淡光

クラムボンはドナネルルが好きだよ/ペンネ

淡光

 夜の町の中を縫うように走る。

 街灯に黄色く点滅する信号機、暖かい色の窓、人気ひとけを察知して点灯するライトだって、僕には着いて来ていない。空に張り付く月だけが僕を追っている。誰も居ない路を。昼の間、自動車達が通るところを、代わりに走ってやるのだ。


「——はあ、はあ、はあ。ふぅーッ!」


 この枯れ切った黒いツルを纏った家を曲がれば、勾配がきつくなる。

 それが分かっているからだろう。先刻まで、家庭科の授業で1度だけ使ったミシンのように飛び跳ねていた脚が次第に音を収めてくる。

 疾走する前には殆ど感じることの出来なかった、熱帯夜特有の暑さが肌と衣服を襲って生ヌルく湿しとらせる。

 息を整えながら、のそのそと傾斜を登る。

 道路の左側が建物から林に変わる。揺れる木々達から隙間を探す。


 ——ここだ。


 道なき道を突き進めば、そこには小さな神社がある。


 □□


 最近、夜に外出する事が多い。

 初めては、父親と駅前のコンビニまで散歩した時だ。田舎であるからかは分からないが、駅周辺にコンビニが集中している。

 炭酸ジュースを買ってもらった。冷たいそれは、家に帰った時には既に空っぽだった。

 夜というものは時間が過ぎるのが早い。そう思った。

 おそらく楽しかったのだろう。

 二日後の夜には、一人でコンビニに行った。又、炭酸ジュースを買った。

 帰り道で、周りに誰も居ないのを確認してから。

 おそるおそる、道の真ん中に立った。

 その次は——。


 その神社を見つけたのは、何回目だっただろうか。

 連夜、散財するせいで小遣いが減ってきた頃。普段ならばコンビニ方面に歩くところを反対側に行った。こんな小さな夜町よまちに毎日通っていれば、そこに訪れるのは必然だったと今では思う。

 一度目は山奥の暗闇に怯えたが、二度目は懐中電灯を準備して、木々の隙間を通り抜ける。

 そして、その小さな神社を見つけたのだ。


 一ヶ月程夜更かしを続ければ、生まれ育った町の景色の大半が塗り変わった。考えてみれば、今までこの土地でつくってきた記憶がとても薄く浅いものだったのかもしれない。だからこの短い夜の時間の方が記憶に残る。


 □□


 神社と云っても、自然に囲まれ荒れ廃れてしまった木の組み合わせだ。所々、腐っているし、全体的に真っ暗であって汚い。未だに中には入ったことは無い。

 この神社を「神社」と呼ぶべきかは分からないが、「鳥居が近くにあったから」神社だと言うことにした。神社とお寺の違いなんて分からない。

 まあ、僕が此処をどう呼ぼうと誰も怒らない筈だ。

 夜は僕だけの時間なのだから。

 最近読んでいるライトノベルのセリフを引用してみる。深夜テンションってヤツだ。

「──はあ」

 ふむ、どうしようか。

 結局此処に来てもクラスメイトや先生に対する悪口しか思い浮かばないのだけれど。

 赤い懐中電灯をチカ、チカと点滅させながら一人、思考する。


「……帰るか」

 深夜徘徊を重ねるごとに、外に出ている時間が短くなってきている。

 見上げると夜に張り付いている星空にも、既に何とも思えない。

 背後に人影を感じて背筋の凍る思いも殆どしなくなった。

 自分が深夜徘徊に、飽きてきた事を認識し始めている。

 自身が根本的に飽き性であるのが問題なのだ。

 ずっと、そう言われてきた。

 お前は飽き性だ。お前は飽き性だ。すぐに飽きる。すぐに飽きる。どうせ。また辞める。

 どうすれば良いのだろうか。何かするのが悪いのだろうか。何もしなければ良いのか。しかし、それを辞めてしまえば。僕は何をすれば良いのか。黙って、勉強をしていれば良いという事か。

