7
「戻りました、リシュトさん」
カチャカチャと硝子が鳴った。
水差しと、コップの音だと思う。
トレイを持って戻ってきた楼子の声に、リシュトは心臓がぎゅっと締まった。
戻ってきてくれた。
どきどきと胸が鳴る。
楼子が入ってくると途端に部屋の空気がふわりと軽くなる。
これまで重い空気に喉を押し潰されて出なかった声がすんなりと出る。
「おかえり」
ふふ、と楼子が笑った。
笑い声がくすぐったい。
「少し、体を起こしても大丈夫ですか」
楼子は言いながらリシュトの返事の前にベッドに膝をついた。
リシュトの肩を支え、ベッドの上にたくさんある枕をリシュトの背中に挟んでいった。
頭の後ろまで枕で支えて、楼子は水を取りに椅子まで戻った。
リシュトは、手際よく世話をする楼子にされるがままだ。
包帯越しでも手が温かい。
「お水です。少し冷たいかも」
頭の後ろを支えられて口元にあてられたガラスは、ひんやりと心地よかった。
ほんの少しずつの水だが、喉を潤して、体に沁みわたっていく。
すぐそばに感じられる吐息に、リシュトは顔に血が巡るのを感じていた。
「もう少し?」
「……もう少し」
楼子はゆっくり水を飲ませた。
人の手が触れていることが、嬉しい。
こんなに近くで話しかけてくれる。
この半年、体から、心から蒸発していったものが、水を一口ずつ嚥下する度に、息を吹き返す。
もう大丈夫と言って、コップから唇を離した。
頭を枕に沈めると、楼子はコップを下げて、リシュトのずれた布団を掛け直した。
「何か食べてます?」
「食べ……ていない」
急に尋ねられて思考を巡らせる。
食事という存在を忘れていた。
「台所に野菜があったから、スープにしようと思って。ルルさんも食べているのかいないのかわからないくらいの細さだし、私もお腹が空いてきたので」
楼子は料理をすると言う。
「実はもうお鍋を火に掛けてきたんです。ええと、火というか、この国は不思議ですね、石の上に置いてきたんですけど、石がどんどん温かくなって」
明るく澄んだ声。
気を遣ってくれているのだろう、楽しそうに話す。
「ロオが作ってくれるなら、食べる」
リシュトは思ったことをそのまま口にした。
少しはしゃいでいるかもしれない、とその時思った。
楼子はぐ、と言葉を詰まらせた。
「あ、あはは、料理を習ったこともない、素人料理ですよ」
でも野菜がおいしそうだったので、多分おいしいです、と毒気なく言った。
楼子がスープを持って部屋に入ってきたときに、ふわっと空気が香り立った。
煮込んだ玉ねぎの甘い匂いとか、スープの塩気とかいった匂いに、空腹感というものを思い出した。
今日はスープだけにしておきましょう、と彼女は言って、匙を口元に運んでくれた。
人参の味がして、玉ねぎの味がして、芋のざらっとした食感が少しあった。
おいしかった。
柔らかなオレンジ色の灯りの中、リシュトは深呼吸をした。
ずっとどきどきと心臓の高鳴りがやまない。
楼子が夕暮れに「灯りがあるといい」と言って、ランタンを取ってきた。
暗がりに明かりがともるのは久しぶりだった。
目の奥がじわりと温まった。
一日自分につきっきりのロオに食事を摂ったのかと訊くと、リシュトがうとうとと眠ってしまった間に済ませたと言った。
倒れてから五感がなくなることも多く、これまでの間ほとんど意識が飛んでいた。
楼子の前で気を失ってしまっていたらしい。
なんとなく、勿体ないことをしたと思った。
リシュトはもう一度深呼吸をした。
水のせせらぎが聞こえる。
花の匂いがした。
この部屋に花が咲くなんて、驚きだった。
(聖女の召喚の儀……)
ルルは、どんな手を使っても聖女をこちらに呼び寄せてみせると言っていた。
自分を救うために。
成功したということだろうか。
自分が瘴気を孕んでしまって騎士団の仲間やルルに迷惑を掛けていることが悔しくてならなかった。
自分の肌は瘴気のせいでどす黒く腫れ上がっている。
運び込まれた自分の姿を見てルルは悲鳴を上げた。
人の見た目からかけ離れているようだった。
ルルは月に一度無理をして呪布を交換してくれるが、その後瘴気に当てられて動けなくなっていることにも罪悪感が募る。
そんな自分の傍にいることができる楼子の存在を、聖女と言わずして何と言うのだろう。
一日働かせてしまった。
夜も更けたし部屋に戻ってもらった。
だが、今、とても寂しいと思っている自分に気付いていた。
(……ロオは、明日もそばにいてくれるだろうか)
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