第4話 ハリー・ウォルシンガムの裏の顔
夜の闇の中、漆黒の馬車が走り出す。
イーサンはあれから一言も発さず、メイから顔を背けている。
––––父上は国王と、どんな繋がりがあるのだろう。
メイが物心つく頃、先々王––––現王イライジャの父であるオリバー三世の時代、メイの父親は役人として国内外のあちこちを飛び回っていた。だが、具体的な仕事内容については聞いていない。
窓にかけられたカーテンを上げ、外の様子を伺う。馬車は宮殿へと続く大通りを進んでいく。すでに家々の窓の光はまばらで、街は眠りにつきつつある。
移ろいゆく景色を見ながら、メイは思考を巡らした。
メイが十二歳の頃、母が病死したのをきっかけに、父は役人を辞め、劇団を始めた。
その後やってきた五年という短いアメリ前女王の治世。その大半の間イライジャは塔に幽閉されていたし、王になったのは三ヶ月前。
––––父が亡くなったのは二年前だ。なぜイライジャ王は父に用がある?
いつの間にか馬車は、シクリッド広場に差し掛かっていた。「血塗られた女王」と呼ばれたアメリの時代に、罪人の処刑が行われていた場所だ。広場中央には、月の光で朧げに照らされた噴水が見える。
一見美しい広場だが、地面を見れば惨劇の跡が未だ残っていた。
石畳には赤黒い血の跡が残り、ところどころ焼けこげたようになっている箇所もある。拭っても拭っても取れぬそれは、疑心暗鬼になった女王によって消された命の刻印。
メイは唇を噛み締める。
今になって恐怖が襲ってきた。イライジャ王が開けた考えを持っていようとも、彼とて王族。アメリと同様、邪魔者に対して容赦はしないだろう。そうして築かれてきたのがこの国の歴史である。
呼ばれた理由はわからない。
場合によっては自分も、この広場の血のシミの一部になるかもしれないのだ。
宮殿に着くと、イーサンに案内され入り組んだ地下通路に進む。ここは役人が表立って使う通路ではなく、メイドたちが主に使う使用人用のものだそう。
客間に通されるのかと思いきや、案内されたのは王の私室。側近のみが入室を許されるその扉の前に、メイは立っていた。
時は夜半。少数の使用人や役人を除き、ほとんどの人間はすでに寝静まっている。イーサンが軽くノックをすれば、王自らが扉を開けた。
「来たか、入りたまえ」
高いが、威厳のある声だ。メイは室内に入ると、視線を下げ、左胸に手を当て挨拶を述べる。
「お呼びいただき、光栄でございます。陛下の僕、ウォルシンガムでございます」
「ああ、そういうのはいい。顔を上げろ。格式ばった礼儀は求めておらん。俺が求めているのは、腹を割って議論できる相手だ。まずは座れ」
メイは一瞬の逡巡ののち、ソファーに腰掛けると、視線を上げて王の顔を見た。
即位して間もない王––––イライジャは、今年二十五歳になると聞いている。ラピスラズリを連想させる深い青の瞳、色素の薄い茶髪。鷹の如く精悍な顔立ちをした若い支配者は、獲物を品定めするようにメイを見つめていた。
「メイ・ウォルシンガム。燃えるような赤い髪を持つ、男装の麗人。父ハリー・ウォルシンガムが立ち上げた劇団を、首都でトップクラスの演劇集団まで押し上げたと聞いている」
「もったいないお言葉でございます」
王は表情を変えない。じっとメイに視線を向けたまま、目を細める。
心の奥を探るような眼差しに、口の中が乾く。言いようのない緊張感がメイを襲った。
「なあ、ウォルシンガムよ。本題を話す前に、一つ問いたい。お前は王家を憎んでいるか?」
投げかけられた言葉に、メイは眉を顰める。
「それは、どういう意味でしょうか」
「ハリーは、王家からの来賓をもてなしたあと、自室で突然死しているな? その日王家から持ちかけられたのは、宮殿での興行。しかしハリーは断った。だから毒でも盛られたのだろうと、同席していたマーロウから説明された、そうだな?」
あの日来賓が去ったあと、ジェイコブと話し込んでいた父は突如呻き声をあげた。苦しげに首元を押さえた父は、膝から崩れ落ち、その場に倒れ込む。
メイが呼ばれて部屋に入る頃には、すでに息を引き取っていた。
「その通りです」
「愛する父を王家の手によって理不尽な理由で殺された。憎むにはもっともな理由だろう。さあ、答えろウォルシンガム。お前は王家を憎んでいるか」
メイは拳を握りしめる。
普通なら「いいえ」と答えるのが正解だろう。しかし今の話を聞いて、この王はメイの身辺を十分調べてからここに呼んだのだと考えた。そうでなければ、前王時代に殺された一劇団の座長の死因について、イライジャが詳しく知っているはずがない。
––––この質問で、王に媚びへつらう人間か、腹を割って議論ができる人間かを見定められているとしたら。
