【其の十二】過去

 丁度楽曲の演奏が止み、ダンスが終わったタイミングだった。会場の中心にある舞踏場から、踊り終わった紳士淑女たちが潮のように引いていく。その波に逆らうように、あたしは舞踏場の中心へと歩いていく。みんなの視線が注がれるが、気にしない。


 おおっ、と歓声が上がる。貴賓席に居た王子様が降りてきたのだ。王子様は白に金を装飾したタキシード姿で、階段を降り、そしてまっすぐに歩いてくる。紳士淑女の人垣が、一直線に切り引かれる。彼らの間を、悠然と歩いてくる王子様をあたしは真っ直ぐに見つめる。そう、王子様はこちらへ、舞踏場の中心へと向かってきていた。


 「……」


 あたしは、何か、どこか違和感を感じた。王子様の顔は、もうろん西洋人っぽくって「彼」とは似ても似つかない。でも、その瞳、その口元、そしてその表情が、何かあたしの心をざわつかせる。何か、とんでもない判断ミスをしたのではないか。今になってそんな不安が拭えない。


 そして。


 王子様が目の前までやってきた。王子様はふわりと微笑んでから、跪く。周囲が張り詰める様に静まり返る。


 「お嬢様、私と一曲踊っていただけますか?」


 その声に会場がどよめく。王子様のダンスのお相手を務めるということは、言うまでも無く花嫁候補ということだ。しかも、たぶんあたしが一人目。周りのどよめきも分かる。それまで彼らの中でも、どこそこの貴族のお嬢様が良いだの、格式でいえばあの娘だの、そういった話をしてきたはず。それが蓋を開けて見たら、今まで見たこともない娘がいきなりトップバッターなのだから。


 しかし、あたしはちらりと周りを見回す。義母様と義姉様に見つかったらどうしよう。あ、いた。目が合った。義母様は目を丸くしている。ですよねー。幾ら着飾っていたとしても、仮にも長年同じ屋根の下で虐めてきた相手だもの。分からないってことはないよねー。


 王子様が、すっと手を差し出してくる。あたしもそれに合わせて、手を恐る恐る伸ばす。ここまで来たら、もう試すしかない。不安を振り払い、王子様の手の上に指先を乗せる。手袋越しにも感じる、相手の体温。


 「?!」


 反応した。平手打ち! あたしの左手が、鞭のようにしなって王子様の頬を痛打した……その直前で、あたしの左手は王子様の手によって防がれていた。王子様の口元がぐしゃりと歪み、あたしの差し出した右手と平手打ちの左手を強く握り返した。


 「痛っ! いやッ離して!」

「会いたかったよ、白銀サクラ……」

「えっ? 何、白銀って」


 白銀という名字を知っている? それは、あたしが元いた現代の人間でなければ知らないこと。でも今なら断言出来る。その王子様は「彼」じゃない!


 「ボクのことを忘れちゃったのかな……いいよ、許してあげる。これからじっくり知ってもらうからね。ああ、その程度のことは許してあげよう……」


 王子様の声質が変わった。いや、変わったと思っているのはあたしだけかも。重く、じっとりとした泥のような声。王子様だったものはあたしの両手を強く握り締めたままゆっくりと立ち上がり、あたしの瞳を覗き込むように見下ろす。


 「……! あんたは……ッ」


 あたしは思い出す。王子様だったものの淀んだ瞳。それには見覚えがあった。






  —— ※ —— ※ ——






 ——三年前。それは鬱陶しい梅雨の雨が降る日だった。


 その人物の名前は、今となっては言いたくも無い。当時はごく普通の、同級生の一人だった。この場合の「ごく普通の」というのは、ほぼ接点が無いという意味でだ。同級生が三十人いたとして、お喋りしたり一緒に下校したりするぐらいの友達ってのはせいぜい五、六人だ。それ以外は「ごく普通のクラスメイト」。その人物の名前と顔を知っていたのは、彼の名前があいうえお順でトップだからという理由なだけである。


 友達が言うには、その人物は元からあたしのことをちょくちょく注目はしていたらしい。あたしはその視線にはまったく気がついていなかった。せめて挨拶したりする仲であれば気がついたのかも知れないけど、そういうのは無かったし。


 だから。


 あの雨の日。下校途中、いきなり古びたガレージへ連れ込まれた時にあたしが発した台詞は悲鳴ではなく「なんで?」だった。両手を掴まれてガレージの床に押し倒され、その動物のように興奮させた荒い息を押しつけてくる。その人物は何か喋っていたが、結局あたしはそれを聞き取ることはなかった。襲われた。力で押し倒され、迫ってくる。その恐怖があたしの心を一色に染め上げて、そして壊したからだ。


 どれだけの時間が経ったのか。十分だったかも知れないし、数秒だったかも知れない。本当に記憶がぐちゃぐちゃで、どうやって抵抗したかも分からない。ただ、あたしが憶えているのは、


 「やめろ! 何してるんだ!」


 そうやってガレージの中に飛び込んで助けてくれた「彼」の横顔だけだった。


 金城ハヤト。彼の名前を知るのは随分後のことだ。あたしは外傷は擦り傷程度で済んだ。襲ってきたその人物は遠くの学校へ転校したとだけ聞いた。

 その日以降なのだ。あたしの「悪癖」と、そして「彼」への恋が始まったのは——。


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