ある夫の話

根耒芽我

ある夫の話

店のドアを開けると、頭上で「チリンチリン」と小気味のいい鐘の音が鳴る。

小さな呼び鈴のついた、昔ながらの重厚なドアをそっと閉める。


店内はムードのある間接照明で、淡い暖色の灯りがほのかに照らす程度。


カウンターの中では清潔な白いシャツにギャルソンエプロンをつけたバーテンダーが待っていた。一糸乱れぬようきっちりと分けられた頭髪にはほのかに白いものが混じっている。


「いらっしゃいませ。初めてのお客様でいらっしゃいますでしょうか?」

「あ。はい。そうなんです」

「ようこそ。こちらの席にどうぞ」


淡々とはしているが、バーテンは初見の客を拒否するような様子も見せず、左手でカウンターの席を勧める。

それにうなづいて席に着く。


バーテンは手際よく、お冷とおしぼりをカウンターにならべ、

メニュー表を差し出しながら「ナッツもお持ちいたしますね」と声をかけてくる。

「ありがとう」

そう言いながらメニューを受け取り、中の字面に目を通す。


あぁ。すごいな。

どうやらここの店主はウイスキー愛好家のようだ。


「すごいですね。ジャパニーズウイスキーが勢ぞろいじゃないですか」

「ありがとうございます。酒は土地の食べ物に合うように作られていることもありまして、やはり日本人の口に合うものから取り揃えてはおりますが、お客様のお好みに合わせておすすめできますよ。スコッチ、アメリカン、カナディアン、アイリッシュも数は少なくはなりますが、ございますので。」

「へぇ。すごいな。…でも、じゃあ、このブレンデッドで」

「かしこまりました」

指で指示した字面をチラリと見ただけで、バーテンはスッと頭を下げる。

すぐに後ろの棚から目当てのボトルをとりあげ、それからグラスを準備する。

「私のおすすめはロックですが、いかがなさいますか?」

「じゃあ、ロックで」

「かしこまりました」

氷の準備をしながら、バーテンは聞かせるともなく、つらつらと言葉を紡ぐ。

「こちらのウイスキーは国内にいくつか蒸留所を持つ有名な製造会社が作ったものですが、先ほど申し上げました五大ウイスキーを、伝説的な名ブレンダーが厳選して調合したブレンデッドウイスキーになります。…私個人と致しましては、うまいもの混ぜりゃうまいもんができるだなんて、幻想だと思っているんですがね。…いや、そこはやはりプロ中のプロのブレンダーの調合ですから、複雑でありながらも絶妙な味わいを楽しめることは間違いございません。どうぞ、お楽しみください」


そしてこのバーテンもプロなのだ。

最後の「お楽しみください」の言葉と同時に、スッとコースターをおき、サッとグラスをそこに載せた。


「…ほぉ」


間接照明の照らす店内で、透き通ったグラスに注がれた淡い琥珀色の液体は、球体の氷にまとわりつきながらもその深みのある色を失うことはなく。

グラスを持ち上げてその色彩を愛でてから、口に少し流し込む。


華やかな香りが口から広がる。

初めて味わうものだ。


「あぁ。…いいですね」

「それはよかった。」

バーテンはにっこりと笑う。


その時だった。

小気味の良い呼び鈴が再び鳴り、ドアが開いた。

「こんばんは。…いいかな?」

「はい。どうぞ。いらっしゃいませ」

常連なのだろうか。スーツを着た男が入ってきた。

背格好はよくいる中年男そのものだったが、穏やかな顔つきや物腰から、品の良さは感じられた。


「ウイスキーくれる?今日はハイボールがいいなぁ」

「かしこまりました。…どれにいたしましょうかねぇ?」

「ん~。…そちらのお客さんが飲んでるのは、なんの銘柄?」

急にこちらを指さされ、驚いて振り向いてしまう。

「え?…私、ですか?」

「あぁ。ごめんなさいね。僕、知らない人にもついつい声をかけちゃう癖があって…お嫌でした?すみません」

「いやいや。そんなことないです。…えっと、これは…」

銘柄を説明しようとすると、バーテンがにこやかに答えた。

「そちらの松島様は、その日の出会いを大切にされる方でして。同じ店で会ったお客様と同じ味を堪能したいという方なのですよ。もしお気になさらないのでしたら、私の方で松島様にそちらのウイスキーのハイボールをお造りさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

