第3話 多種多様な風俗

 その時、フリーで入った女性の対応は、いわゆる、

「塩対応」

 だった。

 最初の人は、いろいろ助言という名の、文句を言ってはいたが、ちゃんと、してくれることはしてくれた。サービスを尽くしてくれたといってもいい。だから、満足した気持ちで帰ることができたし、思ったよりも、賢者モードが深くなかった。

 しかし、フリーで入った時は、やるだけやって、最後に余韻を残した心地よい時間などなかったことで、余計なストレスになってしまった。

 これは、賢者モードというよりも、罪悪感でもない。そう、自己嫌悪に陥ってしまったのだ。

「こんな中途半端な気持ちになるために、俺はせっかく貯めておいた金を使うことになったのか?」

 もちろん、相手の女が最悪だったのが一番なのだが、そもそも、その日、ムラムラきて、フリーでもしょうがないということで、妥協したのが悪かったのだ。

 ムラムラきてしまった以上、そのまま帰るということはできなかっただろう。当然、他の店だって、客が多く、好みの女を選ぶことは難しかったことだろう。

「フリーを覚悟で、知っている店を選ぶか、空いている好みの女の子を探しに、他の店に赴くか?」

 を考えた時、

「一刻も早く解消したい」

 という思いと、

「いまさら他の、知らない店に行くだけの勇気があるのか?」

 という思い、それらに、自分の感情と性欲を加味して考えると、やはり、フリーであっても、この店で待っている方を選ぶだろう。

 少し怖いというのはあるが、

「ひょっとすると、自分好みの女性が来るかも知れない」

 と感じたのだ。

「女性の好みは人それぞれ」

 というではないか。

 特に、

「ぽっちゃり系の女の子が好きだ」

 と思っているだけに、少々のぽっちゃりであれば、他の人では、耐えられないと思っても、マサムネには、十分許容範囲となるのだった。

 そんなマサムネであるが、フリーでついた女性はまったく逆だった。細身の女性で、いわゆる、今でいうところの

「ちっぱい」

 というやつだった。

 抱きしめてみると、骨が折れそうな華奢な身体に、顔色が悪そうで、年齢表記が21歳とあったが、顔色のせいなのか、とても、二十歳過ぎには見えなかった。

 会話もほとんどなく、無言の中での、いかにも嫌々しているとしか思えないサービスは、気持ちがいいわけもなく、却って、

「自分が悪いのではないか?」

 という自己嫌悪を与える状況に追い込まれてくると、次第に、

「早く時間が過ぎてくれないか?」

 と思うのだった。

 たまに目が合うと、ひきつった笑顔をしている自分が情けなく感じる。

 それは、相手が一切笑っていないからだ。

「こいつは一体何様だ。サービスを受ける立場の俺に気を遣わせて、てめえは、だんまりかよ」

 という怒りに満ちた感覚だった。

 それでも、女はまったくのポーカーフェイスで、何を考えているか分からない。ただ事務的に接してくるだけで、気持ちいいなんて感覚。ないに等しかった。そのうちに、愛想笑いもバカバカしくなってきて、無言の時間が淡々と過ぎていく。

 最後、ブザーが鳴ると、あと5分の知らせだった。シャワーを浴びて、服を着て、後は、

「さよなら」

 であった。

 前の時のブザーは、

「ああ、もう終わりなんだ」

 という、賢者モードとは違った、一抹の寂しさがあったが、今回は賢者モードも、寂しさもない。

 そんなことを感じながら、部屋を出ると、帰り道、激しい後悔に襲われた。一番の強い思いは、

「何で、俺が今、こんなに後悔に打ちひしがれなければいけないのか?」

 ということであった。

 後悔というのは、もちろん、賢者モードにならないほどの思いからであるが、それを思うと、賢者モードというのも悪いことではないと思えてきた。

「賢者モードって、ある意味、スッキリした証拠ではないか?」

 と感じ、

「これこそが、快感の余韻であり、そのおかげで、自己嫌悪に陥らずに済むのかも知れない」

 と感じた。

 賢者モードに陥ると、罪悪感のようなものが残るのだが、それは自己嫌悪とは違う。だから、次第に身体の余韻という安心感が、罪悪感を優しく包み込んで、次第に消えていくものだった。

