第5話 紛糾する議会
夜明けを告げる鳥の囀りが、メイを眠りから呼び覚ました。寝ぼけ眼を擦りつつ、ベッドから身を起こし、頭を切り替える。
上等なベッドで眠ったせいか、思ったより疲れは感じなかった。
着替えとしてイーサンが用意してくれた立派なダブレットに身を包み、鏡を見る。目のきっちり詰まった見事な黒の生地に錦糸の刺繍。ひと目見て高価なものだとわかった。
––––私の意を汲んで、ドレスではなく男装を用意してくれたのか。
メイに初めて会った人物は、だいたいが「なぜ男装を」と聞いてくる。胸に手を当てて挨拶をすれば、それが女の挨拶かと
だが王はそれをしなかった。ありのままの自分を受け入れ、その上で「自分の下で仕事をしろ」と言われたことは嬉しかったが。
「スパイマスターとは、国内外での諜報・防諜活動を司る長だ。平たく言えば、築き上げた情報網を使い、危機的状況をいち早く察知して国王に報告する役目だな」
そう、イライジャは話していた。
本当に父がスパイマスターをしていたのだとしても。自分にその才能が受け継がれているとは到底思えないし、知識も経験もない。それに劇団の仕事だってある。辞退しようとすれば、「まずは明日のイカルガ王国議会に参加してから決めろ」と言われてしまった。
着替えを終えれば、使いの人間がやってきた。
––––きっと父上は、興行の誘いを断ったから殺されたのではない。アメリにとってオリバー三世のスパイマスターは、消しておくべき存在だったんだ。
アメリは敵対する派閥のものを躊躇わず殺したと聞く。しかし庶民に限っては、宗教がらみの理由以外で殺されたという例は少ない。
考えてみれば、興行を断った程度で座長が殺されるわけがないのだ。おまけに当時の劇団ジュピターの客は、ほとんどがカリタス教徒。彼らをもてなす父が、謀反を疑われるというのも考えにくい。
おそらくアメリは、父がイライジャと通じていることを知っていたのだ。
長い回廊の突き当たり、メイの身長の五倍はあろうかという重厚な木製の門扉が見えた。
––––あれが、イカルガ王国議会の議会場か。
門の両端を守る衛兵は訝しげにメイを見たが、使いの侍女が事情を話せば、重い扉はギシギシと音を立てながら開かれた。
建築されて百年は経とうという石造りの議会場は、だいぶ古びて見えた。綺麗には磨かれているが、おそらく補修が適切になされていないのだろう。カリタス教の司祭、議員、役人たちが、整然と並べられた椅子に着席している。ピリピリとした空気が、肌で感じられるようだった。
「ウォルシンガム、こちらです」
正装に身を包んだイーサンが、目配せをする。メイは議会の末席に案内され、腰を下ろす。
「では、またのちほど」
彼はメイが座るのを確認すると、議会場の中心に位置する玉座の横へと戻っていった。
昨日は王と直接言葉を交わしていたが、自分のいる位置でどれだけの身分差があるのかを否応なく感じさせられる。
イーサンがメイと話していたことで、周囲の議員たちも興味を持ったらしい。話しかけこそはしないが、チラチラと奇異の視線が送られてくる。その中にはジュピターの公演で見かけたことのある貴族の顔もあったが、皆一様に訝しげな顔をしていた。
赤髪はこの国では珍しい。それに侍女のようにドレス姿でもない、男装の女が議員席に座っているというのも異様なのだろう。議員はこの国の貴族のみが選ばれることを許されており、国の重要決定に意見を述べる者。女であり劇団の一座長であるメイが、この場にいるのは明らかに場違いだ。
国王が現れ、玉座につく。
つつがなく議題が進んでいく中、メイは、この国の窮状を理解した。
––––これじゃあ、いつどこかの国の属国になってもおかしくない。
かつてイカルガ本島、隣国ネザーランドおよびフランセスの一部を領土としていたイカルガだったが、前王アメリ時代に多くの戦に負け、国庫は破産寸前、軍隊も弱体化し、現在の国土をなんとか維持できているといった状況。
そこまで酷い状況だとまではメイも知らなかった。アメリ時代は、煌びやかな戦歴が語られ、潤沢な資産をもった強い王国がアピールされていたからだ。今を思えば、当時は情報統制がなされていたのだろう。
アメリの急死によりイライジャが王位を継ぐことになり、議会も混乱しているように見える。
「隣国フランセス、およびネザーランドも、隙あらばイカルガの玉座を狙っております。陛下には、早急に婚姻による各国との友好を図っていただく必要があります」
「ここのところの異常気象による作物の不作、継承問題、宗教的混乱により、各国とも内政に労している今なら、平和的な交渉ができます。何卒ご検討を」
婚姻による関係維持を主張する議員たちに向けて、含み笑いをしながら王は答える。
「検討ならしてやってもいい。しかし、どちらの国を妃にとる? まさか同時に妃を嫁がせるわけには行かんだろう。我が国は一夫多妻制ではない。カリタス教でも重婚は禁止している」
「それは……」
「今考えるべきは、国庫の赤字改善、兵力の強化なのではないか?」
イライジャは飄々とした様子で議員に返した。肘掛けにもたれ、頬杖をつき、議員の返答を待っている。
「しかし、各国からすでに大使が……」
「検討する、と返答しておけ」
「お言葉ですが、陛下。確かに赤字改善は急務かと思いますが、『空賊』を味方につけるという案は、おやめになった方が良いかと。犠牲が増えるだけです」
––––『空賊』を味方につける?
