第8話 仮面の男
ベッドに横たわったメイは、レースのカーテンが垂れる天蓋をぼんやりと見ていた。
現実に頭が追いつかない。目を瞑れば浮かぶのは、優しい父の顔。
––––話してくれれば良かったのに。
自分が議会で感じた重圧を、父は生涯負っていた。それは辛く、苦しいものだったはず。
機械仕掛けのオルゴール箱のように、思い出が頭の中で流れはじめる。
『メイ、お前は将来何がしたい』
父はまだ小さなメイを抱き上げながら、そう聞いたことがあった。
『私は父上の劇団で演劇をやりたいの。素敵な舞台を、みんなで作るの』
『お前は劇団が好きか。そうかそうか。ではたくさん良い演劇を見て、目を肥やさなければいけないね』
『うん、私頑張る』
愛情深い人だった。今思えば、母が亡くなったことをきっかけに、メイの近くにいられる仕事の形態を取るために、劇団を仮の姿に選んだのかもしれない。しかし一つの作品を皆と作り上げる父の顔は楽しそうだった。本当なら、スパイマスターなどやめて、劇団の方に専念したかったのかもしれない。
今夜の空は曇っていた。次の公演は明日の昼間。それまでには考えをまとめておきたい。
しかしまるでモヤがかかったように、思考は晴れなかった。
ベッドの上で伸びをして、水を飲もうと起き上がる。すると目の前にグラスが差し出された。
「今夜は残念な天気だね」
メイは咄嗟にベッドから飛び降り、護身用としてサイドテーブルに隠しておいた短剣に手をかける。父が亡くなってから、何かあった時のためにと部屋に備えてあったものだ。
部屋には鍵をかけていた。劇団員がここへ自由に出入りできるはずがない。
「おやおや、物騒だねえ。大丈夫、君に危害を加える気はないよ。リラックスリラックス」
相手から間合いをとり、メイは短剣を握る手に力を込める。
「あなたは誰? どうやって入ったの?」
蝋燭の明かりはいつの間にか消されていた。ぼんやりとしか姿形が見えないが、声を聞く限り、若い男性のようだ。
「スパイマスターの駒のひとり、いや、王の駒のひとりって言ったらいいかな。ここへは、ちょっと小道具を使ってね」
スパイマスター、という単語に、メイは反応する。
「駒……父の仕事を手伝っていたってこと?」
「元々はうちの父がね。少し前に亡くなって、僕が跡を継いだの。あ、特技は変装ね。以後よろしく」
勝手にメイの部屋の椅子に腰掛けた彼は、そのまま語り始める。
「イライジャ様が王位についた時点で、メイちゃんに接触するかなー、と思ったからさ。きっと戸惑ってるだろうと思って、様子を見にきたんだ」
「そうなのか。……あなたの、名前は?」
警戒はしつつも、父のことを知っている「駒」の一人と聞き、興味が湧く。
メイのためとは言え、ずっと裏の顔を黙っていた旧知の友人たちよりは、今は話しやすい。嫌いになったわけではないが、家族のような仲であるが故に、素直に話すことに抵抗があった。
「レオンとでも呼んで。ああ、短剣はしまってよ。変なことはしないからさ。話しにくいじゃない」
「……わかった」
「とりあえず、座ったら?」
まるで自分の家かのように振る舞うレオンの姿に、メイは毒気を抜かれる。ベッドの上に座れば、再びレオンにグラスを差し出され、受け取った。
「陛下から依頼があったみたいだね。お父さんの代わりに仕事しろって?」
答えていいものか黙っていれば、相手はそれをイエスととったらしい。
「酷なことするねえ、陛下も。年若い女の子に。知らなかったんでしょ、お父さんの仕事」
「うん……」
「動揺するのも無理はないよねー。しかもドレイクの説得って難題。初仕事としてはハードル高いよねえ」
「……そこまで知ってるんだね」
「僕、あの議会の場に変装して潜り込んでたから」
どうやら、この人物がスパイの一人であるということは間違いないらしい。
議会で話された内容は国家機密だ。貴族であろうとも外部で話せば即、首を切られる。しかも水面下で進められている空賊との交渉など、簡単に外に漏れるような話ではない。
「で、メイちゃんはどうするの。逃げるの?」
「それは……」
