10
楼子は毎朝リシュトの部屋にやってくると、まず井戸を確認する。
水が冷たいことに満足して、それから台所に向かう。
スープだけだった食事は、ひと月かけて今はお粥のようなものになっていた。
朗報です。
米がありました。
細長いが確かに米だった。
野菜の出汁と煮込んで粥にしていた。
リシュトが、これをよく食べる。
意識して薄味にしているが、最近もう少し濃いめでもよいようなことを言う。
リシュトの胃腸の様子を見ながら、その内オイルで炒めてリゾットにしてもいいかもしれないと考えていた。
「
「あはは、炊き立てご飯を塩むすびで食べたいなって」
妖精王の森には直火を拝める調理器具が存在しなかった。
コンロは魔石だ。
そう、あの石は魔石というものらしく、火の力が宿っている小石ということだった。
火力は最大で中火くらい。
ルルが食べているパンも森の外で焼いたものを取り寄せているらしいし、ご飯を炊くなんて夢の世界だった。
食にこだわりは特に持たない楼子だったが、白ご飯は少し恋しかった。
「ロオの国の食文化は、東の国に近いのかもしれないね」
「東にも国があるんですか」
海峡で隔てられた向こうにね、とリシュトは続けた。
使節団の護衛で渡ったときに見た水田は大規模で、間違いなく主食だろうし、鉄の釜も見た。
この国とは違う丸い形の米で、食感も柔らかだった。
おにぎりは食べなかったけれど、あの米なら握っただけで十分一品になると言った。
「昔は海を越えて戦争を仕掛けてきたこともあったけど、今は交易している。海賊も少なくなってきて第三騎士団の配置も薄くなってるから、現状東の港町の様子はあまり耳に入らないけど」
「第三騎士団……」
軍隊があるのだ。
戸惑う楼子の声に、リシュトは言葉を切った。
楼子はすぐに口を開いた。
「この国は、王制で、国を守るために騎士団がある。リシュトは、第三騎士団?」
楼子はリシュトの横で椅子に座り直した。
この国のことを知らないといけない。
食事中の会話でちょっとずつ小耳に挟むくらいでは、この国のことがわからないままだ。
リシュトのことも、わからないままじゃないか。
「面白い話ではないよ」
「知りたい」
乗り出すように楼子は言った。
リシュトは息をすることを忘れたように止まった。
毎日穏やかな会話をしていた。
それは表面を滑るようなものだった。
物足りなくなっていた。
踏み込みたいし、踏み込んでほしいと、思うようになってきている。
この体で、そんなこと願ってはいけないのに。
リシュトは随分起きていられる時間が長くなり、楼子と話す時間も長くなっていた。
楼子は、だけど、リシュトが人に触られることを恐れていることをいつ感じ取ったのか、食事や水を飲ませるとき以外は、いつも少し離れた場所に腰かけていた。
今楼子が座り直した場所は、それよりもずっと近い気配。
リシュトに手があったなら、少し伸ばせば届く位置。
手があったなら。
(———っ)
黒い感情が涌き上がる。
油断すれば、内腑にうごめく瘴気がリシュトの意識に襲い掛かる。
振り払う、振り払わなければ。
「……リシュト?」
「……ああ、うん」
楼子の声にはっと顔を上げる。
すう、と潮が引くように黒い感情が消えていく。
何事もなかったように、リシュトは話し出した。
「アンリアンス王国には、騎士団がある。政府とは別の組織で国王が統帥権を持っている。王族を警護する第一騎士団、城下町を守護する第二騎士団、外敵から拠点を守る第三騎士団と分かれていて、俺がいたのは第三騎士団。人数は第二騎士団と桁違いの大所帯」
少し事務的過ぎたかもしれない説明だったが、楼子はちゃんと聞いていた。
「大所帯、そうですね。警戒する方面が急に広域になりますもんね」
人数が増えて当然だと頷く。
「うん、第三騎士団は隊を十二隊に分けて運営している。俺がいたのは第一隊。アンリアンスは西に広がる森林、この妖精王の領地から東に真っすぐ大陸の端まで、北方の魔族の国との境に障壁が存在している。その障壁の見張りが仕事」
「見張り……」
楼子が不審そうに繰り返したので、リシュトは笑った。
「普段はほんとに見張りなんだけどね、この間は壁が弾けて向こう側からの侵入があった。もちろん魔族の国側の壁に沿うように、こちらも結界を張っているけど、結界の楔が老朽化していたのか、魔力の差で押し負けたのか、原因が調査できたのかどうかもまだ聞いていないかな」
結界の張り直しはできたのだろうか。
瘴気に腕を
「侵入があれば当然阻止しないといけないから。そういう仕事だよ」
「……過酷な仕事です」
「必要だからね」
確かに必要なのだろう。
楼子は納得したような、できないような「うん」を数回呟いた。
「リシュトは立派です」
思ったまま伝えた楼子の言葉が、突風のように心臓を打つ。
そうだろうか。
仕事を全うできていないのに。
隊はあれからどうなっただろう。
形勢を立て直すことができただろうか。
みんなは無事だろうか。
瘴気に飲まれて五感を失う中で、部下の絶叫が耳に残って、繰り返し繰り返しその声だけが聞こえていた。
部下の声だったものはやがてリシュトを呪う呪詛になり、何もない闇の中へと沈めてしまうのだった。
息をしたくても、抑えつけられて水面に上がれない、
「そんなこと、ないんだよ」
結界が穿たれたとき、ルルが現場に駆け付けてくれた。
一時は王宮魔導士筆頭だったルルの魔力だが、彼女の力だけでは魔族の闇の力を祓うことはできなかった。
森の妖精が力を貸してくれて、リシュトを食らった闇を小さい範囲に押し留めることが辛うじてできた。
闇は、憑りついたリシュトの魔力を食らいながら、外界に瘴気を溢れさせる。
ルルの渾身の封印の呪布は、リシュトの中に瘴気を留めておくという代物で、根本的な解決には繋がらなかった。
リシュトの意識が負けて闇に堕ちてしまったら、リシュト自身が瘴気を発する魔物となり果ててしまう。
内側に渦巻く瘴気に、いつまで、リシュトの心身が持つか。
ひとり、戦うことになった。
視界を遮る布は、世界からリシュトを切り離した。
妖精王の結界が、ルルの呪布で篩の目を細かくしても零れ落ちる瘴気との均衡を保っている。
呪布があれば、瘴気を撒き散らさずに済むし、万が一にも恐ろしい姿を人目にさらさずに済む。
リシュトは望んで呪布に包まれている。
だけど
いつまで
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