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ヒューベルトは手すりに指を添え、玄関ホールの天井を眺めるよう首を回しながら階段を下りた。

鉄製と木製を巧く組み合わせた年代物の階段の手すりは、良く磨かれていて、美しい艶が出ている。

吹き抜けの先には螺旋を描く様なレースシェードの硝子のシャンデリアが吊られていた。

ホールに白い灯りを仄かに落とす。


楼子はヒューベルトの後ろを付いていった。

階段の踊り場でヒューベルトは楼子を一度振り返った。


「……?」

「いや、可笑しかったな。寝間着のリシュトの慌て様が」


楼子がヒューベルトの見送りを申し出て、一緒に出ようとしたリシュトを、パジャマのまま部屋から出てはだめですと留めた。

楼子としては、ヒューベルトをすぐ下の玄関ホールまで送るだけだったので、外に出るわけでもなく焦らせるつもりはなかった。


「ロロといると、あいつは幼子に戻ったような素振りを見せるな」

「……場所のせいでしょう」


楼子が答えると、ヒューベルトは聞いたのか、と薄く笑った。

この離宮は、リシュトが子供の頃、ルルと暮らしていた建物だった。


「まだあいつが何も知らない、病弱で泣き虫で手の掛かる弟だった……昔のことだ。マルマンはこの屋敷の家令だった。ユラー侍医長にもあの頃から世話になっている」


この屋敷の中には、楼子とリシュトのほか、執事と数人の食事係のメイドがいた。

侍医は王宮から毎日問診に訪れていた。

皆リシュトとは、良く知った間柄なのだ。


瘴気の危険性をわかっていてリシュトに止められているから、執事も侍医も部屋の中には入ってこない。

楼子が毎日戸口でそれぞれからリシュトへの伝言を頼まれる役割だった。

リシュトには直接会えないけれど、穏やかな空気をまとわせる老齢の執事や侍医の気遣いはリシュトにも良く伝わっていると思う。


「久しぶりにリシュトがここに戻ってきてふたりとも喜んでいたよ。まったく年寄りに心配を掛ける奴だ」


この離宮を出たのは、リシュトが騎士学校に入ると決めたときだった。

貴族の子弟の教育機関は王立の名門校があって、受験もなく入学できるのに、十四歳のリシュトが選択した入学先は王都から離れたデイレイン公爵の私学だった。

相当揉めた、らしい。


楼子がリシュトから聞いたのは、すでにリシュトの意思が強固に確立されたあたりの出来事で。

子供のリシュト。

子供の頃の話は聞いたことがないな、と思った。

病弱で泣き虫のリシュト、なんて、どれだけでも手を掛けられる、構い倒せる自信がある。

想像だけで可愛すぎる。


ヒューベルトは興味を示した楼子の目の輝きに気が付いた。

また城に遊びに来た時にでも話してやろうと、釣った。

楼子は、乗せられたなと思ったが、聞きたい欲望が勝りとても意欲的な返事をしてしまった。


それはそうと、とヒューベルトは階段を下りながら、話題を転じた。


「今回のフィルスターの薬師の試験は受けられず残念だったな」


試験は来週だ。

受験要件の研修時間は詰め込めば何とかなったが、移動の日程も考える必要があった。

無理をすれば受けられるけれど、万全の状態では臨めない。

第七隊の砦にいる間にリシュトには先に、受験は延期すると伝えていた。


「猶予を頂けたと思って、また励みます」

「そうだな。講師をしてくれていたフィルスター侯爵は今週孫が生まれてな、領地に戻った。第二騎士団も討伐が終わって少し落ち着いたからな」

「それは……おめでとうございます」


メーアに無事子供が生まれたのだ。

母子ともに健康と聞いて、吉報にうきうきした。

何よりだ。

今度会うときには贈り物をしたい。

性別はネイに聞こう。


玄関の扉が開かれる。

外は明るい。

ヒューベルトはあれやこれやと贈り物を考える楼子に向き直った。


「また王城の図書館に通うと良い。ニフが楽しみにしている」


戸口にはいつもの捉えどころがない表情で補佐官がヒューベルトを待っていた。

ヒューベルトはにや、と口の端を引き上げた。


補佐官がヒューベルトを先導して馬車に向かう。

扉を出ると温かな空気と、庭先にほころぶパステルカラーの花壇が出迎えた。

穏やかな陽気だった。


楼子は玄関先で、頭を下げた。


「ヒューベルト殿下、お見舞いありがとうございました」

「怪我人を取り調べするひどい兄だと思っただろう」

「いいえ……? ジョゼット殿下の報告があったから、心配して来てくださったんでしょう」


きょとんとした楼子にヒューベルトは愉快そうに片眉を上げた。


「あの会話でその結論に至るか」


くしゃり、とヒューベルトの手が楼子の頭を撫でた。

今日のヒューベルトは本当にお父さんみたいだ。


「お前は本当に面白いな」

「おもしろ、く、ない、です」


ぐい、と腰に腕を巻かれて、楼子の身体が後方に引っ張られた。

軽く息を切らしたリシュトがヒューベルトの手から楼子を分離した。

坊ちゃま、と呼んで執事が後を追ってきている。

ちゃんと着替えて部屋から出てきたようだった。


ヒューベルトは驚いた顔でリシュトを見て、それから笑った。





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