第23話 むらくも作戦-Ⅵ-

 雨、雨だ。

 なんだこれは。

 すべて、すべて狂ってしまうじゃないか。

 むらくも作戦の要点は、敵の最大の武器である噴水を弱体化させ、重騎竜兵を集中投入するところにある。

 東京湾を塞がれたまま時間が経てば、国は餓え、竜王は軍勢を整えてしまうから、この海路の打通は急務だ。

 だが無闇に彼らを突撃させれば、最も貴重な戦力である、竜の機動力とサムサンバルの攻撃力を兼ね備えた彼らを多く失ってしまう。

 だから、日本政府は百億を軽く超える予算をかけて、ひたすら水を吐かせたのだ。

 雲が少なく、雨も降らない今日を、またとない好機と捉えて。

 ナキアが大きな結界を張ったのだって、古の大魔導師が取った方法――水とマウダイムの分離、囮を利用した水の消耗、遠距離攻撃による敵の衰弱、そして結界による封印を踏襲したからだ。

 それが、全部台無しだ。

 焦りと落胆が全身を駆け巡る感覚。

 気が付けば舌打ちがこぼれていた。

「総監殿。数日前まで会社員だった方には酷かもしれませんが……どうあれ将校になってしまったのです。平静は、無理をしても装うものです」

 多田陸曹の諌言かんげんが、私の心を刺激する。

「あそこで、あそこで死んでいるのはブルムの兵です。自衛隊員ではありません。そして、今の私は……ブルムの兵站総監です」

「国が違おうが世界が違おうが、同じ側に立って戦う者の命に差はありません。少なくとも、私はそう思っています。上に立つ者の動揺は、すべてを崩壊させます」

 冷静を欠いた私に向けられた言葉が、心の奥底から羞恥と悔恨を引っ張り出す。

 大きな品質問題があった時、交渉が難しい局面に陥った時、上司達はどうしていたか。

 苛立ち、怒鳴り、怯えてわめく者はいたか。

 それは、人の上に立つ器ではない。

「失礼しました、多田陸曹。まずはイシュタルの反応を見ましょう」

「そうですね。お話を伺う限り、彼女は百戦錬磨の指揮官です。逃げの手を打たないのであれば、信じて待つべきでしょう」




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 散開、戦闘継続、矢を放て。

 笛の音が伝える三つの信号は、兵の意志を十分に奮い立たせた。

 彼らは見知らぬ土地の、恐ろしく見慣れぬ顔の人々に戸惑っていたが、それでも同じ人間であることは理解できた。

 この作戦が補給線の確保に重要で、失敗すれば多くの人が餓えてしまうことも、自分達の死亡率を下げるため、日本という国が巨額の予算を費やす作戦を発動したことも知っていた。

 失敗すれば二度と好機は巡ってこないと、誰もが本能的に感じ取っていた。

 そして、別世界の争いに巻き込まれた無辜むこの人々の犠牲は、彼らの心をえぐっていた。

 だから彼らの主が、気高き戦女神の依代よりしろのような第一王女が戦闘継続を命じたことを、腹の底から喜んだ。

 まだ戦える。

 まだ自分達の手でケリをつけられる。

 そのことが、雨に濡れた彼らの体に熱を生む。

 兵らの士気の高まりを、イシュタルは今までの経験から感じ取っていた。騎手の心の動きは竜に伝わる。怯えて竦む者の跨る竜が、堂々と空を飛ぶことはない。

 本来なら大混乱に陥ってもいいところが、十騎ずつの隊列を乱さず高速で飛び、敵の攻撃をかわしている。

 この勢いがある内に、闘志が萎んでしまう前に、勝負をつけなければならない。

 そんな決意からだろうか、彼女は白銀の竜の横腹を足で叩いて速度を上げつつ、矢じりの長い特製の矢を取り出した。

 頭の重いその矢は、より深い傷を与えられる。

 そして、矢じりの溝には粘着質の毒液がたっぷりと塗られていて、確実に血管内に毒を届ける。

 だが、重さのせいで通常の矢と軌道が変わり、動き回る敵に遠距離から当てるのは至難の業だ。

 誤って味方に当たれば、十秒も経たずに確実に殺してしまう。だから、とても大集団による乱戦で使えた物ではない。

 かと言って、毒矢を使いたいからと最初から少人数で挑めば、射手に敵の攻撃が集中し、近づくことも許されない。十分に近づかずに放てば、当たった所で傷が浅く、効果が小さい。

 扱うのに必要なのは、卓越した技量と統制の取れた味方に、前に突き進む決死の覚悟。

 これは、万一の備えとしてイシュタルが用意した奥の手だった。

 彼女は体を大きく前に倒し、竜の首を天に向けて高度を上げる。騎手の体は竜に固定されているから落ちはしないが、それでも鎧を着込んだ身には辛い動きだ。護衛についた十騎もなんとか追従しているが、その表情は必死そのもの。