「……はー。帰ろう」

 家に帰る。明日は学校がある。普通に生きていれば学校は気楽で楽しいものだから。友達もいる。学校には行くべきだ。楽しいから。それも両親や祖父母に言われてきた事だ。

 何というか、『支離滅裂』だと思う。

 行く理由が楽しいっていうのが何というか納得が行かない。

 もっと、勉強をする為、将来お金持ちになる為、とかの方が。良い気がする。


「助けてぇ。神様ぁ」


 こんなに良い子にしているのに。


 しまった、これは良くない。自分が良い子にしているなんて自分じゃ分からないのに。

 誰に言われた説教だっただろうか。

 しかも、クリスマスの子供みたいな言い方?になってしまっている。今は夏なのに。深夜テンションだろう。


 ─。───。───。

 帰ろう、そう思った時、神社の裏から小さな音がした。

 ソレが山の生き物が鳴らしたものでは無いのは何となく分かった。その音は一瞬ではなく、長い間、無機質に鳴っていたから。

 機械的なリズムを刻む何かは近付くにつれて、そのの全貌を明らかにする。

 ───。───。──ッ。─ーッ。ヴーッ。ヴーッ。


『スマホ』だ。


 その光を。

 初めて見た訳では無い。

 両親が持っている。

 そのスマホでこっそりとバレないように、ゲームの実況動画を見ていた記憶がある。

 ただ、そのスマホ、その光はソレとは何かが違った。

 黒い画面には白い文字で「有栖」と描かれている。人の名前だろう。

 読めない。ありきにし。恐らく、違う。

 緑のボタンを押して。

 その直方体を右耳に近付ける。

「……もしもし。——ですが」

 両親の教えを踏襲して、電話に出る。


「おいおい、誰だよ!クソガキじゃねぇか」


 笑い声とも泣き声とも分からない女の声が光に乗って暗闇に響いた。


 大きな音にビックリして、ソレを耳から離しながら。

「クソガキじゃありません!高校生です!」

 負けないくらい大きい声で嘘を吐いて、返答した。自分は中学生だ。よく分からない嘘を吐いてしまった。しかし、無理矢理に、その原因を探してみればそれは、クソガキだと言われたからだと思う。

「……ハッ!いやいや高校生でもクソガキだから!というかホントに高校生?声はどう聞いても小学生だしなぁ。いや、わからんなぁ」

 女は僕の嘘を独り言のように確認してくる。どうやら、耳の近くでなくてもこちらの声はあちら届くし、あちらの声もこちらに届くらしい。

 僕にはこの女の年齢は判らないけれど、おそらく成人しているのだろう。

 高校生をクソガキだなんて。僕には言えない。

「はい、そうです。勿論、高校生ですよ。どうしたんですか?」

 どうして、嘘を吐いたのか分からない。こんな、くだらない嘘を。ただ、この嘘に反省の念は無かった。本当に。吐いてからも後悔は少しも無い。

 なんとなくだけれど、自分の嘘が捲られることなんて万に一つも無いと気付いているのかもしれない。

「いやぁ。別に、——くん。特に何も無いよ」

 画面が一瞬暗くなって、女の姿が映し出される。

 小さく白抜き文字で何か文字の描かれた黒いTシャツに、まるで狐の尾のようにハッキリと色の区切られた黄色と白色の髪。それに青空のように澄んだうつくしい目。下半身の方は、見えない。カメラの角度の問題だろうか。

 背景は、見た事もないような景色が広がっている。淡い印象の木目の壁に、真四角の暖炉が一つ。カラフルなオーナメントが暖炉の周りを囲うように張り付いている。その他にも名前の知らない家具が映っている。何かの室内ではあるのだろう。

 その画面はまるで違う世界のように見えた。

「外国人…?」

「…違う」

「…じゃあ、異世界人?」

「─はぁ!?ヤバお前。笑える冗談だな!アッハッハ!そうか、そうだね。異世界人と名乗ろうかな。いや、恥ずいな。ソレは、恥ずい。けれど、確かに。……微妙に金髪碧眼とかいうやつかも。キッツいなあ」