物腰やわらかな口調と、うやうやしく頭を下げるそのしぐさを前に拒否する気にもなれず。

「…あ。えぇ。全然。かまいませんよ」

そう答えてしまう。

にっこりと笑顔を見せてから、再度バーテンが頭を下げ、酒を造りに行く。

そうだ。このバーテンダーとて、一筋縄ではいかない雰囲気がちゃんとあるのだ。

その行方を視線で追っていると、入れ替わるように男がこちらにやってきた。


「すみませんねぇ。…あ、私の名刺ね。どうぞどうぞ」


「精神科医 松島隆三」

そう書かれた名刺を、勝手にカウンターに置かれた。


「お医者様、でいらっしゃいますか?」

「そんなたいしたものじゃないですよ」

男、…松島は、ひらひらと手を振り自分の陣取った入り口近くのカウンター席に戻りながら背中で答える。


「患者さんのお悩みをね、ちょいちょい。と聞きましてね。…でまぁ、あまりにも生きていくのがつらいと申されたら、薬で少し楽になりましょうか?というご提案をする程度の。…たいしたことのない仕事をしている、しがないおっさんですよ」


席につき、両の手の指を組んだ上に顎を載せ。

松島はその細い目をさらに細めて笑顔をして見せた。


その微妙な距離が、少し居心地の悪い間合いで。

まぁ、どうせこの一杯が終わったら電車で帰るのだし、気にすることもあるまい。と、…渡された名刺を指先で遊びながら、自分の名刺も交換するべきかどうか悩んでいた。


「あぁ。私は自分の名刺をこの店で配るのが趣味のようなものなので、そちら様の名刺はいただかなくて結構ですよ。お気になさらず」

さすが精神科医なのだろうか?

こちらの頭の中を盗み見たかのように、つらつらと話し出す。


「そもそも、名刺だけで私の本当の姿がわかるかどうか。本当はそんな名刺はただの嘘っぱちで、何もしていない無職のおっさんの可能性だってありますからねぇ」

「…えぇ?だったらただの詐欺じゃないですか」

「おや?詐欺って言うのは、人をだます意図があって初めて容疑がかかるもので。私はあなたをだます意図などありませんよ?からかう意図はあってもね」

「余計悪質じゃないですか」

「あははははは。冗談ですよ。いやいや、申し訳ない。お詫びにそちらの一杯は私からごちそうさせてくださいよ」


松島はそう言って

ハイボールを持ってきたバーテンからグラスを受け取りながら

「そういうことだから、よろしくね」

とだけ言った。


「お客様、松島様は酔狂な方でして。気に入ったお客様に一杯ごちそうするのが趣味のようなお方なんですよ。お気になさらないようでしたら、こちらの伝票はお預かりしてもよろしいですか?」

バーテンは仕方なさそうな笑みを浮かべながら、一度テーブルに置いた伝票を持っていった。


「なんだか…すみません。詐欺呼ばわりしたくせにごちそうになるなんて…」

「いやいや。いいんですよ。あなたはとても面白い方ですからねえ」

松島はハイボールを口に運ぶと、ごくりと喉を鳴らしてからバーテンに告げた。


「混ぜたねぇ。…まぁこれはこれで。こういう味わいもいいね」

「おわかりになりますか?」

「うん。ブレンテッドは自分から選ぶことはないんだけど。人のおすすめも悪くない」

そう言ってナッツを口に放り込む。


「はてさて。私はねぇ…初めて会った方の…うーん。そうですね。言ってみれば占いをするのが特技でして。…ちょっと、あなたのことを当ててごらんにいれましょうか?」

松島さんは両手を揉みこむように擦り合わせて、こちらを興味深げに眺めている。


「占いですか?…そういうの、あまり信じたりはしませんが」

「まぁまぁ。…うーん。この店が初めて、というよりは…あなたはこの周辺が生活圏と言うわけでもなさそうですねぇ」

「へぇ?なんでわかるんです?」

「だって、そうでなけりゃ。こんなぼったくりバーに、連れもいないのに一人でふらりと入ってくるわけないでしょう?知らないって怖いねぇ」

喉の奥がきゅぅっ。と詰まるような感覚。

ぼったくり?

