第2話 残されたもの

 間に合わなかった。


 おれの指先は里桜の手をかすめることなく宙を切った。


 あと少し、もう少しだけ早く来てあげられていたら、里桜の手を掴むことが出来たかもしれないのに。


 まだ息を整えることが出来ず、肩を揺らしながら灰一色の床を見つめていた。おれの隣で這いつくばっている莉桜さんも床を睨みつけ、拳を振り下ろしていた。


 ついさっきまで笑い合っていたのが嘘みたいに、身体の中の熱を空き教室の冷たい空気が奪っていくのを感じた。



「光輝さん……兄ちゃんは……?」


「……っ!!」




 ⟡.· ⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ⟡.·




 女子のパートが終わる頃を見計らって、おれたち男子も更衣室へ移動して着替えを済ませようとしていた。


 そこに突然、莉桜さんが更衣室のドアをすり抜けて飛び込んできた。



「うおぉ?!」


『コウキまずい!!リオが姿を消した!!』


「ちょ、はぁ?!……あ、わり……」



 莉桜さんの言葉に思わず声を上げてしまったことで、「どうした?」周りで着替えてたクラスメイトが一斉におれの方を振り向いた。



「ごめん!おれ先に便所行ってくるわ!」


「その恰好で?!」


「緊急事態なんだよ!!」


「そ、そんなにか……とりあえず……お大事に……」



 確実に違う意味の緊急事態を想像しているであろうクラスメイト達の間を通り抜けて、おれはメイド服姿のまま廊下へと飛び出し、心の中で莉桜さんに返事をした。



(里桜が居なくなったって、莉桜さん今回はずっとくっついてたんすよね?)


『うん……何ならずっと見つめていたくらいだ。けど……瞬きした次の瞬間にはもう居なくなっていたんだ。そんな芸当、いくら里桜だとは言ってもできないはずなのに……』



 莉桜さんは少し前から里桜が何か企んでいることに勘づいていたものの、いつものように里桜の思考を覗こうとすると、まるで霧がかかったようにその部分だけ隠されてしまっていたらしい。


 きっと、里桜が何が何でも蒼星祭に参加するって言っていたことと関係しているのだろう。



(里桜を探すにしても……この人混みの中から探すとなると……あれは)


「宇留木!それに奏くんも!なあ、里桜見なかったか?!」


「あ、光輝さんお疲れ様っす!つーか、すんげぇ格好してますね……まあいいや。兄ちゃんがなんかしたんすか?」


「なっ……あれだけ里桜から目を離すなって言ったのに!!」



 廊下を駆け足で進んでいると、階段の踊り場で談笑している二人の姿が目に入った。宇留木は途端に表情を変え、おれらの雰囲気から何かを察したのか、奏くんも心配そうにおれと宇留木の顔を交互に見やっていた。


 宇留木の突き刺すような、こちらを咎めるようなそんな視線に思わず目を逸らした時、下の階から何やら机を倒したような音が聞こえた気がした。



「下ね……!」


『急げ!!奴が現れた……!!』



 二人はその正体にも気が付いていたようだった。おれには何も感じ取ることが出来なかったけど、莉桜さんの言った「奴」という言葉とその表情から全てを察した。


 前に莉桜さんの心核を奪っていったあいつが、今度は本格的に里桜のことを奪いに来たんだと。


 既に階段を飛び降りていった宇留木におれも続いて駆けだした。



「ちょ、ちょっと!二人とも待ってくださいよ!!」



 突如全力で走り出したおれたちに困惑している奏くんを置き去りにして、おれたちは必死に走った。


 気配を辿って真っすぐに飛んでいく莉桜さんから引き離されないように、おれたちも全力で足を動かした。


 そうして下の階に降りたおれたちは、いくつかある空き教室の中で、いわくつきと言われている空き教室へ飛び込んだ。



 けど……その時にはもう遅かった。


 里桜はハクボクに背後から羽交い締めにされていて、おれたちの目の前で奴が作りだした黒紫の霧の中へと連れ去られてしまった。




 ⟡.· ⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ⟡.·




「光輝さん……兄ちゃんは……?」


「……っ!!」



 奏くんのその問いかけに、おれたちは歯を食いしばる事しかできなかった。皆が茫然としているそんな中で、奏くんが放った一言が、おれたちの心を更に凍り付かせた。



「なんだ~二人してものすごい形相で走っていくから心配したけど、!」


「は……?奏くん……何言って……」


「奏、ごめん。ちょっと我慢してね」


「宇留木、何を……」



 宇留木は徐にスカートのポケットから一枚の札を取り出すと、それを奏くん目掛けて投げつけた。そして、その札が奏くんの額に貼り付けられると、奏くんはピタリと動きを止めた。



