4-1(ディートリヒ)
顔を見た瞬間、気付いた。彼女が誰であるのか。それと同時に、血の気が引いた。終わったと思った。自分の人生が。
(死んだと思った。というか確実に死んでた。王族に剣を向けた奴の末路なんて、一択しかないからね)
せいぜい、その場で死ぬか、獄中で死ぬかくらいの差だろう。生き残れる可能性は、ほとんどゼロだった。
けれど、生き残った。有難いことに。運の良いことに。
あと一歩、彼女の判断が遅ければ、彼女の第一護衛である白騎士が現れて、その場で頭が胴から離れていただろう。そうならなかったのは一重に、彼女が自分を庇ってくれたから、である。
(夜会に出ておいて良かった。彼女の顔を知らないままだったら、あんな下手な言い訳に誤魔化されるはずないし、普通にクラウス卿を呼ばれて、相手が王族だって知らされた瞬間に、殺されてた自信があるね)
考えただけで、背筋に冷たい物が走る。本当に、面倒臭がらずに夜会に出ておいて良かったと、心の底からそう思った。まあ、本日の主役である王女殿下が会場入りしてすぐに、外の黒騎士と持ち場を交換せざるを得なかったわけだが。
自分は少々、面倒な見た目をしているため、人が多い場所では騒ぎになりやすいのである。だから自分を会場内に配置するのはやめるべきだと何度も言っているというのに。
王城で行われる夜会では、一度は会場に顔を出すようにと、貴族のお偉方から指示があったとかなんとか。その貴族のお偉方も、溺愛する娘が願ったから、そのようなことを言い出したのだろうが。こちらにしてみれば、良い迷惑である。甘やかされた貴族の令嬢なんぞ、こちらから願い下げだ。
なんて、思っていても口にしないし、顔に出すこともないが。
暗がりの中、一際暗い闇の中に、自らの腕が溶け込んでいる。周囲には、まるで空気中に焼き付いたようにも見える、黒く細かな、文字と記号の数々。王女のブレスレットと座標を連動させた、転移の闇魔法陣であった。
闇魔法の修行を得たために、異様に夜目の利く自分でも、その魔法陣の中を染める闇の中を見ることは出来ない。完全に中に入ってしまえば別だが、その中はあくまでも異空間であるため、外にいる状態のまま、中を覗き込むことは出来ないのである。
しかしその手の感覚だけは、はっきりとしている。ぎゅっと握った手のひらの中には、自分よりも一回り小さく、か細い手の存在。彼女が歩くたびに、こちらの腕もゆらゆらと揺れていた。
と、無事に向こうについたのだろう。とん、とん、と腕を二度、軽く叩かれる。闇魔法を失敗することなど有り得ないと思っていたので驚きもしなかったが、相手が王族であり、高貴な『女神の愛し子』である。知らず、ほっと息を吐いていた。
「……次会う時は、顔を見ることも出来ないだろうね」
王族の前では頭を下げ、顔を上げた後も、通り過ぎるまでは目線を上げないのが常識だから。もちろん、身分が高い貴族たちや、護衛を許された白騎士であれば話は違うけれど。
ぽつりと呟き、彼女の手を握っていた手を、開いた。ひらひらと、軽く手を振って別れの挨拶をして、魔法陣から腕を引き抜く。
すっと、何の抵抗もなく、闇の中から自らの手が現れた。確認するように、それを何度か開いては閉じを繰り返す。
まあでも、彼女の顔を見ることが出来たのは、嬉しかった。ずっと会ってみたかったから。それどころか、言葉を交わすことまで出来たのだ。自分は随分と、幸運だといえよう。
孤児である自分にとって、『女神の愛し子』というのは、神にも等しい存在だった。彼女のおかげで命を救われた回数など、国民であれば一度や二度ではないだろう。もちろん、騎士たちが多く巡回している城下であれば、また違うだろうけれど。
それに、対魔物の戦闘が多い黒騎士にとっても『女神の愛し子』がもたらす情報は、何にも代え難いものばかりだった。命を救われた者、腕を落とし損ねた者、足が使えなくなる前に逃げ出せた者。誰もが皆、彼女を讃えていた。
メルテンス王国の王女であり、人々を救う未来を口にする、高貴なる『女神の愛し子』。だからきっと、他の貴族の令嬢たち以上に敬われ、傅かれ、美しく着飾っているのだろうと、頭の隅ではそう、思い込んでいた。けれど。
初めて見た彼女の姿は、今まで見たどんな貴族の令嬢たちとも違っていて。それどころか、自分が幼い頃を過ごした、貧民街であればどこに行っても目に入る、やつれた、疲れ切った人々と、同じ姿をしていた。
ただその目だけは、あまりに静かに、澄んでいたけれど。
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