 しかし、自己嫌悪の場合は、自分に対しての嫌悪なので、そこには、堂々巡りが待っていた。

 自分を戒める気持ちになるのだが、ふと我に返ると、

「何で俺、自分を責めてるんだ?」

 という気持ちになり、そうなると、まだ、振出しに戻ってくるのだ。

 そうなると、また、気持ちが繰り返され、同じところで、また我に返ることになるのであった。

 それが自己嫌悪であり、だから、自己嫌悪には終わりがないのだ。だから、収まったとしても、それは、なくなったわけではなく、細々とくすぶっているだけのことなのだ。

 そう思うと、

「なるべくなら、自己嫌悪に陥りたくない」

 と思うようになった。

 しかし、この自己嫌悪が、発展してくると、そこに待っているものが何であるか、後になって気づくことになる。それが、

「躁鬱症」

 というもので、どうしてそれが、自己嫌悪の延長だということに気づいたのかというと、

「堂々巡りを繰り返しているからだ」

 ということであった。

 鬱状態から躁状態、そして躁状態から鬱状態、と繰り返している。

「どっちが先だったのか?」

 ということを考えると、躁鬱状態に入っていることを途中で気づいたので、どちらが先なのか分からない。

 この発想は、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 というよりも、どちらかというと、昔漫才であった、

「地下鉄って、どっから入れたんでしょうね?」

 というネタの方がしっくりくるように感じるのは、どういう心境なのだろうか?

 やはり、

「途中で気づくということが、そういうことになるのだろう?」

 と思うのであった。

 躁鬱症の、堂々巡りを考えると、まるで信号機のようなイメージを持つのだ。特に、鬱状態の時に、世界が微妙に違って見える時、夜と昼とで、色が違うのを感じるのだ。

 昼間では、信号機の青は緑に、赤は、橙が混ざったかのように見えるのだが、夜になると、元々の原色がさらに鮮やかに感じられ、昼間のけだるさを、夜の爽快さが補ってくれるのが、鬱状態の時であった。

 そのために、信号機を思い浮かべるのだが、実際には違っているような気がしたのだが、その理屈が最初は分からなかった。

 しかし、分かってみると当たり前のことなのだが、

「よく分かったよな」

 と自分でも関心するほどだったのだ。

 信号機というのは、赤から青に変わる時は、黄色を通すことなく変わるが、青から赤になる時は、黄色を通す。

 それはきっと、

「赤で止まることになるから、黄色では、気を付けて進む」

 ということを示唆しているのではないか? と思っていた。

 しかしそれは大きな間違いで、本当の黄色というのは、

「止まれ」

 というのだという。

 黄色のうちで止まらなければ、赤で止まれないというのが考えのようだが、なるほど、県によっては、赤でも突っ込んでいくところも結構あったりする。

「信号が赤になったって、反対側は、まだ青になってない」

 というのが彼らの理屈であるが、それもそのはず、赤から青になった時、彼らは、すぐには発射しないのだ。

 左右をキチンと見渡している。それが、その県での、

「交通常識」

 となっていた。

 もちろん、一部の人間たちのルールなのだが、なぜか、皆が守っている。自然と身についた常識だったのだろう。

 躁鬱のサイクルは、信号とは逆である。

「鬱状態から躁状態に変わる時、まるで、トンネルから抜ける時のように、光が差してくるのが分かると、そこから先、徐々に明るくなってくる。それが、信号機の黄色の状態である。しかし、躁状態から鬱に変わる時というのは、一気に奈落の底に叩い落される感覚であった」

