【其の十三】本当の王子様
王子様の顔が近づいてくる。両手は拘束されたまま、あたしは自分の足が震えるのを自覚した。脳裏におぞましい過去が蘇る。そうだ、こいつだ。姿格好は別人だけど、中身はあのあたしを襲った人物だ。王子様なんて名前は相応しくない。偽王子と呼ぼう。
周りの紳士淑女の皆様方は突然の展開に驚いて、しんと静まり返っている。まあそりゃそうだ。見た目だけでいえば、王子様にダンスを申し込まれた女がいきなり平手打ちをかまそうとして防がれ、逆に拘束されているという図式だ。
紳士淑女たちの人垣を割って近衛兵たちが姿を現すが、一種異様な雰囲気に立ち止まる。本来なら王子様に危害を加えようとした女を取り押さえるところなんだろうけど。しかし、偽王子は周囲を見回して、少し不機嫌そうに口元を吊り上げた。まるで獲物を横取りするな、と言わんばかりに。だからどうしたものか躊躇している。
「まったく面倒臭い話だ……折角王子という力を得たのに『儀式』通りにしないとならないなんて……あの魔女も存外胡散臭いな」
偽王子はゆっくりとその視線を揺らしながら呟く。
「……何? なんの話をしているの」
「この後の話さ。シンデレラは王子様と結ばれ、未来永劫幸せに暮らす」
偽王子の吐息が噴き掛かる。薔薇のような香りなのに、あたしの全身に鳥肌が立つ。向けられた視線に含まれたねっとりとする感覚、そこから抜けだそうと足掻くが足が震えて動かない。
「でも、もう待つ必要なんてどこにも無い。やっと君を捕らえたんだ……このまま添い遂げるのも悪くない」
ぐぐぐっと偽王子の体重が掛かってくる。え、ちょ?! まさかこの場で、みんなの見ている前であたしを押し倒そうとしているんじゃないでしょうね。冗談じゃない! あたしは全身に力をこめる。ガラスの靴がかたかたと鳴っている。
でもその微かな力は震える足先から抜けていってしまう。そもそも力じゃ男子である偽王子に敵わない。脳裏に、あの押し倒された日のことが蘇る。どんなに力を込めても相手の力にはまったく敵わない、その恐怖。急速に思考が黒く絶望に染まっていく。不意に涙が流れる。
——その時。
「サクラっ!」
静まり返っていた会場に、幼い少年の声が響いた。思わず振り向く。周囲の人垣を乗り越えた少年が一人。正装した姿ではあったけれど、それは確かにリオンだった。あたしの脳裏で、過去の出来事と今の出来事が交差する。リオンと、あの時助けに来てくれた「彼」の姿が重なる。
ああ。
あたしは悟った。「彼」は、金城ハヤトはリオンなんだということを。
「?!」
そう思った瞬間。足の震えが止まった。力が湧いてきた。もちろん相手の方が力は強いけど、抵抗する気力が戻ってきたのだ。
「お断りよ!」
「ぐはっ?」
あたしの右足での鋭い蹴りが、偽王子の横っ腹に吸い込まれた。その身体はくの字に曲がり、あたしを拘束していた両手が外れる。よほどの勢いだったのか、ガラスの靴があたしの右足から外れて跳んでいく。二転三転と転がりながら綺麗な音階を奏で、そして最後は綺麗に床の上に立って静止した。
「こっちだ、サクラ!」
リオンが駆け込み、あたしの手を取って走り始める。あたしももう片方のガラスの靴を脱ぎ捨てて続く。呆然としている紳士淑女たちの人垣を押し分け、赤い絨毯の回廊を逆走していく。
「なっなにをしている!? 近衛兵ッ! すぐに捕まえろ!」
遠ざかる背後で、聞き覚えのあるダミ声が響いた。宰相かな? その一喝の直後、ガチャガチャと金属音が木霊する。近衛兵が追い掛けてきている。
でもあたしたちは既に回廊を走り抜けていた。正門前にも近衛兵たちがいるが、まだ中の様子に気がついてはいない。突然出てきたあたしたちにびっくりはしていたが、捕らえようとはしない。ラッキー。
「どうしたんだサクラ?! ……靴はどうした?」
「クリス! 話はあと。すぐにお城から出たいッ」
「何!? 仕方ねぇな!」
すぐにクリスを見つけられたのもラッキーだった。あたしたちは馬車の乗り込み、急いで正門から跳ね橋を抜けていく。会場から追い掛けてきた近衛兵たちが姿を見せたのは、跳ね橋を渡りきった後だった。
あたしたちの馬車はそのまま祭り騒ぎの城下町を抜け、そして行方をくらますことに成功したのだった。馬車の行き先は、月だけが知っている。
—— ※ —— ※ ——
「大丈夫ですかな? 殿下」
「ああ、大丈夫だよ」
貴賓席から会場まで降りてきた宰相が王子様に声を掛ける。王子様は横腹を押さえていたが、ニッコリと爽やかな笑顔を覗かせた。周囲の紳士淑女たちはざわついている。一体何が起こったのか。咀嚼できないでいる。
王子様はゆっくりと視線を動かした。その先には、会場の中心に残されたガラスの靴があった。シャンデリアの光を受けて美しく輝くその靴に手を伸ばし、持ち上げる。
魔女は言った。お前が王子様である限り「物語」はその様に動いていく。ただひたすらに王子様であれば良いのだ……。老いているのか若いのか、それすらもまったく分からない魔女。その言葉に、王子様はふんと鼻を鳴らした。
「……殿下?」
宰相が怪訝な表情で声を掛ける。殿下が何か今、影のある表情をしていた。そんな気がしたのだ。しかしガラスの靴を拾い上げて、宰相の方に振り返った王子様の笑顔には、影一つなかった。そこにあるのは染み一つない、光のような笑顔。
宰相も、周囲の紳士淑女も気がつかない。この世に影一つ無い光など、無いのだと言うことに。
「さあ、まだ始まったばかりだ。舞踏会を続けよう」
作り物の笑顔に、皆は陶酔していた。
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