心を落ち着かせ、覚悟を決める。
「私は王家を憎んでいます」
メイはまっすぐにイライジャの目を見て、そう答えた。
「そうか。やはり父を殺した王家が憎いか」
ラピスラズリの瞳が鋭く光る。
「父のことだけではありません」
メイは両手を握りしめながら、苦々しげに続けた。
「幼少時代を共に過ごした私の大事な友人たちは、無実の罪で焼かれました」
胸が抉られるような悲しみが胸を支配する。しかし無事に帰してもらうには、トラウマを理由にか弱い女の身に落ちるわけには行かない。込み上げる胃液を堪えながら、ただただ冷静に、王の信頼を得るために言葉を発していく。
「ドミニク教徒だったのか」
「はい」
「女王に対する謀反の疑いで焼かれたのだな」
「その通りです」
この国では長い間カリタス教という一神教が信仰されてきた。しかし教会の腐敗に非難が集まり、イライジャの父オリバー三世の時代に、より寛容な考え方を取り入れたドミニク教という教派が立ち上がる。オリバーはドミニクを保護したが、跡を継いだ敬虔なカリタス教徒アメリ女王がこれを脅威と見做し、ドミニク教徒の弾圧を始めたのだ。
罪なき多くのドミニク教徒が「謀反」の疑いで処刑され、その多くが火刑に処された。
「これまでの歴史でも、信仰する宗教を理由に民は殺されてきました。王が変わるたび、異端とされる人間も変わり、残虐な方法で罪なき命が奪われています。ですから私は」
メイは最後の一言を絞り出す。
「自分の身を守り、権力を維持するため。民衆の命を弄ぶ王家の政治を私は憎んでいます」
イーサンは片眉を上げ、避難の目でメイを見たが、王はなぜか薄笑いを浮かべていた。
賭けだった。現時点ではこの王がどういう気性で、どんな人物を好むかなどということまではわからない。王の好みは貴族の好みにも直結するため、普段から積極的に情報は得ているが、なにしろ在位三ヶ月。劇団の客からもたいした情報は得られていない。
開けた考えを持っている。
アメリの恐怖政治もあり民衆からの期待を背負っている。
今わかっているのはそれくらいだ。
メイは目の前にいる人物の瞳を見ながら、発するべき言葉を選んでいた。
「陛下はドミニク教徒だと聞いています。陛下の御代では、カリタス教徒を処刑なさるおつもりですか?」
挑発とも取れる発言だが、この先関わらなくてはならなくなる相手なら、どうしてもこの質問の答えを引き出しておきたかった。
相手が再び血塗られた政治を行うようなら、関わりたくない。
「言葉がすぎますよ、ウォルシンガム」
「まあ、いいじゃないかイーサン」
声を荒げるイーサンを諌めつつ。少年のような無邪気さを残すイライジャは、面白いものを見たとばかりに満足した表情をして、ソファーから立ち上がり、メイの方に悠々と歩いてくる。
「人民は、宗教によって裁かれるべきではない。罪によってのみ裁かれるべきだ。疑わしさや信条の違いによって人殺しをするのは、馬鹿げた行いだと思っている」
「それでは、前王のような迫害はされないと」
「しない。神に誓おう」
イライジャの瞳に嘘偽りはなかった。きっとこの男は本気でそう言っている。
そう感じたメイは、この男に好感を持った。
「法整備に力を入れ、宗教の自由を認め、秩序ある政治を行いたいと思っている。……だが」
途端に彼は難しい顔をした。そしてため息をつき、言葉を継ぐ。
「味方は多くない」
「そうでしょうね。今の議会のほとんどは、前王の忠臣と聞いています。多くはカリタス教徒ですし、自分たちの権力を取り上げられるような政治は、嫌厭されるでしょう」
「政治にも明るいのだな」
「仕事柄、貴族の皆様と交流がありますので」
「では、俺が次に何を言おうとしているのかもわかるか」
「……味方を増やしたいと、お考えですね。私をお呼びになったのも、そのためでしょうか」
「その通りだ」
口角を上げる王を前に、メイはゆっくりと息を吐いた。
どうやら対応を間違えてはいなかったらしい。いろいろと失礼なことを言ったように思うが、ここまで王の癇癪に触れなかったことに、メイは心底安堵した。
しかしほっとしたのも束の間、王の想定外の言葉が部屋に響く。
「俺はお前が欲しいのだ、ウォルシンガム」
思わず顔を上げたメイは、若き王の口元が意地悪く歪んだのを見た。
瞳の奥に潜む意図は読み取れなかった。彼が自分に向けた言葉に、メイは戸惑う。
すると王はニヤリと笑い、メイの琥珀色の瞳を覗き込むようにして言った。
「メイ・ウォルシンガム。オリバー三世のスパイマスター、ハリー・ウォルシンガムの跡を継ぎたまえ」
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