第1話

 彼は首の無くなった犬から産まれた。

 母の首は辻道に埋められ、胴体と邂逅することはない。地面に埋まった母の死肉を食い、地上に顔を出した彼を迎える者はいなかった。


 小さな体を占めていたのは餓えだ。羽虫を食らい、道行く動植物を食らっても飢餓感はなくなることはない。

 挙げ句、食べ物のない時期がきた。

 森を色づかせていた木々は裸になっている。肌を刺す寒気と森閑とした夜が冬の訪れを告げていた。

 彼の骨は浮き出ており、全身に乾いた泥がこびりついている。木の根を必死に噛み、冬の間が過ぎ去ることを祈っていた。

 ——通り過ぎる行燈の群れが、彼を赤く照らした。

 大きな餌が列を作っている。背に生えた無数の目が行燈を追う。行燈が描いた影法師が、樹木の中を歩いている。

 目を焼くような明かりが木々の間を縫って動いている。起き上がって揺らぐ行燈の光を追った。

 それが、人間との遭遇だった。



 行燈が案内した先は、大きな集落だった。

 一面には収穫の時期を過ぎた水田の跡があった。土色の地面に、緑のあぜ道が一線引かれている。藁を被った家が水田に沿って建っている。実りの時期が来れば、豊かな稲が水面の如く波打つだろう。

 あぜ道を歩くと、外に出た住民が棒立ちになって彼を見ていた。背中の目玉を一つ向けると、住民は涙を流していた。喉奥から唸り声が出る。

 行燈を持った集団の中から、一人の老婆が抜け出て、近づいてくる。腰を屈め、犬の形をした異形の体を眺める。


 ——なんて、可愛らしいんだろうね。


 弧を描くように、老婆は微笑んだ。

 老婆は少し歩いて手招きをした。空腹に堪え切れなくなって、ぽてぽてと彼女を追った。


 集落の端にあった屋敷が見えた。

 屋根瓦は黒光りしている。屋敷を囲む土塀は彼を威圧していた。

 中に入り、地下の部屋に案内される。石で固められた部屋は、四方を札で飾られていた。新たな住まいだと老婆は言った。それから、彼はずっとそこにいる。


 彼は魅鬼みきと名付けられた。

 泥を洗い流し、露わとなった全身は人を感嘆させた。背にびっしりと生えた目玉は宝石のようだと讃えられ、蠢く赤い尾は椿の花のようだと云う。


『なんと愛らしい』

『このように愛らしい方はどれほど存在するだろうか』

『ああっ、今私を見た! 私を! あの愛らしい瞳で!』


 多くの人間が訪れ、崇め、感涙していた。

 食われることを切望する者もいた。散歩に行こうと誘う者もいた。泣くばかりで言葉が発せなくなった者もいた。そのどれもを食べていいと言われた。餓えが満たされることはなかった。

 天井に近い四角い穴から外界が覗けた。数えきれないほど太陽が山間の間に落ちた。一回り、二回りと、大きい餌を得たことで体も大きくなっていった。魅鬼は地下に居座り続けた。

 彼は言葉を発せるようになった。


「ハラがへった」


 老婆は『また持ってきましょう』と微笑んだ。彼女は毎日魅鬼に会いに来た。食事の時も、目覚めの時も、瞼を閉じる時も、彼女は居続けた。

 腰が大きく曲がり、段を降りるのも苦しくなった。不満を零しながら自身の骨ばった膝を撫でていたある日、老婆は柔和に笑った。


『魅鬼さま。あたしを食べてくれんでしょうか』


 魅鬼は眠っていた。背中の目玉が数個、老婆を見ていた。


『集落のみなが往生できるよう、努めて参りました。不幸になった者はただの一人もいないとあたしは信じております』


 彼女は恍惚に、自分の背丈よりも大きくなった獣を見上げた。白みがかった両の眼から、皺の隙間を潜って涙が零れ落ちた。目の前の獣から目を離さなかった。


『幸せになりたいのです』


 乾いた皮膚が骨に貼り付いたような腕が、最後まで魅鬼に触れることはなかった。彼女は、魅鬼の上下する肩を、艶やかな尾を、うつらうつらとしている背中の目を、一心に見つめていた。地上に向かった老婆の草履の裏は、血で黒ずんだ地面を擦り続けて墨で塗ったようだった。


 老婆は地下に来なくなった。代わりに可食部の少ない餌が、足が届く場所に置かれた。

 餓えていた。骨まで食べた。

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