回想:セツナ (2)
セツナが魔獣研究所の所長に会う日。セツナが屋敷を出た後に、センは自室で本を読んでいた。
涼しげな表情でページをめくってはいたが、時折窓から馬車が帰ってきたかを確認したりと、あまり読書に集中できてはいなかった。
夕方、無事に帰ってきたセツナは真っ先にセンの部屋に走る。
「お帰り。どうだったかな?」
彼女の表情が全てを物語っていたが、念のために訊いたのだろう。
「所長からお誘いを受けました!」
練習のおかげで所長との対面は成功した。
どうやら今までの実績だけでなく、彼女の魔獣についての考察も認められたようだ。
誇らしげに渡された研究所のパンフレットを掲げている。
「センのおかげです! ありがとうございます!」
「ボクは大したことはしていないよ。キミの努力の結果だ」
正式に入所のための書類が届くまでの間、セツナは機嫌がよかった。
そんな彼女を見た屋敷の人間は不思議に思ってはいたが、普段の怯えた様子の彼女よりは好ましい印象がある、そもそも彼女の態度に興味がないなどということで理由を訊く者が現れることはなかった。
ある日、彼女は日課の動物観察をしていた。
敷地内にある湖畔まで歩き、動物をスケッチブックに描き写す。
春。それは生命誕生の季節でもある。
新たな生命との出会いに期待を抱きながら、彼女は鉛筆を握った。
観察対象を探す彼女の目に、一頭の狼が映った。かろうじて狼だと分かる距離だ。
まだセツナの存在には気づいていない。
落ち着いて動けば逃げるチャンスはあるだろうが、彼女は焦った。
(このあたりは狼なんていないはずなのに!?)
セツナは魔力を持っていない。
本来、湖畔に行くには魔法が使える人間の同伴が必須であったが、この日に限って彼女は甥にも黙って家を出ていたため周辺には誰もいなかった。
逃げようとしたが、焦っていたのが災いして大きな足音を出してしまった。
(気づかれた!)
狼は素早く近づき、腰を抜かして身動きが取れなくなった獲物を捉える。
カルティエ・グランディールとの違いを挙げるとしたら、『夢を持ち、生存を望んでいるのにも関わらず死が迫っていた』ことだろう。
「来ないで!」
近づいてきたことで、その捕食者が狼ではなく魔獣であることにセツナは気がついた。
狼に似ているが、体格は通常の狼の倍近くはあり、口元からは魔力と思われる黒い息が漏れている。
魔獣が牙を剥く。死ぬことを確信して瞼を閉じる。
痛みはいつまで経っても訪れなかった。
何故かセツナは自室のソファに座っている。
「セン!」
目の前に甥が立っていたことに気付き安堵する。
だが、センは鬱陶しそうにため息をついた。
「なんでここにいるの? 早く消えればいいのに」
「へ?」
奥からセンの両親が現れる。
「出ていけ」と蔑む目をしていた。
(この2人はいつも通りだけど、センの様子がおかしい)
「セン? どうしたのですか?」
「いつもビクビクしていてすぐに泣く。めんどくさいんだよ。血も繋がっていないのに家族だなんてバカらしい」
「え?」
唯一の味方だと思っていた甥からの拒絶は彼女を絶望に追い込んだ。
「わ、私は……」
耐えきれずに部屋から逃げるため、扉へ走る。
だが、扉の前には研究所の所長が立ち塞がっていた。
「所長様!?」
「お前はいらない。お前みたいな無能の代わりはいくらでもいる」
普段から自分を嫌っている者だけでなく、認めてくれた者も自分を囲むように立って罵詈雑言を吐いていく。
(私は……生きていてはいけないの?)
聞きたくないと必死に耳を塞ぐが、直接脳に流れ込むように言葉が彼女を突き刺す。
しゃがみこんだ時、彼女の足元には一本のナイフがあった。
(私がいなくなったら……)
ナイフに手を伸ばす。
これで己を刺せば苦しみから逃れられる?
それとも、この雑音を消せばいい?