議員から飛び出した奇想天外な話題にメイは目を見開いた。すると陛下はニヤリと笑い、なぜかメイの方に視線を向ける。
「ウィリアム卿、礼を言う。ちょうどその議題に移ろうと思ったところだ」
イライジャは玉座から降り、議員たちの表情を見渡しながら、広間を貫く毛氈の上を悠然と歩いてくる。
「アルバート・ドレーク率いる空賊団、アストラム。彼らは諸国の貿易船を狙い、襲撃し積荷を奪っている。空を制する彼らを前にしては、海賊でさえ進路を変えるという」
状況を把握できていないメイに向けてか、改めて確認するようにイライジャは話す。
「彼らに出資する代わり、新大陸でのイカルガとの通商交渉、および植民地の開拓、また空と陸の防衛に力を貸してもらう。そういう案だったな、イーサン」
「はい。アストラムと協力関係を結ぶことで、我々は空賊の被害を抑え、彼らが航海により得た利益の一部を手に入れることができる。これにより赤字財政の補填につなげる狙いです」
イーサンの言葉に王は頷く。
「いかにも。難易度の高い交渉ではあるが、なんとしても成功させたい」
「しかし陛下、すでに一度目の使者は殺されています。二度目の使者は」
ウィリアム卿がそう叫べば、イライジャはイーサンに目配せをした。
「昨日、戻ってきた。イーサン」
「はい」
イーサンは、一度奥の間に入り、りんごの木箱のようなものを持ってきた。そして彼はそれを開けると、中から薄汚れた麻の袋を取り出す。
麻袋の半分は、どす黒く変色していた。鉄臭さの中に、卵の腐敗臭が混じったような不快な匂いが議会場の中に広がる。粘度のある赤黒い液体が、袋からしたたっていた。あれはおそらく、使者の––––。
メイは思わず顔を逸らし、えずくのを必死に耐えた。
「陛下! ドレークとの交渉は諦めるべきです。奴は話の通じない、残忍極まりない悪魔です。それならばまだ、他の有力な海賊に話を持っていく方が……」
そう叫んだ若い議員は顔を真っ青にしている。しかしイライジャは興味のなさそうな顔をして、淡々と持論を展開する。
「空を制する力は我が国にはない。ネザーランドには騎竜部隊がある。軍事力としての意味でも、圧倒的な空の戦力は手に入れておきたい。そこらの海賊を手中に収めるのでは意味がない」
「しかし、陛下」
「おお、そういえば。先日、宴の席に呼ぶ劇団の候補を探すため、観劇に行ったのだが」
ざわめきが議会に広がる。突然何を言いはじめるのかという困惑に、議員たちの表情が歪む。
イライジャは再び歩み出し、靴音を響かせながら、一歩一歩絨毯を踏み締めるように進みはじめた。
「素晴らしい候補が見つかってな。さらに座長が大変に賢い人間で。見聞も広く、交渉術に優れている」
––––まさか。
心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が背中を濡らす。
「俺はぜひに、彼女にドレークとの交渉を頼めないかと思い、この場に呼んだ」
すでに王は、メイの目の間にやってきていた。自信に満ちた表情に、有無を言わさぬ圧迫感を纏わせて。
「しかも聞けば彼女の名は、メイ・ウォルシンガムだという」
一瞬の静寂ののち、議員の視線が一挙にメイに向かって押し寄せる。
「まさか、あのハリー•ウォルシンガムの娘? 役人でさえないではないですか。お遊びで劇団を取りまとめる小娘など。かつて父親が王家に尽くしたからといって、娘を連れてくるとは……」
髭を蓄えた初老の司祭が、苦言を呈する。父を知っている口ぶりだった。
「立て、ウォルシンガム」
司祭の言葉など聞こえなかったかのように、イライジャはメイに命令する。メイは無言で立ち上げると、礼を取り、再び背筋を伸ばし、陛下を見つめた。
琥珀色の大きな瞳と、ラピスラズリの双眸が交錯する。
「我が父王オリバー三世の忠臣、スパイマスターの娘。ハリー・ウォルシンガムの情報網を活用し、ドレークを味方につけてみせたまえ」
怒号がなり、空気がビリビリと震える。
その場にいた全員が立ち上がり、異を唱えていた。
–––やられた。これじゃあ断れないじゃないか。
議会の場で王に宣言されてしまえば、反論することなどできない。下手をすれば反逆罪でギロチンだ。
全身の血管が脈うつ。周囲に動揺を悟られまいと眉根に皺をためながらも、王から発せられた一言に、言葉を返せずにいた。
「こんな女に何ができるというのか! 一劇団の女座長など」
「陛下は牢獄に長い間いらしたために、気でも違えられたのではあるまいな」
剥き出しの侮蔑と嘲笑、憤り。負の感情を浴びせられながらも、王は一ミリも表情を変えない。むしろ楽しんでいるようだった。
改めて、メイはこの王の状況を理解した。味方など、片手で数える程もいないのだと。
「鎮まれ! 王の御前である」
氷のような一声が、その場の空気を押さえつける。イーサンが声をあげたのだ。
「随分と威勢がいいな、議員の皆様は。では彼女の代わりに、ドレークの元へ向かってくれるか? こんな小娘よりも、自分の方が上手だというものは?」
煽るようにイライジャがそういえば、先ほどまであれだけ怒鳴っていた人間たちが口をつぐみ、広間は水を打ったように静まりかえる。
「いないのか。じゃあ決まりだな。では」
イライジャはメイに向き直り、声を張りあげる。
「メイ・ウォルシンガム。すでにドレークとの次の交渉の日時は決まっている。二週間後だ。しかと準備せよ」
反対する者たちの声は、もう聞こえない。
目の前に立ちはだかる王の姿を、ステンドグラスの影が彩っていた。
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