しまった。…いや。でも料金的にはそんな。


「どきどきしました?大丈夫ですよ。たとえ本当にぼったくりだとしても、その一杯は私のおごりだと申し上げましたでしょう?…怖かったら、それを飲み干したらお帰りになられたらいい」

松島は楽しそうにこちらを見ている。


「もう少しお話ししましょうか。…かと言って、全く知らないわけでもない。まぁいうなれば、…取引先の会社がこの近辺にでもあって、通い慣れてはいるけれど、その会社以外に用事はないから、普段は関係のない場所には立ち寄らない。…そんなところでしょう」

「…それで?」

「あなた、営業職の方でしょうかな?」

「今は管理のほうに回っていますが、まぁ。えぇ」

「でしょうなぁ。大変身なりが整っていらっしゃる。靴先からネクタイ、襟袖まできちんとなさっている。今時ネクタイピンにカフスもきちんと…いついかなる時に客先に呼ばれても支障ないように身なりを整える。営業の鑑ですなぁ」

「不特定多数のお客様を相手にする営業ですから、どのような方に対しても失礼のない服装を整えるのが礼儀です。…私の時代の初歩ですね。今はそうまで強制されない時代でしょうけれど」

「いやいや、それにしてもご立派。…なるほど。女性にもオモテになるわけですな」

「…ん?」

「ふふふ。今日はどこか、お客様のところに行ってこられた後のようじゃありませんか。ほら、その紙袋。いただいたんでしょう?お客様先のノベルティ」

「…あぁ。まぁ。えぇ。社で使ってくださいって、試供品をね」

「少々紙袋がくたびれてますから、日中行ってこられたのでしょう?…今日はとても暑い日だった。おつかれでしょう」

「いやぁ。ホント暑かったですよね。持ち手の部分が手汗で撚れるんじゃないかと思うぐらい汗をかいてしまいまして…」

「その割に、…身ぎれいですなぁ。どこかでシャワーでも浴びられましたかな?」

…ほぉ。


「今日は何社か回る日だったんですよ。営業を生業にしてますから、少々の時間でシャワーを浴びてシャツを着替えられる場所ぐらいは、いくつか知ってますからね。」

「なるほど。いやはや、さすがですな」

松島さんは片手をあげてハイボールを口に運ぶ。


この男はなんだか厄介な気がする。早くこの場を後にしたいが、ロックのウィスキーを煽れるほど若くない。とはいえ、半分以上を残したままこの店を去るのもなんだか癪に障る。


「さすが人たらしですな。他人に不快感を与えさせない努力は見事です」

そしてまた両指を組んだ上に顎を載せなおす。


「まぁ、所詮占いですから、深く考えずにお答えいただきたいのですが。奥様とは仲がよろしいのですかな?」

ふと、左の薬指に視線が落ちる。暖色の間接照明を鈍く反射させる銀色の指輪。

「…悪くはない、と思ってますが?」

そう答えてから松島を見ると、七福神の恵比寿様のような笑顔がこちらを向いていた。

「そうですかそうですか。悪くはない。ですか」

「…言葉尻を取られたようですね」

「いやいや。いいんですよ。あなたのようなお年頃の方ですと、生涯の伴侶の存在と言うのは、そのように自然なものになるのが普通のことですからねぇ」

「自然…なるほど」

物は言いようだ。


「私はねぇ。訪問診療の類も承っているんですよ」

急に話題が変わった。

「まぁ、どうしても。と言うご事情のある方だけ、特別にうかがっているんですがね。あるご婦人から、自分の夫を調べてほしい。だなんて、探偵のようなことをお願いされたことがあるんですよ」

「…でもあなたはお医者様ですよね?」

「そうですよ?精神科医。…ねぇ?変なお願いでしょう?でもね。必死に懇願されてしまったんです。自分が自分でないような気がする。このままでは夫を疑ったまま自分の気が狂ってしまう気がする。かといって探偵を雇うほどのお金もない。実のところ、自分が精神科に診てもらったなどといったら、簡単に夫から捨てられてしまうような気がするから怖くて病院にも行けなかった。そんな私のところまで来てくれた先生だからこそお願いしたい。と。」