 狐髪の女は大きな声で天狗のように独り、からから笑う。狐なのに天狗。天狗の笑い方なんて聞いた事が無いから、知らない。深夜テンションだ。

「異世界人ね。そうそう、異世界人かもしれない。ははは」


「それで、どういったご用件ですか?」

僕は、スマホの中の狐女に尋ねてみた。

「いや、別に。これといった要件は!ないけれど。そうだ、お姉さんとお話しよう」

 彼女が腕を組む。その拍子に彼女の胸が小さく揺れる。咄嗟にソレから目を離す。

 思春期。漢字三文字が頭に浮かぶ。

「はい。しましょう」

 そういう目で見てしまったとしても気付かれる筈が無い。

 僕が意味もなく動揺していると、その女が変な質問をしてきた。

「どうして、私を異世界人だと思ったんだい?異世界に行ったことがあるのかい?」

「いえ、ありません。けれど、なんというか。その、貴方の容姿と。背中に映る暖炉が僕の見た事のない世界で。異世界のように見えたので」

 即答だろう。異世界なんてものが幻想である事は僕も理解していた。

 ほんの一瞬だけ、女の映る世界が幻想のように綺麗だった。ただそれだけだ。

「でも、それって君の読んでいる漫画の異世界とは全然、違うでしょ。」

 女はどこからともなく取り出した金色のアルミ缶を揺らしながら、どう反応すれば良いのか分からない、微妙な指摘をしてくる。

「いえ。そういうのでなくても、その後ろの暖炉とかが僕の家には無いので、それに貴方のような奇抜な髪の色というのは、僕が読んでいるのはラノベなんですけど、現実にはいなくて、どちらかというとそのラノベにしかいない髪の色で…」

 少し早口になってしまっているかもしれない。

「ハッ!よく分からんけど、こういうこと?私の髪型が見た事ないから異世界だ!って事!?」

「そんな感じです。たぶん」

「おいおい!そうなのかよ!じゃあ、私、異世界行こうかな!?トラックにでもひかれてきてやろうか!?」

 この女、酔っている。笑いながら、怒っている。お酒怖いなあ。

 女がスマホの中で立ち上がる。そうすると景色が一転した。夜空が見えた事で、外に出たのだと分かった。そこから見えた景色は、とても華やかだった。女の部屋はある程度高位置にあるのだろう。女が映してくれた下のコンクリートを走るトラックはとても小さく見えた。

 この夜は僕の夜とは違う。そう思わされた。

「でも、君だって金髪の女の人見た事あるでしょう?ない?」

 もう一度、女が口を開く。

 女が外に出る間、僕も女も喋っていなかったようだ。

「いやあ、見た事無いです。漫画とかラノベの世界でしか見た事無いです」

「うわー。可哀想」

 女が蒼い目で見下すように俺の事を哀れむ。何というか不快だ。けれど、凄く美しく見えた。女の顔が整っているからだろうか?僕の周りの大人、両親や学校の先生が、髪の色や眼の色を変えているところを想像したが、気持ち悪いだけだった。吐き気を催してしまう。失礼な話だけれど。

「ちょっと、——くん。君、今スマホ持っているでしょう。それで『金髪 おねえさん』って調べてみて?あ、ごめん。『金髪 女性』の方が良いかもしれないけど」

「えー。あー」

 どうやって調べるんだっけ。

 ユーチューブじゃなくて。

 そう、グーグル。

「調べ方、わっかるー?」

 画面に小さくなって映る、狐女がニヤニヤと煽ってくる。細目で笑う彼女は本当に狐のようだ。

「…わかりますよ」

 画面を操作する——。

「——えーと。何を検索するのでしたっけ」

「ん?あー。金髪の女性って調べてよ」

 ——顔の整った、大きな目をした金色の髪女性達がスマホに大勢並ぶ。心做しか、胸の大きい女性が多いような。


「…でも。貴方とは少し違う。違いますね」

「いや、そりゃそうだろうけど。そうじゃなくて。そういう髪の人見た事無いの?」

「——そう言われてみれば。見た事ある…かもしれません」

「ソイツらは、異世界の人みたいに見えなかったの?」

 ほらね、と言わんばかりにビールの缶をコチラに振ってくる。鈍い光が刺さるように瞬いて、咄嗟に目をスマホから離してしまう。明るい画面から目を離すと、木々の間の暗闇から影送りのように幽霊が浮かんでくる。

 怖くなって、もう一度画面に目を落とす。

「いやあ。見えないですよ。先程も言いましたが、背景が。暖炉とかが。異世界ぽかっただけなんで」

 そうだ。夜らしくないその世界が。異世界のようだったのだ。まあ、こんなにマジメに異世界について語るなんて深夜テンションのように感じられるけれど。

「…なるほど。まあ、君みたいなど田舎人には東京の景色は、そう見えるかにゃあ」

 甘い声を垂れ流しながら、腕を前に伸ばしながら体を柔らかくする女。

 少しセクシーだった。

「…にゃあ。猫ちゃんみたいですねえ。」

「は!?煽ってる?イラってくるんだけど。死ねよ」

「いや、煽ってませんって」


 あれ、そういえば。どうして田舎に住んでいるってわかったのだろうか?此方の背景が暗い森の中だからだろうか。それとも僕の言動から判断されてしまったのだろうか。


 東京住みの彼女からすれば、異世界──都会に憧れる僕を。哀れな田舎のクソガキだと思ったから?

