2,星川美空の茅ヶ崎ライフ

 妖怪傀儡かいらい魑魅魍魎チミモウリョウ、イカれポンチの奇行種が跋扈ばっこする夏が過ぎ、9月の終わりを迎えつつある。ここに来てようやく涼しくなった故郷ふるさと、茅ヶ崎。


 星川ほしかわ美空みそら、年齢は秘密だけど世紀末、茅ヶ崎公園野球場で地元アーティストのライブが興行された当時は小学生。神奈川県の海辺の街、茅ヶ崎に住む絵本作家志望の歌手。普段は都内のスタジオなどと自宅を行き来し、オフの日は気の向くままに散歩したり、しなかったりする。


 そんな私はきょう、茅ヶ崎市にある私設団体の謙虚なお願いと、所属している残忍無慈悲の激烈冷徹な芸能事務所の命令で一日を費やし茅ヶ崎をレポートをすることになった。


 断っておくが、私が所属している事務所はたまにふらっと里帰りをして茅ヶ崎公園野球場でライブをする彼らの会社ではない。


「ふーう」


 寝坊した。


 カーテンを閉めきり隙間から微かな光が漏れる南向きのマンションの一室。ベッドから身を起こし、気怠さとともにゆるりとカーテンを開いた。


 パシフィックホテル跡地のある茅ヶ崎海岸から臨む日の出からレポートせよと命令されたが現在9時。


 まあいいや。


 茅ヶ崎のことなど何も知らない事務所の担当者は海から日が昇るシーンを期待しているのだろうけれど、茅ヶ崎は三浦みうら半島、房総ぼうそう半島と真鶴まなづる半島、伊豆いず半島に挟まれ、年間通して海の向こうからの日の出日の入りは見られない。朝からきらめく波間を見たいなら日照時間の短い冬がおすすめ。


 ということで日の出の撮影は昨夜眠る前からあきらめていて、日頃の睡眠不足を解消すべく計画的に寝坊した。


 4時間くらい遅刻したけれど、とりあえず寝間着から着替えて使いそうな荷物を持ち出し外出した。


 茅ケ崎駅と海岸の中間を東西に貫く片側一車線、自転車レーン付きの鉄砲道てっぽうみちと片側一車線でも路側帯しかない一中通りが交わる東海岸北ひがしかいがんきた五丁目交差点を東へ進み、コンビニの前に到着。道路の向こうには古びた米の自販機と精米機がある。


 そうそう、ここで少し面倒な説明を。『ちがさき』の漢字表記は駅に関しては鉄道会社の通例によりケの字が大きくなる。これは例えば千葉県姉ヶ崎あねがさき市の姉ケ崎駅でも同様。


 コンビニでアイスコーヒーとタマゴサンドを購入し、更に東へ少し進んで右へ。ラチエン通りに入った。


 このラチエン通りは車線がなく路側帯は一人収まるか収まらないかの申し訳程度の狭い道。それでもコミュニティーバスは通る。


 このラチエン通りは潮風が吹き抜ける閑静な住宅街で、よく見るとひっそりとしたお店があったりする。正に隠れ家。ラチエンは付近に沿道に住んでいたドイツ人の名前。それにちなんでラチエン通りと交わる東海道線の踏切は『異人館いじんかん踏切』という。


 またこのラチエン通り、作家の開高かいこうたけしが住んでいたことでも知られており、海のほど近く、ちょうどいま私が差し掛かったところに記念館がある。


 暴走族や迷惑なウェイ系のイメージがあるかもしれないし一部事実ではあるけれど、茅ヶ崎は文化人に愛される静かな街でもある。とある有名な現役の映画監督は市内にある旅館を定宿とし、世に名作を送り出し続けている。


 松林の間から臨む烏帽子岩が大きく見えるという、現在はリゾートマンションが建つパシフィックホテル跡地の前、菱沼ひしぬま海岸交差点を渡り、松林の間を抜けて海岸へ。


 少々西へ歩いて第一中学校前にあるボードウォークに到着。誰かが置いた白いプラスチックのバケットチェアに座った。木のベンチが置いてある日もある。


 カバンからスケッチブックと24色入りの色鉛筆缶を出し、風景模写を始めた。ここでのスケッチが子どものころからの私の日課。


 海岸に突き出たヘッドランドと呼ばれる岩場、その向こうに烏帽子岩、東に江ノ島、西に富士山。


 ここで水やお茶をちびちび飲みながら、のんびり絵を描く。


 子どものはしゃぎ声、微かに聴こえる波音、叫ぶカラスとクソ野郎ども。それらをBGMにのんびり鉛筆を走らせる。


 ブワーッ!


 風が吹いて砂が巻き上がり、紙面に付着して画がセピア色になった。


 それはそれで味があるけれどベタついた風と砂を浴びて気が病んだので鉛筆を止めてボードウォークの広場へ移動し、段差に腰掛けイヤホンを装着し音楽を聴く。私はよくここでYUIの『LIFE』を聴くけれど、もろに聖地であるサザンオールスターズの『HOTEL PACIFIC』や『夏をあきらめて』なども良き。


 ……。


 !!


 おっと、居眠りをしてしまった。紅に染まる空、くっきり浮かぶ富士の影。


 これもまあ、いつものこと。


 時間を気にせずのんびり暮らす。


 これが地味でぼっち気味な私、星川美空の茅ヶ崎ライフ。

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