 大きく高度を取ったイシュタルは、弓を引き絞り、急降下すべく竜首をめぐらす。

 高度を取ったことで、放たれる矢の威力の最大化と、軌道が直線に近づくことによる命中率の向上、そして、急降下による視界の外からの急接近が可能になった。

 下方では矢を乱れ撃つ兵達が、敵の注意を完全に引き付けている。

 もしも彼らの矢が尽きれば、敵は周囲の状況を確認する余裕を得て、奇襲は成立しなくなる。

 彼女はヤッと掛け声を発し、再び竜の横腹を軽く蹴る。そして弓を引いたまま上体を大きく右にねじり、左前方に向けて弓を構える。

 矢じりの尖端が向けられるのは、宙を舞う大蛇の背中、羽根の付け根がある辺り。頭は上下左右に激しく振られるから、胴体を狙った方がまだ当てやすいのだ。

 矢に塗られているのは、竜殺しの猛毒。

 胴でなく羽根に当たっても、いずれ毒が回る。

 急降下しつつ何度か羽ばたいて加速した竜は、翼を閉じ、空気の層を貫いて進む。

 海に浮かぶ小島が恐ろしいまでの勢いで大きさを増し、敵は目と鼻の先。彼女の接近に気が付き体を捻じるが、もう遅い。

 矢が放たれ、鱗を破り、肉を裂く。

 体温で毒が溶け、粘度が下がり、血中を漂う。

 毒は神経を麻痺させて、筋肉を引きつらせ、脈拍を狂わせ、呼吸を妨げる。

 だが、それでも大蛇の命は絶えておらず、憎むべき敵の姿を求めて動き回る。

 急降下から弧を描いて反転、上昇したイシュタルは、向かってくる大蛇の頭に再び毒矢を放ち、進路を大きく右にそらす。その瞬間、高圧の水の槍が彼女がいた場所を刺し、空を切る。

 透明な水の色に混ざるのは、黒く濁った青。

 彼女はもう一度毒矢を放つと、動きを鈍らせた敵を尻目に高度を上げて、鞍に取り付けたハンドルとネジ付きの小さな――武器を差してネジで挟んだり、水筒を吊り下げたりする装具に弓を固定し、代わりに長槍に持ち替えた。

 下方では敵の注意が彼女に向かないよう、兵達が群がって矢を射掛けている。

 ある程度の高度を取って、再びの急降下。

 槍を構え、敵が右に来るように進路を変えて。

 白銀の竜は翼を閉じ、主人のために限界まで敵に体を近づける。

 脅威の接近に気がついた大蛇は頭を上げて上昇し、水槍を放たんと大口を開けた。

 だがイシュタルの槍の方が速く、吹き出したのは大量の、青黒い血。

 急降下の勢いを得たサムサンバルの長槍が、大蛇の上顎を貫いて脳に達したのだ。

 神とまで呼ばれた大蛇は、それでも数秒の間槍が突き刺さったままイシュタルを追っていたが、すぐに空を舞う力も失い、第二海堡のコンクリートに叩きつけられ、灰色の地面を紺に染めた。

 神なる大蛇マウダイムは息絶え、雨雲が割れ、隙間から陽光が厳かに差し込む。

 高速で降下していた白銀の竜は翼を広げ、再び白銀の鎧に身を包んだ戦姫を天高く運ぶ。

 歓声が、イシュタル王女殿下万歳の歓呼の声が空を満たす。称賛と日の光を受けるイシュタルは長剣を抜いて高く掲げ、悠々と空を飛んでいた。

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 感動、興奮、安堵。

 最初に訪れたのは、その三つだった。

 イシュタルの戦いぶりは勇敢で、人の心を掴むものだ。すべてが無に帰すような、そんな不安を味わった後だから、私の心は激しく沸き立った。

 だからこそ、だろうか。

 少し気持ちが落ち着いた所で、どうしても拭えない違和感が生まれた。

 イシュタルは強い。

 間違いない。

 イシュタルは優れた指揮官である。

 それも、間違いない。

 だが、最後の勝利はあまりにもリスクが高く、そしてあまりにも劇的だった。

 素人考えかもしれないが、矢を射かけるのは彼女でなくてもよかったと思うし、彼女の矢筒にはまだ矢が残っているようにも見えた。

 敵があんなに急に弱ったのだから、毒矢か何かなのだろう。何もあんなに体を張った攻撃をしなくても、毒矢で殺しきれたのではないか。

 彼女が必死に戦ったことは間違いなく、敵は強敵で、彼女の武勇で大勢の命が救われたことは疑いない。

 だが、あまりに見事な、そしてあまりに彼女自身を危険に晒す戦い方――普段兵を指揮する時の合理的で、時に冷徹でもある様子と違う彼女を見て、こうも思ってしまうのだ。

 まるで戦いをショーに見立てて、観客を楽しませるかのようだと。

 その場合、観客は一体誰なのだろうかと。

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