 というものである。

 この発想は、

「躁状態が、青信号、鬱状態が赤信号」

 と考えてのことだが、この考えに異論がある人は、まずいないだろう。

 そう考えると、黄色信号の存在理由が、躁鬱と実際の信号機では真逆なのだ。

 奈落の底に叩き落される前に、心の準備として、黄色信号がある、信号機と、いきなり奈落の底に叩き落す躁鬱症では、まずそこが違っている。

 さらに、青になる瞬間に、いきなりの発射を容認する信号と、躁状態に持っていくために、ワンクッションある躁鬱症とでは、

「それだけ、躁鬱症というのは、精神においての葛藤を描いているのかということを表していて、信号はただのルール漬けにおいての、シグナルでしかない」

 ということになるのだ。

 躁鬱症は、それだけ難しい精神疾患であり、ひどい人ではノイローゼのようになり、薬物依存してしまったり、それが高じて、幻影を見るようになると、自ら気づかぬうちに、命を落としているかも知れないと言えるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「躁鬱症というのは、本当はシグナルであり、何か他の問題を引き起こさないようにするための、警鐘のようなものではないか?」

 というような、飛躍した考えに至ってしまう。

 だが、決して無理な発想ではない気がする。

「躁鬱症が、堂々巡りを繰り返すというのが、負のスパイラルでない限り、ずっと現状維持をしているということで、悪くもならないが、よくもならないということになり、そう考えることが、警鐘という発想を生むのではないだろうか?」

 と、考えられるのであった。

 そんな躁鬱症であるが、

「発展形の躁鬱症が堂々巡りを繰り返しているのであれば、自己嫌悪も堂々巡りを繰り返しているのではないか?」

 と思った時、この発想が、前述の、

「負のスパイラル」

 に結びつくもので、

「グルグル回りながら落ちていく、螺旋階段のようなものが、負のスパイラルだというのであれば、まさに自己嫌悪は、負のスパイラルなのではないだろうか?」

 と考えられるのだった。

 そんなことがあってから、マサムネはフリーでは行かなくなった。気になる女の子がいれば、最初から予約を入れておく。もし、それが初めての女の子であっても、自分が選んだのだから、もし地雷だったとしても、その責任は自分にあるというものだ。

 実際に、それから地雷を踏んだこともあった。

「ああ、失敗した」

 と思う時は、パネマジだったことを認識した時だ。

 マサムネは、女性を見る時、風俗の女性に限らず、見る視点は変わらない。

「顔と雰囲気から、その女の子の性格を見抜くようにしている」

 ということで、人は、

「女性は顔ではない性格だ」

 というが、マサムネにしてみれば、

「顔を見て、その人の性格を判断しているのだから、その言葉は半分当たっているが、半分外れている」

 と言いたいのだった。

 ただ、風俗のお店ではなかなか難しい。お見合いなどのように、顔をハッキリと見れるわけではないからだ。ぼかしが入っていたり、口元や、目のラインを隠していることがほとんどだからだ。

 だが、それは当然のことである、なぜかというと、彼女たちの一番恐れているのは、

「身バレ」

 だからだ。

 中には、学生だったり、昼職と掛け持ちしている女の子もいる。親や上司にバレてしまうと、自分の立場が亡くなってしまう可能性があるからだ。昼職の中には、職務規定に、

「副業禁止」

 というものが謳われていれば、仕事が何であれ、退職理由になってしまうだろう。

 そんな状態において、女の子が身バレをしないように、

「箱型」

 と呼ばれる、店舗を持った店は、結構注意を施している。

 まず、どんなに混んでいない時でも、客は待合室に通される。

 どこにあるのか分からないが、マジックミラーなのか、小型カメラなのかが仕掛けてあり、女の子が見れるようにしているという。

 なぜそのようなことをするかというと、完全に身バレ防止である。

 女の子が、自分を指名してくれた男性を見て、知り合いではないと分かると安心してサービスができるからだ。

 ただ、これは店舗型でしか通用しない。デリヘルなどのように、ホテルに呼び出された場合は、こちらから赴くので、相手の様子を見ることはできない。

 デリヘルのような場合は、さらに恐ろしいことになる可能性もある。

 店舗型であれば、お部屋には、ベッドの近くに、緊急ブザーがついていたりして、何かあった時、ブザーを押して、スタッフを呼ぶこともできるが、ホテルへの派遣であれば、待っているのがどんな人間か分からない。