 自分の持っていないものを、嫉妬するのは僕の悪い癖だ。

 分かっている。

「どうして、僕が田舎住みだと。分かったのですか?なんとなくですか?」

「えー。なんとなく」

 やっぱり、そうなのか。

「ごめん。嘘。そのスマホにジーピーエスってのが付いているからさ。高校生なら知っているでしょう?」

「…いやー。田舎育ちの僕には分からないですけれど、魔法みたいな感じですか?」

「おいおい、そのラノベや漫画に全部、例えるヤツ何なんだよ。君が思っているよりも面白く無いよ」

 僕が気にしている部分を指摘された。

「……ええ」

「いや、ええ。って。あはは」

 悪魔のように笑う狐髪の女は、何故か綺麗だったけれど。

「ごめんなさい。深夜テンションで」

 口が勝手にいつもの言い訳を吐き出す。

「ハッ!それだったら、私だって深夜テンションで猫になっちゃっただけだし」

「やっぱり、そうですよね。そうだと思っていました」

「ハッ!お前死ね!」


 突然捨て台詞を吐いて、スマホが事切れた。


 電池が切れたのかと勘違いしたが、直ぐにスマホは光を取り戻した。


 ため息を吐いて、上を見上げると未だに。

 枝に細かく刻まれた月は僕を見てくれていた。


 □□


 □□


「いやあ、ごめん。ごめん。間違えて、切っちゃった」

 嘘だ。絶対に。

「まあ、許しましょう。どうしましたか?」

「……。要件があるんだ。実は、そのスマホの持ち主を探して欲しい」


 よく考えればそうだろう。今、手に持っているスマホが何処からきたのか僕は知らなかった。

 女だって、本当は僕に向けて、電話をかけていた訳じゃない。

 本当は、他の人間と話そうとしていた。

 理解して、嫉妬した。


「——はあ。じゃあ。こんな真夜中の山奥で、誰を探せば良いのですか」

 少し悪態をついてみる。

「やっぱ、山奥なんだ。うわー。えー。マジかー」

「そうですね」

「…君って何歳だっけ」

「高校生です」

「そっか」

 先程と違って、女は画面の中に居ない。彼女の名前が虚しく浮いているだけだ。

「有栖さん。僕に何をさせたいのですか?」

「え、なんで私の名前知ってるの?怖いんだけど」

「まあ、良いじゃないですか」

「名前書いてるかあ。そっか。こわーい」

 女の怖がっている細い声を聞いて、少し嬉しくなる。

 嬉しくなって、画面から目を離して上を一瞬向いた後に、辺りをキョロキョロしてみたが、やっぱりそんなところには、人影なんて無い。山奥の暗がりだからはっきりとは言い切れないけれど。

「あたり、照らしてみてよ。早く」

「どうやっ…て?」

 ——そうか。懐中電灯か。スマホにはそういった機能があった。

「あー。充電無いみたいです」

 画面の右上にある長方形は左側が赤くなっている。

「何%?二〇ならいけるよ」

「十九です。いけますね」

「うん。いけるいける」

 暗がりの森を暖色系のオレンジが照らす。辺りをスマホで照らすと森の景色が一転する。上にも向けてみたが、空には何の影響もないようだ。田舎の星は、この程度じゃ消えないのだ。それが森の暗さを際立たさせてくれた。

