一章 5話

 屋敷に入り、長い廊下を歩きながら、こっそりとアッシュは左右を見渡す。

 その内装をひとことで言えば――ボロい、である。


(……無名な貴族だと、こんなに違うもんかね)


 外装からはわからなかったが、この屋敷は、とにかくおんぼろだった。

 歩くたびに、ギシギシと軋む音がする。廊下も壁も天井も、どれもが傷んだ木を使っていた。アッシュの隠れ家とも遜色ないほどのボロさである。一般市民でももう少しマシな家に住むだろ、と思わせるほどだ。


 なるほど、やはり貴族としての位が低いのだろう。

 ……それにしても、これは異常な気もするが。


(ま、貴族の屋敷だって事実には変わらねぇけどな)


 と、ベルの足が止まって、

「あの」


 くるりと振り向き、無表情のままにアッシュを見つめてくる。

「ひとつだけ、お伝えしておきたいことがございます」


 どこか申し訳なさそうに、ベルはそう切り出した。


 アッシュは貼りつけの笑顔を浮かべたまま、

「えぇ、どうぞ。なんなりとお申し付けください」

「その、なんと申しますか……」


 ベルの紫紺の瞳が、わずかに揺れる。

「……シンシアお嬢様は、少し変わっているのです」


 世間知らずとか、そういう意味だろうか。

 それならまあ、貴族のお嬢様にありがちな話だが、


「優しいのです」

 予想外の言葉。


「少し……いえ、とても優しすぎるのです。その余り、時折ですが、おかしな行動をなさることがございまして。申し訳ありませんが、どうかご配慮をお願いいたします」

「は、はあ……」


 返す言葉が見つからず、アッシュはてきとうに相づちを打ってしまう。

 というか、そのシンシアお嬢様とやらは、従者に「変人です」とわざわざ警告させるほどの人物なのか。しかも、〝優しすぎる〟とかいう聞いたことのない理由で。

 ちょっとだけ、シンシア本人にも興味が湧いてくる。


「こちらが、お嬢様の私室でございます」


 おんぼろの長い廊下の最奥、端っこにある一室を、ベルが示す。

 ガラガラギシギシ。持ち運び式のドレッサーを、ツバキはその部屋の前で止める。


「それじゃ、あたしはこれで。センパイ、あとはお願いします」

 と、ツバキはまっすぐにベルを見つめて、


「ベルさん、ご丁寧にありがとうございました。……あたし、まだまだ見習いで。いつもみたいにミスをしたら、センパイの邪魔になっちゃうっすから、外で待ってるっすね」

 儚げに、微笑んでみせた。


 もちろん、これも演技である。一から十まで、事前に練ってきた設定と作戦に従って嘘を並べているだけ。ツバキの演技力もあって、「健気な少女」を完璧に騙っている。


 さて、このままでは、そんな少女がひとり外に待たされることになるわけだが、

「ユースティス家の使用人として、お客様を追い出すような真似はできません。当屋敷の応接室にて、お茶をご用意いたします」

 というふうに、釣れるわけだ。


 この侵入作戦の狙いは、シンシア=ユースティスとの接触と、〈禁忌の魔導書〉の実在の確認、および保管場所の把握。そのためには、アッシュとシンシア、ふたりきりの状況を作れれば都合が良い。しかしそうなると、使用人を引き剥がすのが難しい。


 そこで、ツバキに芝居を打ってもらうことにしたのだ。

 従者の同情を誘い、アッシュと別行動させるための演技である。


「それでは、私はここで失礼します。シンシアお嬢様のドレス姿、心待ちにしております」

 ベルはスカートの端を摘まんで、美しく一礼。


「どうぞお任せください。私の全霊をかけまして、シンシアお嬢様にふさわしいドレスコーデをさせていただきます」


 胸元に手を当てて、アッシュも深々と頭を下げる。

 コツン、と足音。ベルとツバキは、そのまま立ち去っていった。



「さて――」


 足音が消えたのを確認してから、アッシュは扉(これまたボロい)に向き直る。

 ここまでは本当に順調に進んでいる。あとは、シンシア=ユースティスのドレスを選ぶフリをしながら、できるだけ自然な流れで会話に持ち込み、その中で情報を聞き出すだけ。問題になってくる要素といえば、シンシアとやらの口の堅さくらいだが、


「優しすぎる変人、かぁ……」

 という警告を、ベルから受けた。


 どういう意味だ、と少しだけ考える。優しい人間だというのはさておき、それをどれだけ拗らせれば「変わっている」という評価になるのか。


 美人だという情報は、ディランから聞いている。

 けれど、それ以上のことは、アッシュは何も知らなかった。


「ま、なんとかなるだろ」

 咳払いをしてから、アッシュは声色を紳士的なものに整える。


 こんこん、とアッシュは扉をノックをして、

「失礼いたします、シンシアお嬢様。私、メビウス=ファルルザー様のご紹介で参りました者でございます」

 と、堅苦しい敬語を並べる。


 だが、返事はなかった。

 従者のベルに案内されたのだ、まさか留守なわけもないはずだ。となれば、単純に聞こえてなかったのだろうか。


 こんこん、ノックをもう一度して、

「繰り返し失礼します。私の要件といたしましては、今週末のパーティーの際、シンシアお嬢様には、ぜひ最高質のドレスをお召しになっていただきたく――」


 ふと、扉の向こう側が、ざわついた。

 盗聴の技能を備えているアッシュは、音を正しく拾うことに優れていると自負していた。だから、間違いなく何かを聞いたのだとは確信できた。が、何事なのかを考えても、さすがにそれはわからない。


「……お嬢様?」

 と言いながら、アッシュは扉に耳を当てた。

 音の正体を突き止めるべく、聴覚を研ぎ澄まして、



 ――――コココ、コケーッ!



「……へ」


 唖然とする。

 いま何か、ニワトリの鳴き声のようなものが聞こえた気がする。


「幻聴か……? いやでも、確かに……」

 そこでふと、思い出す。

 そういえば、この屋敷の裏側には養鶏場があるのだとか。貴族がニワトリの飼育をするだなんて、どういう趣味なのだろうかと疑問を抱いた記憶があった。それに、見ての通り、この屋敷はボロっちい。ニワトリの鳴き声くらいなら貫通してもおかしくない。


 だからまあ、こういうこともあるのかもしれない。

 そう自分を納得させて、アッシュはもう一度だけ扉をノックをして、



 ――――コココ、コケーッ!




「いや、近いな!?」

 繰り返すが、アッシュは聴力に自信がある。だから、確信できる。


 このニワトリの鳴き声(おそらく)は、扉のすぐ向こう側から発生している、と。


「ったく、どうなってんだよ……?」


 こんこん。三度目のノック。

 コココ、コケーッ。三度目の鳴き声。


 ……あぁもう、さっぱり意味がわからない。


「シンシアお嬢様。申し訳ございませんが、入りますね?」


 ただ立ち尽くしていてもしょうがいないと判断する。

 作戦の遂行のために、もう半分は好奇心で、アッシュはドアノブに手をかけた。

 ゆっくりと扉を開き、おそるおそるに中を覗いて、



 ――下着姿の少女が、胸元にニワトリを抱きかかえていた。


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