第9話 新たな幕が上がる時
ブラックフレイヤーズ座で最も眺めの良い二階のボックス席。ここには他の席とは壁で隔てられた個室がある。赤いベルベットのソファーには、果実酒の入ったグラスを傾ける若い王の姿があった。
「そろそろ開演か。演劇鑑賞なんて久しぶりだな、イーサン」
くつろいだ様子の王とは対照的に、国務大臣は渋い顔をしている。
「ウォルシンガムは現れるでしょうか。彼女が宮殿にいた間は、マーロウが代わりを務めていたようですが。すでに逃げた可能性も」
「どうだろうな」
劇場の明かりが消え、それとともにさざなみのような観客のざわめきも消えた。
イライジャは暗闇に包まれた舞台の上に向け、目を細める。
すると彼らの席からちょうど正面、ほのかに灯る燭台の光が現れた。
暖かな蝋燭の光に照らされた人物の顔を見て、王はイーサンに向かって勝ち誇った顔をすると、口角を上げた。
「いい顔をしている」
ゆらめく橙色の光は、メイ・ウォルシンガムの姿を神秘的に照らし出していた。少年とも少女とも見える容姿でありながら、堂々とした威厳を持つ彼女は、歳を取らぬエルフのようにも見える。
「舞台の上だからではないでしょうか」
「いや」
バルコニーの上に身を乗り出し、イライジャは赤髪の女座長の顔を眺め、目を細める。
ありし日の記憶を思い出しながら。
「あれは覚悟を決めた者の顔だ。どうやら杞憂だったらしい。今日はゆっくりと舞台を楽しむとしよう」
◇◇◇
公演後の楽屋の一室では、ジェイコブとアメリア、そしてメイがソファに腰掛けていた。
ガラステーブルの上には、人数分のワインが並べられている。まるで葬式のような重苦しい空気の中、それを払拭するようにジェイコブが、グラスをとり天に掲げる。
「とりあえず、今日もお疲れ様ってことで」
アメリアもメイも、グラスを手に取り、彼に続いた。
皆でグラスに口をつけたが、誰もが真にその味を感じられてはいないようだった。
メイは目線を自分の膝に落とすと、意を決したように沈黙をやぶる。
「アメリア、ジェイコブ。今後のこと……自分なりに考えてみたんだけど。私、やっぱり父上の跡を継ぎたい」
メイの決意のこもった言葉に、ジェイコブはガタリと音をたてて立ち上がる。
「本気で言っているのかい?」
険しい顔を向けられ、メイは下を向く。
果たして納得してくれるだろうかという思いが、心臓を激しく鼓動させた。
「うん」
メイはグラスをテーブルに戻すと、両手を膝の上で握り締め、顔を上げる。
「みんなを危険に晒す選択になるかもしれない。だけど私は……自分が世の中を動かす側に手を伸ばせるのなら。茨の道でも、その道に進みたいと思った」
あれから何度も自問自答してみたが、別の答えは見つからなかった。
「今の王は、イライジャ様は。宗教に関係なく、法によってのみ裁かれる、秩序ある政治を行うと言ってくれた。カリタス教が権力を握ってきた世の中では、とても厳しい道だし、今は味方も少ない。だけど私は、一緒にその夢を追いたいと思う」
メイは、アメリアとジェイコブの手に、自分の手を重ねる。
「でもそれは、私ひとりじゃ追えない夢だ。二人とも、私と一緒に戦ってくれないか」
琥珀色の瞳には力強さがあった。それとともに、少しの心細さも。
メイの差し出した手のひらは、いつの間にか握り返されていた。家族よりも強い絆を持つ二人によって。
「あなたはそう言い始めるんじゃないかと思ったわ」
アメリアは鼻から息を漏らしつつ、隣にいるジェイコブに諦めたような視線を送りあう。
「まったく、損な性格をしているよねえ、君は」
ジェイコブはメイの形のいい鼻を指でつつく。
「ハリーの仕事を継ぐっていうのは、義務感からの言葉じゃないって言える? ハリーの築いたものを守らなきゃとか、王に頼まれたから期待に応えなきゃとか」
メイは頷く。
「もう、大事な人たちが、理不尽に傷つけられるのは嫌だ。私は自分の意思で、運命を受け入れる側じゃなく、世界を変える側にいたいと思ったんだ」
愛する父は、最後の言葉を交わす瞬間も許されずに殺された。
夢を語り合った友たちは、切れ味の悪いナタで頭髪を剃られ、血みどろの頭で木にくくりつけられ、生きながらに焼かれた。
もう傍観者である苦しみを味わいたくはない。
どんな危険があったとしても、父がしていたように、世界を変える側に回りたい。
しばしの沈黙の後、ジェイコブはメイの赤毛をわしゃわしゃと撫でる。驚いたメイがキョトンとすると、彼は迷いの晴れた表情で笑った。
「王からの初仕事の内容を聞こうじゃないか。我が
「でもねメイ、あまりにも危険な依頼が続くようなら。私はあなたを担いででも国外に逃げるからね」
アメリアはそう言うと、ヤンチャな妹を見守るような顔で「まったく困った子ね」と呟きつつも、眉を八の字にして笑った。
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