 あれ、今まであの暗さで森の中にいたのか。

 怖すぎないか。

 懐中電灯のついていなかった闇、更にはスマホの淡く薄い光すらなかった闇を思い出して、自分の勇敢さに驚く。おそらく、深夜テンションだったのだろうな。

「……めっちゃ暗いのですが、どうすれば良いでしょうか?」

 怯えて、家に逃げ帰る事を考えた。

「怖いの?高校生でしょう」

「……どんな人を見つければ?」

「服装とかいるかな?そんな山奥にいる人間は君とソイツだけだよ」

 だからさっき、確認したのか。僕の嘘を。

 大人ってこえー。嘘を見抜いた上で、こんな使をするなんて。

 嫌悪感が込み上げてくる。

 もし僕が高校生だったら、この暗闇を歩けるのだろうか。

 彼女の住んでいる都会にこんな暗さがあるなんて想像もつかないのだ。

 もし、僕が高校生になっても東京の明るさは望めないのだろうか。

 どうだろうか。

「…死ね」

 やるせない。死にたい。

 もし、僕が東京に生まれていればどうなっていただろうか。いや、ウチはウチ、ソトはソトだろう。もし、どうにかして死ねば。死ぬことが出来たなら。東京に、異世界に転生できるのか。これも深夜テンション。馬鹿らしい妄想だ。

 頭に吐き出され続けた愚痴に区切りを付けた。

「いや。いや!行けます。……高校生ですからね」

 そう考えると。いや、どう考えたかよく分からないけれど。

 自殺願望や、異世界転生の妄想に比べれば、こんなただの暗闇なんて。怖くないと思える。そんな気がした。

 ありがとう、と女が感謝してくれている。

 懐中電灯の光を辺りに振り回すと、道が現れる。


「——こっちだと思います」

「ごめん。どっち?それ、こっちにも見せてくれない?」

「それって何です?」

「ああ。じゃあカメラオンに出来る?」

「成程」

 だろうか。白いボタンを押してみる。

「ハッ!って!マジで暗い。何も見えない。ヤバいね」

 正解のようだ。田舎の夜があちらに送信された。

「じゃあ、行ってみますね」

「ああ、うん。お願い」

 好奇心に満ちた足を動かす。背骨が小さくポキポキと泣き声を上げたけれど、聞こえないフリをした。


 細かい枝を踏み割り、体に覆い被さってくる葉を掻き分けて歩く。

 歩ける部分が狭くなって来る。

「これいけますか?」

「行けるでしょ。大丈夫、死なないって」

 確かに、死ぬ事は無いだろう。

 ドサ。ガサガサガサガサッ。

 右手前の暗闇から大きな音がした。学校の先生が、猛獣が出没すると言っていたのを思い出す。突然、思い出した。

「——聞こえました!?ヤバイです。この山、熊か猪出るんです」

「そうなの。大丈夫だって、気のせい気のせい」

 女の声色はへべれけに染まり切ってしまっている。

「ちょっと待ってください!?お酒飲んでませんか?僕も喉乾いているんですけど!」

 この女、僕が頑張っているというのに酒を飲んでいるのだろうか。

 水も飲まずに、山を歩く僕の気持ちを考えてほしい。

「ごめんごめん。けれど、飲まなきゃ、やってられないって」

「僕は飲めないんですよ」

「そうだね。分かるよその気持ち」

 嘘だ。絶対に。僕の気持ちは分からないんだ。東京に住んでいる大人の女に何が分かるっていうんだ。僕とは何もかも違うお前に。

 顔の見えなくなった女に心の中で反抗する。

 死ね。


「怒っ——だ——」


 フゥン。


 情けない声が聞こえて、視界が暗くなる。


 スマホの電池がなくなった。

 こんなドス黒い闇の中に運び込んでくれた女が無責任に消えた。蒸発した。そのことに理解が遅れた。

 前も後ろも分からない暗闇にあの女とこのスマホのせいで、一人捨て去られた。

 前に進む理由は無くなった、ような気がした。女がいなくなったから。ならば、家に帰るのが正解だろう。

 論理を一瞬にして組み立てたけれど、結局のところ、どちらが帰り道なのかよく分からない。

 全身が冷たくなってきている。

 夏の暑さは何処に消えたのだろうか。

 この狭い山の獣道を照らす光は全て消え去ってしまった事を、理解した。

 成程。ここで僕は死ぬのだ。


 □□


 勿論そんなはずは無く。

 猛獣と遭遇する事も無く。

 足を滑らせて、何処か怪我する事も無く。

 次の日の昼頃、山の中で気絶しているのを大人──警察に発見されて、少しだけ話をした後。

 家に戻された。

 両親は、心配したと泣いて。

 俺も。

 どうしてか泣いた。

































































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淡光 クラムボンはドナネルルが好きだよ/ペンネ @turbo-foxing

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