30

「お腹空いた」


泣き終えた夕凪は、恥ずかしそうにひとこと零した。

床に座り込んだまま、指先で眦の涙を拭って笑う。

赤い目をしているが、すっきりした表情だ。


楼子は夕凪に微笑み返して、立ち上がった。

戸口のリシュトを振り返る。

リシュトは、歩けと横からヒューベルトに言われていたが、小走りで楼子に近付いてしゃがんで、頬に手を当てた。


楼子を見る表情が翳っている。

こっそりと、大丈夫と伝える。

少し時間が経って頬が腫れてきていた。

医官を呼ぶとヒューベルトが言ったが、とんでもない、と楼子は断った。

折角落ち着いた夕凪をまた混乱させてしまう。


「それよりも夕凪に食事をお願いできますか」

「……ロロ」


ネイが楼子の背後から声を掛けた。

ネイの周りが若草色に輝き、一筋の風が楼子に向かって吹いた。

リシュトの手の下で、楼子の頬の腫れがみるみる引いていく。

切れた口の端の傷も消えた。


「妖精の癒しの風か」


初めて見る妖精の術にヒューベルトが瞠目したが、リシュトは首を振った。


「ネイ、無理はするな」

「ん」


妖精が使う術は自然界の要素を増幅させるものだが、楼子に対する治癒は、楼子自身の魔力を用いないことが妖精王との約束だった。

だから妖精王の森の外で楼子に治癒の術を行使するには、ネイの体力を削る必要がある。

ネイの魔力は高いが、楼子に治癒を施せば魔力は乾いていく。

乾きは存在を希薄にする。

そうなってしまうと、妖精王の森に戻らないと補えない。


ルルから説明されて、楼子が清明に理解できたことは、ネイは楼子に治癒の術を使わないということだった。


「これくらい、使っても大丈夫」


補足的に、森の外でも波長の合う人のそばにいれば回復することもあるとも説明は受けた。

今のごく小規模の術くらいであれば、楼子のそばにいれば回復するとネイは言った。


「ネイ、ありがとう。ほんとに無理しないでね」


楼子が眉根を寄せて言う。

ネイはこく、と少し顎を引いた。

夕凪が感激していた。


「マジすご……」


お前が暴れるからだろう、とヒューベルトの顔面に書いてあった。

流石に大人だ。

言葉にはしない。





程なく食事をを載せたワゴンが運ばれてきた。

テーブルにピンクの花柄の布が掛けられて、白色のランチマットが重ねられる。

銀製の鍋の蓋を開くと、スープから湯気が上がる。

サラダと小さなステーキ。

たくさんのパンが入った籠。

甘そうなベリーの香りのするジャムと、柔らかいバター。

運んできてくれたのが若い女性で、楼子はほっとした。


ナイフとフォークで食べ進める夕凪の作法がとても上品だったことに感心した。

給仕にもびくびくしない。

慣れている様子だ。

お金持ち、と本人が言うのだから、どこかの企業の社長のご令嬢とか政治家の娘とかいわゆる良家の子女なのかもしれない。

そう考えると今の外見との不釣り合いが気になってくる。

食べながらでいいんですけど、と向かいに座って楼子は尋ねた。


「夕凪、髪はどうしますか」

「髪? あー」

「切りましょうか」

「できる?」

「まあ、たぶん」


女子のカットは経験がないが弟の散髪は長年やってきた。

自分の髪も難しいことをしなければ、前髪カットと後ろを切り揃えるくらいできる。

ここは王宮なので、美容師のような職業の人はいるのだろうけれど、楼子にできるか尋ねたところをみると、まだ知らない人に身の回りの世話をしてもらうことには抵抗があるようだ。

警戒心が薄らぐのは先だろう。


前髪はセルフでできるんだけど、と夕凪が身を乗り出した。


「染めらんないかな」


もともとミディアムボブでミルクティーベージュに染めていたのだそうだ。

すっかり色は抜け落ちて、白っぽく傷んだ髪に、つむじから艶々の黒髪が伸びてきている。

健康的な黒髪だ。


「黒にしてしまえばいいのでは」

「それはなんかさ。趣味じゃないっていうか。あ別にあんたの髪がダサいとか言ってるんじゃないよ」


あと服はね、と夕凪はどんどん楼子に希望を出した。

これまで生活しにくかったのだろう、細かい要望もある。

誰にも相談できなかった分、今はなるべく聞いてやりたい。





ヒューベルトは、楼子と夕凪の様子をしばらく眺めてから仕事に戻っていった。

特に何も言わず、ただ満足そうに唇の端を引き上げて、歩いていった。

夕凪の部屋の外に補佐官を一人置いていったようだ。


リシュトは、部屋の中でじっとしていた。

アデルが探しに来ていると第一騎士団から伝令が入り、仕事に戻る、のを渋った。

楼子をこの場所に残して行くことに抵抗があるようだった。


仕事を抱えるリシュトに迷惑はかけられない。

楼子は隅で待機するリシュトの元へ行き、耳打ちした。


「もう少しだけ夕凪と話をして、それからネイと家に帰ります」


家、と言った楼子にリシュトはわずかに身じろぎして、わかったと息を吐いた。



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