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「王墓の谷だな」


リシュトの言上にヒューベルトが頷いた。


王都から最東端の岬の海岸が浸食された湾に向かう街道が整備されている。

街道から北西に向かって広い山地が広がっている。

街道沿いは大小の湖沼群と低地の水辺植物群落が美しく、散策に適した保養地となっているが、その奥山中に深く進むと現れる長い石塁の向こうに、王墓の谷と呼ばれる渓谷がある。


王墓の谷へは関所がある。

いわゆる監視施設、通称愁笛しゅうてきの塔は王墓の谷への唯一の出入り口だ。

閉じられたその地域は、古い時代にウェゼル公国があった場所だ。

アンリアンス王国は愁笛の塔から、ウェゼル公国の中枢、ノル=セグヴァ王城遺構の結界に目を配っている。


ウェゼル公国は国土としては小さかったが、近世でいうキャスアン王国くらい強大な影響力を誇る古代魔法国家だった。

調査は行き届いておらず、全容は窺い知ることができない。

実験中の事故で国が滅亡したと伝わっている。

すり鉢状にぽかんと落ちた低地にある公国城下跡地はウェゼルの結界で閉じられていて、人が住める場所ではない。

瘴気が漂い、魔物が発生している。

だが、愁笛の塔を越えて魔物が現れることはなかった。


「愁笛の塔付近に発生した魔物の討伐は、継続して第三騎士団で行います。ですが」

「ノル=セグヴァ王城遺構が瘴気の影響で迷宮化した可能性か……」


ヒューベルトは執務机の椅子に深く体を預けた。

リシュトが持つ報告書に自然と目が向かう。


「ロロ、迷宮はわかるか」


ヒューベルトに問いかけられ、楼子はまばたきをした。

敢えて聞くということは、一般的なメイズとは違うのだろう。

答えない楼子を見て、ヒューベルトは机上で指を組んだ。


「薬師が取れたら魔術も勉強してみると良い。迷宮とは閉ざされた空間が瘴気の影響で歪められた状態を指す。魔物の巣窟となっている。例えば北の障壁の向こうの陸地は全部迷宮だ」

「全部……」

「迷宮は、魔族が支配する空間、魔族の国ともいえる」


百年、魔術が進歩したとて瘴気発生のメカニズムを解き明かすまでには至らない。

そして、そこに巣食う魔族についても。

第十二隊から受けた報告を精査したリシュトの見立てでは、ノル=セグヴァ王城遺構の瘴気が濃くなっており、空間の歪みが拡大した、そのため結界にひびもしくはずれが生じ、その隙間が東の地域での魔物の増加につながっていると思料された。


「これまでは北から侵入する魔族が増えたことが頭痛の種だったのだがな、リシュトが障壁を張り直してから平和なものだった。それが、今度は東からの脅威に戦々恐々することになる、かもしれない」


ヒューベルトは、あまり深刻な風には話さなかったが、そこまで聞けば楼子にも事の甚大さがわかる。

迷宮で瘴気が膨らみ続ければ、結界を越えてくる魔物の大群の発生もあり得る、魔族だって出てくるかもしれない。

南西の森とは規模が違う災害が起こる。

未曽有の災害になる前に防がなくてはならない。


城下の騒動の報告会が必要最低限だったのは、優先すべき検討事項がほかにあったからだ。


「当然、お前が調査に出るということだな」

「はい」


リシュトの返事は静かで、だけど凛としていた。


リシュトが調査に出る。

ついこの間怪我をしたばかりのリシュトが、またすぐに危険な場所に赴かなければならない。

楼子にしてみれば、どうしてリシュトばかりが、とせせこましい了見に駆られる。

だけど、そうじゃない。

リシュトには揺るぎない思いがある。

騎士として身命を賭すべき責務だ。

真っ直ぐなひとを、楼子は、見ることができなかった。


「では、リシュト・アスティア第三騎士団団長に、ノル=セグヴァ王城遺構の調査隊の隊長を任命する。ただし」


予想したヒューベルトの下命を楼子は俯いたまま聞いた。

まばたきを、止める。


(……ただし?)


顔を上げるとヒューベルトは眼球だけを動かし楼子を見て、怪訝な顔をするリシュトに言い放った。


「魔導士団と共同調査だ」





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