知らない、まま

せわしなく動く娘だな」





 霧に包まれた早朝の幻想的な森を、本館の二階に与えられた部屋の窓から眺め、一頻り感動した後、楼子は寝間着に借りたAラインのワンピースから白のシャツとチャコールのパンツに着替え、部屋から出て台所に向かった。


 楼子に与えられた部屋には、シンプルなベッドと二人掛けのソファ、それからアンティークなマボガニーの文机があった。

 細かく仕切られた抽斗と上品に曲がった足が素敵だった。

 昨晩、この部屋を案内したルルから、続き間にある衣服を自由に使っていいと言われていたので覗いてみたところ、中世ヨーロッパ風のドレスがずらりと並んでいた。

 大変見目麗しいが、これは着られない。

 機能性の問題もあるが、着方がわからなかった。

 もう少し探すと奥に多分シルクの肌触りの良いシャツばかりが入った抽斗と、わずかずつ色や素材が違うパンツの棚を発見し、その中からサイズの合いそうなシャツとストレートのチャコールのパンツを明日の着替えにと借りていた。


 手元のランタンで階段を照らして、踏み外さないように階下に静かに下りていく。

 本館に住んでいるのはルルだけと聞いた。

 本館の二階、吹き抜けの階段を挟んで向かい側がルルの部屋だと説明された。

 階段から見上げたルルの部屋はまだひっそりとしている。


 ルルは、この広い森で、リシュトと二人で住んでいるのだ。


 台所はいわゆるコの字型のカウンターで、屋敷の大きさの割にはこじんまりとしていた。

 石のシンクの横に昨日楼子が洗い物をした深皿が三枚うつ伏せのままだった。

 左側の壁に調理器具が吊り下げられ、床に直置きされた籠に収穫後の野菜が入っている。

 樽にはワイン、かめには菜種油。

 バケツほどの大きさの瓶に入っているのは小麦粉らしい。

 小麦粉の横に並んでいる調味料、スパイスの小瓶は大変な種類があって壮観だ。


 カウンター上の大きめの深皿には野菜の出汁が残っている。

 昨日ルルに聞いて、カウンターの窪みに丸い模様がある部分がコンロだと知った。

 小さな石を置くと熱くなる。


(じゃがいもと……小麦粉か)


 包丁はカウンターの下に収納されている。

 じゃがいもの皮を剥いて細切りにして、半分は小鍋に入れて水を足して、もう半分には小麦粉をまぶした。

 昨日と同じように窪みに石を置いて、その上に小鍋と平たい陶磁器の鍋をかけた。

 平たい方には油を少し、小麦粉をまぶしたじゃがいもを鍋に流し込んで軽く押さえてから蓋をする。

 その間に外の湧き水を汲みに行こうと、楼子は水差しを持った





 ……ところで、この人だ。


 鷹のような人だった。

 力強いブラウンの長めの髪を遊ばせて、すっきりと出したおでこにしっかりした眉、悠久の森林のような翡翠の瞳に、口元に随分と余裕のあるほほえみを湛えている。

 舞台俳優のような佇まいに、楼子がぎくりと身を引いた。


「おはよう、ございます……」

「ふむ」


 指で顎を摘まみながら隈なく観察するように、とりあえず挨拶した楼子をじろじろ見ている。


「何を?」

「え」

「何をしようとしている」


 尋問か。

 圧を感じた。


「みんなの朝ご飯の用意……です」

「みんな?」


 舞台俳優は窓から差し込む朝日を背負って、派手な笑顔を楼子に向けた。


「ルル、お前が召喚したのは家事妖精か」

「ディジュ! なんて言葉を」

「あ、ルルさん」


 家事妖精。

 家政婦のことか、と楼子が気付いた。

 男性の後ろから現れたルルが慌てた様子で二人の間に割り込んだ。

 昨日見た厚手のローブではなく、見るからにふわふわのガウンを羽織っていた。

 かわいい。

 昨日の紫のローブよりも年齢に相応でよく似合う。


「おはようございます、聖女様。失礼な物言いをして申し訳ありません。驚かれたでしょう」

「あの、いえ、その……それ、もうやめません?」


 ルルはきょとん、と楼子を見た。

 青い目が、ぱち、ぱち、とまばたきする。


「家政婦の方がいいです。聖女より」


 それでだめなら良かったら楼子と呼んでください、と楼子は眉尻を下げて笑った。




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