【其の五】お前だって貴族なんだぜ

 洗濯小屋から戻ってきたあたしを、クリスが馬上で待っていた。ひひんと、馬が嘶く。さすが厩務役、馬の扱いが上手い。クリスは手綱を器用に操り、かぽかぽとあたしの周りを器用に周回する。あたしが見上げると、ちょっと口元を上げて笑っている。おら、行こうぜと言わんばかりだ。


 まあ、悪くない。町に行くという提案自体は悪くない。しかし問題が一つある。あたしは乗馬の経験が無い。


 「だから後ろ乗れよ」

「それが出来れば、こんなに悩んでいないんですけど」


 むっと目を細める。後ろに乗るってことはクリスに触れるということである。その腰に手を回すことになるだろうけど、あたしの場合そのままバックドロップしかねない。


 「いやサクラの悪癖は承知しているけどさ、ちょっとは我慢出来ないの?」

「我慢するも何も、咄嗟に出るもんだし」

「大変なのは分かるけどさ、いつまでもそれじゃあお嫁のもらい手ないぜ? 少しは我慢することも憶えないとさ」

「ぐぬぬ」


 正論だが、その人の悩み事を遊び道具にしているクリスに言われると腹が立つ。バックドロップしてやろうか。


 「ほら、まずは試してみろよ」


 そう言って、馬が横腹を出して目の前に停止する。馬上からクリスが手を伸ばしてくる。あたしは恐る恐る手を差し出す。深呼吸し、目を瞑る。


 意識を集中する。……この悪癖、元は男子から怖いことをされたせい。つまり相手があたしにとって怖い存在では無ければ発動しない、はず。クリスはよくあたしをからかうが、悪い奴じゃないのは知っている。というか、この屋敷の使用人たちはあたしに優しい。それはあたしがまだこのお屋敷のお嬢様だった頃から変わらない。


 そしてクリスはサーティと婚約している。つまりクリスはサーティのことが好き。あたしに対してそういう感情を抱いていないのだ。だから、問題無い。問題無いはず……。


 差し出した手が、握られる。びくんと身体が反応するが、あえて脱力する。緊張しない、力を抜け! 気がつけば、ふわりと身体が浮き上がった。馬に跨がり、そして両腕をクリスの腰に巻きつける。やった、悪癖が出ない!


 「お、やればできるじゃん」

「……して」

「ん?」

「話しかけないで。集中力切れるとやっちゃいそう」


 一瞬、クリスの身体が浮き上がる。あたしの巻き付いた両腕がクリスの腰を締め上げ、後ろに放り投げようとしたのだ。どうどう。でも何とか抑えた。クリスは無言だった。たぶん冷や汗をかいているだろうな。この体勢からバックドロップしたら、たぶん死にかねない。


 そうして、あたしとクリスを乗せた馬は疾く走り始めた。お屋敷の正門を抜け、林を抜け、街道へと出る。街道といっても辺境だ。人の気配は無い。でも遠く広がる緑の野があたしを出迎えてくれる。林の中とは違う、少し乾燥した緑の匂いをいっぱいに吸い込んで、あたしは感嘆の声を上げる。ここから先は、すべてが初めて行く場所だ。


 なだらかな丘が続く緑の野の先に、山脈が見える。その山向こうに町と、そして王子様の住まうお城がある。この国の王都ってやつだ。馬で早駆けすればお昼には着くだろう。


 あたしもだんだん慣れてきた。両腕に加わる力が良い意味で抜けてきた。それを察知して、クリスもいつもの口調で話しかけてくる。


 「思い切ってやってみて良かっただろ?」

「まあ……そこは残念ながら否定出来ないのであります」

「感謝の言葉の一つも、あっていいんじゃないかなあ?」

「ぐぬぬ」


 まあでも、正論だった。


 「ありがとね、クリス」

「お、おう」


 クリスが鼻の頭を搔くのが見えた。なんだよ、照れるなら要求するなよー。






  —— ※ —— ※ ——






 日が高くなる頃。町についた。町は、お城を中心に放射状に広がっている。まあ東京とか大阪とか、現代の大都市を知っているあたしの感覚からしたら、こぢんまりとした小さな町だ。でもお城は白と青で装飾された主塔と尖塔が綺麗で立派だった。これは規模では無い、センスの差を感じるなあ。ザ、王子様のお城って感じである。


 取り囲む町も人出が多くて活気がある。メインストリートにはお店が建ち並び、荷馬車が忙しくなく往来している。乗馬したままだと危ないので、町に入ってからは下馬している。クリスが馬を引きながら、あたしに観光案内してくれる。市場は分かりやすいね。野菜や果物、肉や魚の種類がダントツに多い。お屋敷の近くの村落とは比べものにならない。いいねー、これだけ種類が豊富だったら日々の献立に苦労しないよね。羨ましい。


 そして目立ったのが、豪華な馬車の往来だった。今も一台、赤い馬車が通りを走っていく。あれはクリスト伯爵のところの馬車だね、とクリスが説明してくれる。どうやら紋章とかの形状で分かるそうだ。さすが厩務役。そういう知識も必要だからね。


 豪華な馬車の行き先は決まって、町の中心部。お城を取り囲む一角は貴族たちの居住区になっている。高い塀が囲い、門番が出入りを監視している。さっきの馬車は顔パスで入っていった。


 「なるほどー、この先に王子様がいるのかー」


 あたしは門の前に仁王立ちになり、見上げる。門の扉はお城の姿を隠して見せてくれない。門の脇に控えた門番がじろりと視線を送ってくるが気にしない。さて、どうやって中に入ろうか。出来れば王子様が「彼」なのか確認したいんだけど……。


 と一人唸っていると、自然と扉が開き始めた。おお、扉があたしの願いを聞き届けてくれたのね。さすが童話の世界。なんてね。


 「おーい、なにやってんだ。入るんじゃ無いのか?」


 クリスが先行して門を潜っていった。あたしも慌てて追い掛ける。


 「どうやって開けてもらっての?」

「おいおい忘れたのか。オレの主人は貴族様だぜ」


 そう言って、クレスは何やら札の様な物を取り出して見せた。どうやら通行証らしい。そうだった、義母様は貴族でしたね。すっかり忘れていた。








 「……お前だって、貴族なんだぜ」


 クリスがぽつりとそう呟いたのを、あたしは聞きそびれた。

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