏んでいた。
そしてそれは、完璧に成功した。
これこそが、アッシュの――怪盗『灰仮面』の戦術である。
「クク、ハハハッ…………って、笑ってる場合じゃねぇか」
『そうっすよ。怪盗はお宝を盗むまでが怪盗っす!』
アルバートを突破した今、もはや金庫室への道を遮る者はいない。
金庫室の正面に立ち止まり、その鉄扉にアッシュは触れて、
「――《アンロック》」
ガチャリ、と施錠を解く。
と、ここで念のために、魔導石に声を飛ばしておく。
「ツバキ。千里眼で内部を確認してくれるか?」
相手は五千億のお宝なのだ、石橋はできるだけ叩いて渡りたいところだ。だが、
「……ツバキ? 聞こえてないのか?」
返事がない。
通信が途絶えたというわけではない。しかし、ツバキからの声は聞こえない。
故障だろうか、と推測する。この通信の魔導石は、基本的には消耗品だったりする。もしそうだったとしても不思議ではない。
「……ま、いいか」
思索に時間をかけて、万が一アルバートが目を覚ませば厄介だ。ここは無視が賢明だろうと判断して、アッシュは金庫室内に侵入する。
敵の気配はない。それを確認してから、壁際の金庫に近づき、《アンロック》を唱える。
ガチャリ、とロックの外れる音。
金庫の中には、先日と変わらず、数十枚の金貨のみが保管されていた。それらを掻き出すようにして外に追い出して、再び《アンロック》を発動させる。
ガガガガ、と音を立てて金庫の底が開き、
――地下へと続く、長いはしごが出現した。
「へぇ、なかなかロマンのある隠し方じゃねぇか」
はしごに手をかけて、慎重に下層へと降りていく。
「……うげ、臭ぇな」
埃とカビの湿っぽい匂いに、地下らしい土の匂いも混ざっていた。アッシュは鼻での呼吸を止めて、一気にはしごを降りる。
やがて地に足をつけると、すぐに視線を前方へと向けて、
いかにもな黒灰色の箱が、そこにあった。
確信する。
五千億のお宝〈禁忌の魔導書〉は、この箱の中だ。
「…………ククク、ハハ、ハッ」
五千億。
アッシュはこれまで、何百億という額のお宝を盗んできた。そのどれもが、綿密に計画を練り、敵を騙し、欺き、逃走して――そうして手に入れた宝であり、金であり、それがアッシュの生きる活力だった。
そして。
いま目の前に眠っている一冊の魔導書は、それらの過去を無に帰すほどの超高額なお宝だ。だからといって、後ろめたさはこれっぽっちもない。あるのは、歓喜や快楽のみ。心が踊り、胸が張り裂けそうになる。
「さて――」
その箱に、触れる。
直感的にだが、とんでもない数の魔法的な施錠を察知する。それも、十とか百とか、そういう域ではない。二度と開けるつもりがないと思わせるほどの数の施錠。
けれど。アッシュはたったの一言で、その全てを解錠できる。
「――《アンロック》」
魔法を、唱える。
音はなかった。ただ、連鎖的に鍵が外れていく。
さて、念願のご対面タイムだ。アッシュは箱の蓋を開けて、
黒灰色の魔導書と、目が合った。
「…………ッ!?」
咄嗟に、アッシュは飛び退いていた。
これは魔導書だ、目などあるわけがない。わかっている。だから、目が合うはずもない。それもわかっている。
なのに、悪寒がする。喩えるなら、悪い夢でも見ているような感覚。
「……ははっ。気のせい、だよな……?」
アッシュは、ぶるぶると頭を振った。
すると、悪寒はあっけなく吹き飛んでくれた。それと入れ替わりで、五千億のお宝が目の前にあるという幸福で思考がいっぱいになる。自分の脳みその単純さに感謝する。
「……ク、クク」
黒灰色の魔導書を、手に取った。
五千億のお宝だと思うと、実際よりも重く感じる。
さあ、これで予告は果たした。お宝は手に入れた。あとは隠れ家へと逃げ帰るだけ。
そうすれば、アッシュの〝野望〟は、一気に前進を果たす。
感情が、込み上げてくる。
「クク……ハ、ハハッ」
それを堪えようとしたのは、一瞬だけだった。
だって。
これだけの高揚感だ、存分に解放したいではないか。
「ククク……、――――――ハァーハッハッハッハッハッハッハッ!」
高らかに、凄絶に、そして歪に。
灰色の髪の少年は、悪党らしく大笑いをした。
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