「少しだけ意識と動きを封じさせてもらった。けど、長くは続かないから、早く説明して。あんた、何か知ってんでしょ」



 宇留木はそう言って、少女の身体から手を離した。



「うん……この子がこうなってるのも全部お兄ちゃん……いや、アイツを止められなかった私のせい。ちゃんと説明するよ」



 その細い指で自身の涙を拭うと、ツナグが小さく呟いた。



「アイツは……ハクボクはこの学校に入ると同時に『認識』の力を使ったの。が、私のことをお姉ちゃんと思い込むように」


『そうやって他の生徒がお前の方へと集まっている隙に、本物の里桜を奴が攫う計画だったのか』


「そう。宇留木さんと天音さんだったよね。アイツはあなたたち二人に、自分を止める力が無いと分かっていながらも、もしもの時のことを考えて、お姉ちゃんからあなたたちを引き離そうと考えていたの」


「だとしたら……おれらが今こうして、ちゃんとあんたを判別できているのはどういうことなんだ?」


「あなたたちはここに飛び込んできたとき、私とお姉ちゃんが同じ場所に居て、それぞれが別の存在であることをちゃんと認識したでしょう?アイツの『認識』の力は確かに強力だけど、まだまだ不完全なの。だから、アイツが刷り込もうとした『認識』の内容が明らかに嘘であると分かる状況下に居合わせたりしていると、その効力が弱まったりするの」


 ツナグは乱雑に散らばっている机の一つに腰かけると、俯きながらそう言った。


『それにしても、やけに素直に話すじゃないか。それもお前の演技か?まだ何か企んでいるんじゃないのか?』


「それは無いよ。と言っても信じられないとは思うけど。私でも同じ状況なら疑うもの……けど、本当に無いよ。私はもう捨てられたんだもん」


「捨てられた……?」


「うん。私がアイツの計画の邪魔をしちゃったからね」



 寂しそうに窓の向こうの空を見上げながらそう言うツナグ。



「アイツ、この学校の人たちだけじゃなくて、に『認識』の力を使おうとしていたんだ。私はそれに反対したの」


『この街の全ての人にだと……?一体どうして……』


「ごめんなさい。そこまでは分からなかった。けど、この学校の人たちに『認識』の力を掛けた瞬間に、アイツの様子がおかしくなったのは確かだよ」


『おかしくなった?』


「うん。なんだか急に『これでようやく皆の願いを果たせる』とか『器が手に入れられれば、下等な人間どもの支配など容易だ』とか言い始めてさ……。私はそれまで、ずっとアイツをお兄ちゃんだと思っていたから、急にお兄ちゃんがおかしくなっちゃったと思って困惑した……」



 そっか、ツナグはずっとハクボクに『認識』の力を掛けられ、支配されていた……前回相対した時に、莉桜さんもそんなこと言ってたっけか。



「私はお姉ちゃんと取り戻したかっただけだった。別に他の人をどうこうしようだなんて考えてなかったの。またお兄ちゃんとお姉ちゃんと私の三人で、静かに、穏やかに暮らそうって……アイツが言ったその言葉を信じてきた……まあ、それも今となっては、私を騙して利用するためだけの言葉だったみたいだってわかったけど……。街の人たちに力を使うことは止めようって、お姉ちゃんを見つけたらそれでいいじゃないって、そう言ったらアイツは突然笑って、私の首を絞めてきたの」


 よくよく見ると、ツナグの首筋には恐らくアイツの指の跡だろうと思われる赤みが残っていて、それを指でなぞるツナグの姿はとても痛ましかった。


 そんなツナグの瞳にはまた涙が蓄えられていて、今にも零れ落ちてしまいそうだった。



「けど、私もアイツと同じなの……お姉ちゃんを取り戻すためなら、どんな手段でも使おうと思った。だから、この学校の人たちに『認識』の力を使うことは止めなかった。だから、今この校舎に居る人たちは、私の事をお姉ちゃんそのものだと認識してしまうようになってるの。だから、そこの…………奏くん、だっけ。その子は私の事をお姉ちゃんだと思ってしまってるの」


「同じじゃ……ねぇだろ……正直複雑だけど。それでも、おれも里桜を取り戻すためなら、どんな手でも使おうと考えちまうと思うし……」



 ツナグはおれの言葉を黙って聞いていた。



「弁解の余地をくれるんだ……優しいね。私はわけがわからなかった。大好きなお兄ちゃんだと思っていたのに、私の首を握る力も、その顔も、まるでその行為をなんとも思っていないような、そんな風に見えた。その時、初めてお兄ちゃんを怖いと感じた。そして、もしかしたらこの人は本当のお兄ちゃんじゃなかったのかもしれないって思った。そしたら突然、アイツはニヤリと笑ったの。『やっと気づいたのか』って」