「…そのご婦人は、旦那さんの何を疑っているんでしょう?」

「それはね。言わないんですよ」

「えぇ?」

「言わないんです。ただ。調べてほしい。とだけ」

「私だったら、そんなお願いは引き受けられないのですが…お引き受けになったのですか?」

松島はじっとこちらを見たまま、黙っている。

「…え?」

「どうしたと思います?」

「…えぇ?クイズですか?」

「えぇ。…その答え方で、あなたの次を占えるので」

…まだ続いてたのか、占い。

はぁ。…とため息をつく。


「おそらくですが、薬か何かを処方して適当にごまかして。次の診察に来た時にでも詳しい話を聞かせてくれとでも申し上げたんじゃないんですか?」

そして手元のグラスを口に運んだ。


「せーいかーいっ!」

ガタンっ!と立ち上がった松島の、急な大声と激しくはあれど一人分の拍手の音に虚をつかれ、思わず口のウィスキーがこぼれ出るところだった。


「な…なんなんです?」

「あなたは非常に賢いお人ですなぁ。いやいや、感心いたしました」

残り火のような拍手を数回叩いて、松島はようやく腰を下ろす。

「えぇ。見ず知らずの他人を調べるなんて、私にはできませんからねぇ。…でもね。こんなことだって考えられるじゃないですか。私は精神科医。…患者さんは私にすがっている。誰か信用できる人が欲しい。救ってくれる人が欲しい。それが医者であれば安心だ。…そこにつけこむことだってできるわけです。つまり」

そこで、松島の細い目の奥が、笑っていないことに気づいた。

「私が次にそのご婦人を診察するときに、あなたのご主人を調べてみましたよ。と、報告をし、…ご婦人の望むような答えを与えてあげ、さらにご婦人の不安を和らげるような言葉をかけてやり、私を信頼させ、…私に、依存させる」

急に、…いや、きっと元からそうだったに違いないのだが、松島の周囲の照明が暗くその背に闇が迫っているように見えた。

そしてその闇がこちらまで侵食してくるような。


カラン。

置いていたグラスの氷が、音を鳴らした。

琥珀色の液体の中で、球体だったはずの氷がいびつに割れていた。


「怖くなりました?」

再び松島を見たとき、店内は相変わらずの間接照明でほのかに灯されていた。


「…えぇ。まぁ」

「人の話を鵜吞みにしてしまう…と。お人よしですなぁ」

にっこりと笑って、松島は続けた。

「営業さんのわりに、人を疑わないお方のようですね。まぁ、そのお人柄あってこそお客様に信用され、営業成績も上げられたのかもしれませんねぇ。管理職は大変でしょう。営業に回ってきた人間がすべからく、営業に向いている人間とは限りませんからねぇ」

「あ…えっと。」

「ははは。いやいや失礼。これも占いの一環でして。…怖い話を聞かせたらどんな反応をするかで、あなたの人となりを見させていただいたんですよ」

「それ、占いじゃないでしょ」

少しむっとして言い返すと、松島は仕方なさそうに笑って言った。

「こりゃあ、もう一杯おごらないと割に合いませんかな?」

「いいえ。もう結構。…そろそろ帰ります」

席を立つ。バーテンがうやうやしく頭を下げるのを横目で見て、荷物を手に出口に向かう。


「会社近くのホテルでは人目につく。急行が停車しない駅に住む一人暮らしの女性の部屋でなら、人目にもつかない。」

ぼそぼそと松島の声が聞こえてくる。

「管理職なら実際の外回りは若手にまかせて自分は出張らないはずなのに、最近はなぜか得意先に自ら声をかけて訪問し、そのまま直帰する。…アピールするかのように得意先のノベルティを手に持って。…そこの担当さんと飲んでいた。これも付き合いだから仕方がない。…あぁ。女性はお酒が呑めない方か。飲んでいたというからにはどこかで一杯ひっかけないと都合が悪い。居酒屋に一人で入るよりは、さびれたバーのほうが都合がよさそう…」

「なんの話です?」

松島の隣に立って、その頭を見下ろしながら問うた。

彼はゆっくりとこちらを見上げる。


「終電は、大丈夫ですかな?」


私は無言で、店を後にした。





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