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「閣下、こちらへ」


研究員が夕凪のテーブルにリシュトを招いた。

リシュトが連れていたから楼子にも警戒することなく、研究員は夕凪の進捗を説明した。

夕凪はおずおずといつからいつまでの分を終えた、とリシュトに報告した。

まだ二割程度だ。


楼子は、卓上に開かれたままの芳の手帳に目を落とした。


芳の日記はプリクラ手帳の後半部分で、性格なのか、ぎっしりととても小さい字で綴られていた。

この世界にはない茶色のインクのプラスチック軸の極細ペンが手帳の横に挟まっていた。


馬車、めっちゃ酔う。レナートが一緒に乗っててくれなかったらたぶん耐えらんない。メリーゴーランドでも酔うっての。単車が恋しい。レナートが礼拝堂半日がんばったらノール湖畔でランチって言うからがんばるしかない。愁笛の塔はほんとに笛の音が聞こえる。レナートの個人的な研究施設っていうけど、ほとんど別荘。めっちゃ部屋豪華。


レナート、とたくさん出てくる。

なんだか微笑ましい。

携帯の写真フォルダを思い出す。

仲の良いふたりの写真。


夕凪の視線に気が付いて、楼子は顔を上げた。


「ロロ」

「うん、夕凪、お仕事おつかれさまです」


聖女が話しかけた子供を、周りの研究員が今更何者か気にした。

率先して説明したのは夕凪の教師だった。

聖女様の補佐である、と簡単に。


「ロロです。しばらくヒューベルト殿下の内務になります」


リシュトが付け加えた。

声音に感情はない。


「ヒューベルト殿下の」

「殿下からこちらを案内しておくようにとのことだったので、顔を出す機会もあるのだろうと思います」


リシュトの後ろで、よろしくお願いしますと頭を下げた楼子に、研究員もみんなお辞儀で返した。

縦社会でヒューベルトの名前効果を思い知る。

夕凪のように、ひとりの人間として認識されるには、楼子にはもともとの社交性の低さの問題がある。

加えて子供である。

権力に追従していた方が安全で尊重される事実が身に沁みる。


受け入れるしかないので、反感をもつとか跳ね除けようとかは考えない。

リシュトの立場が大事だ。

ヒューベルトはリシュトの上司で、兄で、次期国王だ。


ヒューベルトの監視下は、第二騎士団より不自由かも知れない。

多分、前回のように王都を飛び出したりはできない。

それはリシュトに対する楼子の安全を伝えているのではないだろうか。

だから安心して仕事をしてこい、とか。

仲違いしている風はないし、さっきの言い争いくらいはむしろ、弟が大好きである雰囲気を感じ取ってしまう。

リシュトのことを語るヒューベルトの言動には、楼子はなんとなく共感できるものがある。

ヒューベルトなりの気遣いではないかと思うのだ。





「しばらく缶詰でさ。折角春なのに、ピクニックもしてないんだよ。こっちって桜がないからお花見とかしないみたいなんだけど、結構あちこち大きな花畑あるから絶対楽しいと思うんよ。ガーデンパーティはあったんだけど、もっと友達だけでぱーっとやりたいよね」


研究所の休憩室へ移動して、夕凪が椅子に座ってすらりとした手足を伸ばした。

腕を上げると上着からへそがちらちら見えるのが心配である。

短い上着にワイドなパンツとかマキシ丈のスカートは最近どうやら「聖女スタイル」として定着したようで、あまり奇異に見られなくなったようだ。

一日に何度も着替える夕凪だけれど、選べるときは好きなスタイルで、モリーが夕凪の好みを熟知して新作を持ってくる度大盛り上がりするおしゃれ女子トーク。

楼子には人生であまり縁がない話題だったために、巻き込まれても聞くのみである。


「研究室は何着てても文句言われないから助かるよ。やっぱクールビスだよ。あたし集中力ないからさ、すぐ飽きてきちゃうから、ちょっとテンション上げてかないと。でもね、礼拝堂に行く時はちゃんと着替えてる。聖女の衣装も最近慣れてきたし、デイレイン団長がなんと、礼拝堂に会いに来てくれるの。超嬉しい。だからちゃんとしてる」


夕凪の移動にはいつもの護衛の騎士も付いている。

神官に油断しないということを示すために警備を増やしたのか。

それとも。


楼子はだったらいいな、と口許をゆるめた。

オルゼアが夕凪を気にかけてくれているなら。


「あっ、アスティア団長がいない時もちゃんと真面目に仕事してる……してます」


休憩室の中央のテーブルで夕凪と楼子が座って話をする間、リシュトは待っていると言った。

戸口の、若干冷や汗が浮かぶ夕凪の護衛騎士の反対側で無表情に立っている。

会話は筒抜けだ。


「うん、ちゃんとしてました。見てましたよ」

「先生が横であたしが言うこと待ってるプレッシャーだよね」


温厚な教師だ、夕凪の回答を待ってくれる。

百年間謎に包まれていた聖女の存在を明らかにする証拠品の解明には、周囲の期待が重くのしかかっているのだろうが、夕凪はがんばらないと、と気合いが入っているようだった。


「聖女の特別な仕事だって言われてるしね。でもさ、人の日記読むのってハズすぎる。カオルってフツーの女子みたい。でもね、漢字ね、あんまり勉強してこなかったのまずかったなあ。辞典もないしさ、って生まれてから辞典なんて使ったことないけど。勉強ってしておかないとだめだね。どこで役に立つか全然わかんないもん。結構カンで、読んでる……んだけど……」


夕凪は、楼子を見たまま動きを止めた。

黒色の瞳が合って、口を少し開いたまま、急に部屋が無音になる。

楼子が「夕凪?」と呼びかけた。


「ロロってさ、やっぱり日本人なん?」

「え……」

「あたしの名前の漢字聞いたし、たまごっち知ってたし」


楼子は息を飲んだ。

研究室で芳の日記を少し読んだ。

夕凪は、日記の文字を追う楼子の目の動きを見ていた。

読んでいるのが、わかったのだ。


突如リシュトが近づき楼子の身体に腕を回して、連れ去るように歩き出した。

驚きに目を見開いた夕凪の姿が離れていく。


「待ってリシュト」


休憩室を出て実習室から続く展示室も過ぎて歩みを止めずリシュトは、研究棟の敷地から最短距離で裏門を出て、人があまり行き交わない草の生えた通路でようやく、立ち止まった。

少し息が上がった楼子の手を握りしめたままいることに気付いていない。


楼子はリシュトの正面に回った。

顔をのぞく。

前髪の下、透き通る青色の瞳を不安に揺らして、端正な口許が震えていた。


楼子はつないだままのリシュトの強張った手をもう片方の手で包んだ。


「……リシュト、夕凪はそんなつもりでは」

「わかってる」


泣きそうな声が、返ってきた。





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