 里桜とはあまりにも対照的だった。


 兄妹と離れ、一人取り残されたものの温かい家族に引き取られ、それからはすくすくと育った里桜と、目が覚めた時に大好きな兄が居て、それから兄と共に生き別れた姉を探すためだけにこれまでの生活をささげてきたのに、それら全てが兄のフリをしたハクボクの計画の一部だと明かされてしまったツナグ。



「でも、お姉ちゃんは本物だった。ちゃんと昔のことも覚えててくれた。私がずっと謝りたかったことも、ちゃんと。そのうえで、お姉ちゃん自身の気持ちも伝えてくれた。お姉ちゃんは変わらず、昔のまんまのお日さまみたいな人だった。それなのに……やっと会えたのに……私の……せいで……また私を守ろうとしたせいで……また遠くに行っちゃった……あなたたちが来たのは、そんな瞬間だった……」



 ついに堰を超えてその大きな涙が溢れ出してしまった。



『妹を助けるため……だったのか……?その気持ちは分からなくはない。分からなくはないが、それならば猶更!どうして私たちに言ってくれなかった!!そんなに……そんなに私たちは……頼りなかったのか……?』



 莉桜さんも里桜の想いの一端に触れてか、拳を強く握りしめたまま言葉を放った。



「本当よ……どうして……のに一人で突っ込んだりしたのよ……」



 たぶん、里桜は厳重警戒しているおれたちが居たらツナグに近づくことも許されないと考えていたのかもしれな――



(いや、でも待てよ……ちょっとおかしくないか?)



 妹をハクボクから助け出すために里桜が突っ走ってしまうこと自体は、里桜の性格を考えれば何もおかしいことはないが、それ以前に、どうしてハクボクたちの元に自分から突っ込んでいくことが出来たんだ?


 前々から人が大勢いるところで向こうから接触を図ってくるかもしれないということは言っていたから、今日奴らが来るかもしれないということは推測できる。だとしても、ハクボクたちの方からの接触があって初めて正解だったと分かるはずだ。可能性が高いだけで必ずくるなんてわからないはずなのに……。


 それでも里桜は、その時、そのタイミングをドンピシャで、それもどんな手段を使ったのか分からないけど、莉桜さんの目を盗んでまでツナグの危機に駆け付けた。


 まるで……ハクボクの襲来も、奴らが仲間割れをしてツナグが危機に陥ることも最初から分かっていたみたいに……。


 そして、次にツナグの言った言葉に、莉桜さんは目を丸くし、一つの可能性を見出した。



「いや、お姉ちゃんは何の力も持っていないわけではなかったよ……?」


「どういうこと?」


「お姉ちゃんはあなたたちが来る少し前に、一度とはいえを使ってアイツのことを追いやったの……」


『なんだと……?』


「不思議な力って?」



 莉桜さんと宇留木が問い詰めると、ツナグはその時のことを必死に思い出そうと、顎に手を当てて視線を二人から外した。



「具多的にどんな力だったかとかはわからないけど、感覚的に言えばって言えばいいのかな……あいつがドロドロとした闇のような力だとしたら、お姉ちゃんが放ったのは、もっと綺麗で清らかな力って言えばいいのかな。狐さんとちょっと近いけど、でも全く同じというわけではないような……そんな力だった……ごめんね。その時私も意識が少し飛びかけていたから、視界もぼやけてて……けど、なんかお姉ちゃんがアイツをあの霧の中に押し戻す瞬間、お姉ちゃんがような気も……」



 ツナグのその言葉を聞いた瞬間、莉桜さんの動きが止まった。



「莉桜さん……?」



 見上げてみると、莉桜さんはツナグの方を見てはいるものの、その焦点はツナグではなく、その奥の窓……いや、それよりもどこか遠くを見ているような目をしていて、口をぽかんと開けていた。



『そんなことが……いや、まさか。でも……ありえるのか……?』



 なんてぶつぶつと呟いて、自分の世界に入ってしまった。



「……はぁ。結局またこうなるのね。里桜のことも心配だけど、まずはこの状況をどうするか考えないと。この子、ツナグちゃんのことだって、里桜から任せられてるんだから。それに、ウチのお札ももう限界。もうそろそろ奏が動き出す頃だから」


「そう……だな……」


『ご、ごめん……』



 それから間もなくして奏くんの額に貼り付けられていた宇留木のお札が消滅し、奏くんは相変わらずツナグを里桜と思い込んだまま接していた。


 そして運が良いのか悪いのか、里桜の父ちゃんと母ちゃんも既に校内に訪れていたようで、その二人も漏れなくハクボクの『認識』の影響を受けていたこともあり、ツナグはしばらくの間は里桜のフリを続け、里桜として音無家で暮らし、学校も蒼部に通う事になった。


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