ナイフを握った瞬間、彼女の視界が揺らぐ。
「セツナ!」と自分の名を呼ぶ声がしたことによって彼女は意識を取り戻した。
最初に目に入ったのは自室の天井。セツナが眠るベッドの隣で必死に自分の手を握っていたのはセンだった。
意識を取り戻したのを確認できたからか泣きそうになっている。
「儂……いや私はなんで眠っていたのですか?」
「キミは湖畔で1人倒れていたんだよ。所長に会ってから毎日夜遅くまで起きていただろう。医者が寝不足が原因だって」
センの言うことがどこか他人事に感じられる。
眠っている間に夢を見ていた気がしたが思い出せない。
ただ、自分の何か大切なものが消えてしまったような感覚だけは覚えていた。
数日後、入所のための書類が家に届いた。
謎の喪失感を抱えたままのセツナは書類片手に当主の部屋に入る。
「せ、先日お会いした魔獣研究所の所長から正式に書類が届きました。私は来月からミナヅキに行きます」
家に利益をもたらすなら認められるという2人の考えはどうやらはずれたようだ。
当主は無断で外の人間と関わりを持ったことに怒り、顔を紅潮させる。
「勝手なことを! もういい! お前は嫁入りの日が決まるまでは見張りをつけて部屋に閉じ込めておく!……母親と同じでお前は家のためになるから生かされていたというのに」
この言葉に我慢が効かず、当主に詰め寄ろうとしたのは、部屋の隅で事の行く末を見守っていたセンだった。
「この……!」
慌てた使用人3人がかりで制止されてしまった。
「なんだ、お前も歯向かうというのか?」
部屋にいた者全員がセンに目を向けた瞬間、拳が当主の頬に命中した。
突然のことだったからか、尻もちをつく。
「何をする!?」
拳を放ったのはセツナの体だった。
彼女は恐ろしいくらいに美しい笑みを浮かべていた。
(待って!? 体が勝手に! え、声が出ない!)
内心の焦りは誰にも悟られることのないまま、勝手に動いた口から人生で一度も言ったことのない言葉が吐き出される。
それは全て当主を責め立てるものだった。
(どうして勝手に言葉が出るの!? 止まって!)
「儂は好きなように生きるさ」
他の者から見ればセツナは余裕そうに見えたが、彼女は体が思い通りに動かないことを焦り続けていた。
まるで誰かが勝手に体を動かしているかのようだ。
そのままセツナは部屋を出る。
そして、ミナヅキに行くために事前に用意していた鞄を持ち、振り返ることも止まることもなく屋敷の出口へ行く。
「待ってくれ!」
「確か……センか」
センは彼女にやや大きめの袋を渡した。
自分の体を動かしている『何か』は袋から聴こえるジャラジャラという音の正体が分かっておらず、上下に振り続ける。
「それは餞別だ。所長にはボクから事情を説明するから、城下町に行って馬車を捕まえるんだ。そしてミナヅキまで逃げろ。この国にいたらキミのお母様の件の口封じに殺されてしまう!」
「表立っては動けないから研究所までは追いかけてこないだろう。ここで殺されたらキミの努力が全て意味をなさなくなる」
渡された袋の中身は1年は暮らしに困らないくらいの金銭だった。
屋敷で冷遇されていたセツナのため、家の子供に与えられていた小遣いを、出会った時からセンはずっと貯めていたのだ。
「いつかキミが帰ってこれるような家にしてみせるから、それまではミナヅキで夢のために生きるんだ」
「……ありがとう。達者で」
これは『そう言うべき』と判断した『何か』としての言葉だけでなく、彼女の本心でもあった。
体は勝手に動き続け、城下町に着いた。
馬車を捕まえて
「ミナヅキまで。金ならある」
と持っていた金銭の半分を押し付けた。
「嬢ちゃん! 確かにミナヅキまでの料金は高くなるけど、これは流石に多すぎるよ!」
幸いにも、御者は無知な者からお金を騙しとるという選択はしなかった。
返されたお金を鞄にしまって馬車に乗り込む。
馬車がエルフィン王国を通過した頃、やっと体の主導権が戻ってきた。
「あ、あー」
(手…動かせる。声も出る。でもどうしよう!なんであんな啖呵切っちゃったの私。怖い)
一番最初に『体が思い通りに動かないこと』に恐怖を抱いた。
しかし、彼女が本当に怖かったのは
『当主に言った言葉は全て本心だった』ことだった。
そして、研究所の人間たちが自分をどう思っているかについても怖くなっていたが、何らかの手段を用いたセンによって事態を把握した所長たちは彼女を暖かく迎え入れた。
ミナヅキを出ると母同様に殺される可能性があるため、基本、研究所とあてがわれた寮の部屋を往復する生活を送ることになった。
それでも彼女にとっては夢のような日々だった。
同志との有意義な研究の時間。満たされる知的好奇心。そしてそれは誰にも否定されることはない。
求めていた居場所を手に入れたセツナだったが、甥と会うことが困難になってしまったことは彼女の胸を痛ませた。
時折、あの日と同じように記憶がない日があったとしても、深く気にしなくなってしまった。
何故ならば、記憶がない日は必ずいつもより研究が捗っていたようで、周囲からも
「昨日はすごく調子がよかったね」
と声をかけられたからである。
(家を出た時もだけど、もしかしたら私は時々覚醒するのかな)
彼女は自分の状態を楽観視していた。
数年後。研究所のエースとして活躍していた彼女は、噂で当主が多くの罪が明らかになり捕まったことを知る。
命を脅かされる心配がなくなったのでエルフィン王国に赴くことが決まった。
出張が決まった後にセンが皇帝直属の魔法使いになったことも知り、エルフィン王国を出た後に少しだけ里帰りをする計画を立てた。
(やっとセンに会える。今度こそちゃんとお礼を言わないと)
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