2話 素敵な名前

 悪魔の話をしよう。

 この世界をすっかり変えてしまった、侵略者の話だ。


 古くから悪魔と呼ばれるものは存在していたが、その動きが活発になったのはほんのここ百年ほどのことだった。


 百年、あるいはもっと昔からその兆しはあったのかもしれないが――――悪魔は人類を間引くように減らし、村や町は驚くほどのスピードで消え、今では人のいる村まで行くのに車で一日や二日走らなければならなくなった。

 文化は停滞し、一番大きな打撃を受けたのは医療の分野だと言う。本来なら何十年も前に克服できたはずの流行り病は、悪魔と同じくらいに人類を減らした。


 しかしブランも言うならばまだ三十年生きただけの若造だ。そうでなかった時代を知らず、人類がこの百年で一体何を失ったのか上手く想像できない。この世界はかつて国単位で文化を保持していたらしい、ということも教科書に載っていて習っただけだ。今では各地の文化の残り滓みたいなものが土地に残っているだけなのである。言語はほとんど統一されて久しい。

 皮肉なことに世界は、ここまで人口を減らしてようやく一つになったと言っていい状態になった。







 目を覚ました紫苑を抱きながら、男は壁に何か大きな紙をあてていた。

 ナイフで紙を固定し「どれどれ。お嬢ちゃん、地図は読めるかな?」と言ってきたので、紫苑は小さく首を横に振る。


「君の家があるのはここ。リュフトノースという村だ」

「りゅふとのーす、しってる。シオンのいえがある」

「おっしゃる通りです」


 ふと手を止めた男が、「君の名前はシオンと言うのか?」と尋ねてくる。紫苑は大きく頷いた。

 そうか、と男は一瞬目を閉じる。


「それは素敵な名前だね」


 その時初めて、紫苑はその人の顔をまじまじと見た。


 無機質な銀色の髪が重たそうに目にかかり、表情のわかりにくい人だった。その前髪の隙間から、金色の瞳が見え隠れしていた。歳はおそらく、紫苑の父と同じくらいではないか。

「あなたのなまえは?」

「ブラン。悪魔祓いだ。いや……もう引退したんだったな。元悪魔祓いのブランだ」

「ブラン……」

 男は顎に手を当てて、「んんー? 待てよ。これが最後の仕事なわけで、このおちびちゃんをどうにかしないと仕事は終わらないわけだから、俺はまだ引退できてないのか?」とぶつぶつ言い始めた。

 それから開き直ったように「ま、些細なことだな」と肩をすくめる。


「さて、これから君を連れてどこか人のいるところへ行かなければならないが……ここから一番近いのはマレースという村だ。しかしマレースそこはとてもじゃないが子供一人保護できる余裕はないだろう。治安もよくないし。やっぱりグロースウェぐらいの都会じゃないとな……。食糧を調達するためにマレースを経由しつつグロースウェを目指すとなると……五日はかかるじゃないか。まったく」


 ため息混じりにその人は地図をしまい、「長旅になるぞ。トイレは済ませてきなさい」と囁く。紫苑は頷いて、「パパとママのところいくの?」と尋ねたが、その人は曖昧な反応で頭を掻いただけだった。







「パパとママはどこにいるの?」

「うーん、僕にもわからないことはあるからなぁ」

 車のハンドルを握りながら、ブランはそう言った。

 この人が両親のことを知っていると思ったからついて来たのだ。紫苑は思わず「ええーっ」と叫んでしまい、慌てていつも持ち歩いているぬいぐるみの背中から一枚の写真を出す。


「これ! これがパパとママ! ほんとうにしらない?」


 写真を押し付けるようにして前に出すと、ブランはそれをじっと見て何とも言えない表情をした。それからちょっと目をそらし「……ああ。やっぱり知らないな」と答える。

「じゃあもどる! シオン、パパとママさがしにいく!」

「あの村には君以外誰もいなかった。誰もだ。きっと、悪魔に追いかけられてみんな逃げて行ってしまったんだろう。戻っても意味がないよ」

 しゅんとした紫苑を見かねて、ブランは「そんなに落ち込むなよ。君の人生は長いんだから」と呟いた。

「これからいくらだって探せばいい。だけど僕の方に時間がなくてね。今だけは僕に付き合ってくれないかな?」

「……いいよ。しかたないので」

「ありがとう。優しいんだな」

 ブランはハンドルを片手で掴みながら「もう一度写真を見せてくれないか」と言ってくる。素直にそれを手渡すと、彼はじっとそれを見つめた。


「これは君。これがパパとママ。こっちの人は?」と、一緒に写っている初老の男性を指さす。「じいじだよ」と紫苑は答えた。

「じいじ、か。じいじもリュフトノースにいたのか?」

「ううん。じいじは今もそこにいる」

「そうか……」

 写真を裏返す。そこには、『フローストより愛をこめて』と書かれている。フロースト、とブランが呟く。


「君はフローストから来たのか」

「わかんない」

「そういえば名前がシオンだったっけ」

「イチハナシオンです!」

「どうりで」


 何か考えるような顔をしたブランが、しかしすぐに首を横に振り、それからは真っすぐ前を見たきり喋らなくなる。

 つまらなくなった紫苑は、物心ついた時からずっと一緒のぬいぐるみをただ抱きしめていた。

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