「逃げたいよねえ。でも逃げればブラックフレイヤーズ座は捨てることになる。ジュピターは流浪の劇団になるわけだし。かといってドレークとの交渉なんてって感じでしょ?」
レオンは伸びをし、首を鳴らしながら、ひとり語りのように言葉を吐き続ける。
「ただねえ」
彼は立ち上がると、一歩、二歩と様子を伺いながら、メイの方に近づいてくる。
「君の父親は王政の犠牲者だ。そして君の友人たちも。これからもずっと王政は続く。そして何もしなければ、僕たち民衆は時代に振り回され続ける」
メイの前にやってきた彼は、ベッドサイドに置かれた蝋燭に火を灯した。
「逃げることを別に責めているわけじゃない」
レオンは仮面をつけていた。刺繍に彩られた黒い仮面の奥からは、茶色い瞳がのぞいている。
「ただ、僕が言いたいのはね。運命に贖い、自分の力で自分の生きる世界を作る道もあるよってこと。スパイマスターというのは、それが成し遂げられる仕事だ。そして君にはきっと、その素質がある」
そこまで言って彼は、蝋燭の火を吹き消した。ふたたび戻ってきた闇の中を縫って、彼は窓枠へと足をかける。
「伝えたいのはそれだけ。っていうかこれ、ハリーが君に残した遺言なんだけどね。もしも自分が死んで、陛下が君に接触してきたら伝えてくれって。あ、最後に一言。机の上のプレゼント、開けてみてね。じゃあまたねー」
嵐のような男は、そう言って外へ飛び出して行った。
ここは建物の三階部分。慌てて窓に駆け寄り、枠に手をかけて下を見るも、すでにレオンの姿はない。
「消えた……。まだ聞きたいことがあったのに。変わった人だったな……でも」
頭にかかっていた霧が、晴れていくような気がした。
座長として、父の残したものを守ることが自分の存在意義になっていた。劇団は好きだし、この仕事は天職だと思っている。だが。
受け入れられない辛い過去を、胸の内に押し込むため。劇団にかける情熱は、悲しみに狂いそうになる自分の心に蓋をする役割も果たしていた。
目を瞑り、思い浮かべたのは、苦しみの末に果てた父の姿と、炎に焼かれる友垣の姿。
––––決めた。私は。
もう、足元は揺らがない。
自分が手にした力を、民衆のために使いたい。
罪なき人々が、権力によって虐げられる様を、もう見たくはない。
劇場に来る人々が、美しい物語を穏やかに楽しめる、そんな世の中を作る側に、自分が回れるのなら。
机の上に目をやれば、青いリボンがかけられた小さな白い箱が置かれていた。リボンを解き、箱を開けてみれば、中には鍵とともにメモが入っている。
––––父上の字だ。
『入り口に一番近い本棚右上、黒い辞書を奥へ押せ。世界を変える側に回るか、作られた世界で最善をとる方に回るか。それはお前次第だ』
指示通りに辞書を押し込めば、本棚は壁の向こうに向かって開いた。本棚に隠されていたのは、重厚な金属の扉。小箱の鍵を差し入れれば、カチャリと音がして扉が開き、埃臭さに鼻を覆う。
狭い通路を進んだ奥に、六角形の書斎のような部屋が佇んでいた。
手燭を持ち、部屋に入ってすぐ目に入ってきたのは、壁一面に敷き詰めるように置かれたガラス棚と、頑丈そうな大きな金庫。
ゆらめく炎に照らされるガラス棚の中には、膨大な資料が眠っている。
手近な棚を開き、中にある資料を手に取ってみた。そこには協力者の名簿、各貴族に関する情報、様々な屋敷の見取り図など、スパイ活動に使われたと思われる情報が収まっている。別の棚をひらけば、怪しげな薬瓶が群れをなしていた。
ハリー・ウォルシンガムのスパイマスターとしての仕事道具たちが、二年もの眠りの時を経て、今この瞬間、メイの前に姿を現したのだ。
気がつけば、メイの頬には涙の筋ができていた。
「父上……」
娘の身の安全のため、きっと父はすべてを隠し通すつもりだった。
しかし万が一の時のために、レオンに伝言を託し、生涯をかけて成し遂げた仕事の一端をこの部屋に残していたのだ。
運命の激流がメイを飲み込もうとした時、自分の意思で進むべき道を選べるように。
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