 テレビドラマや、Vシネマなどで、よくあるのが、女の子が危険な目に遭いかけるというようなシーンだった。

 それでも、デリヘルの方がいいというのは、どういう理由なのか分からないが、深夜というのもいいのかも知れない。

 そもそも、営業時間というのは、箱型のお店と、無店舗では違っている。

 風営法では、店舗を持っている店の営業時間は、

「午前六時から、午前0時まで」

 ということになっている。

 しかし、デリヘルなどの、派遣型は、

「24時間OKなのだ」

 ちなみに、風営法が、風俗関係の一番上の法律ではあるが、それはあくまでも、基本というだけで、実質的に守らなければいけないのは、

「各都道府県などが定める自治体における条例」

 というものに掛かってくるのだ。

 つまり、風営法で定められた範囲内で、各自治体が、風俗営業の条例を作成し、それが、その自治体範囲内での、

「法律」

 となるのだ。

 だがら、それぞれの自治体で、営業時間や様々な特別がある。

 例えば、

「この地区以外で性風俗の特別営業を行ってはいけない」

 さらには、県によっては、

「わが県では、ソープランドを開業してはいけない」

 などという法律が、その自治体ごとに決まっているのだ。

 さらに、風営法の基本としてあるのが、

「新規参入は許されない」

 という問題がある。

 だから、一つの店が、拡張といって、別館を作ったり、他の県で営業していたところが、地域拡大で、この地域に新店を作るというのも許される。

 ある店が撤退して、そこに新たに他の店が入ったとしても、老朽化は別であるが、そうでなければ、大規模拡張はできない。まるで、新規開店だと思われるからだった。

 そんな風営法と、各自治体における条例によって、風俗業界は成り立っている。マサムネは、風俗に通うようになってから、自分なりに勉強した。

「女の子との話題にも使えるしな」

 という思いもあるのも事実だが、結構そういうことを知るのも、楽しいものである。

 マサムネは、デリヘルを利用したことはなかった。お店が好きなのだ。

 他の人が、

「どうしてデリヘルを使おうという気になるのか?」

 ということを考えてみた。

 漠然といくつか考えてみたものに、

「店に赴いて、スタッフや、待合室で他の客と顔を合わさないでいいからだ」

 という理由、もう一つは、待合室で待たされる間、待っている時間が嫌だという場合、ホテルでも待つことになるのだが、自分の部屋と同じ感覚で、テレビなど、好きなチャンネルを見ていればいいからではないか?

 と感じたからだった。

 他にもいろいろあるのだろうが、もし、これだけであれば、

「お店に行く方がいいかな?」

 と感じるのだった。

 確かにスタッフや、待合室で他の客を顔を合わせるのが嫌な人は仕方がないが、そうでもないと思っている客は、店に来る方が気が楽ではないだろうか?

 何しろ、デリヘルというのは歴史が浅い。年齢を重ねた人は、店に行って、待合室で待つのが当たり前だと思っている人の中には、その時のドキドキ感を新鮮に感じている人もいるだろう。

 待たされたとしても、実際に対面した時の喜びで、待っていた時間も、気持ちを高ぶらせるという意味で、一つの楽しみではないだろうか?

 しかも、あの待合室の雰囲気がいいのである。ホテルで待っているといっても、セコい話をするようだが、ホテル代だって、こちらもち、それを思うと、

「デリヘルの何がいいのだろう?」

 と考えてしまうのだった。

 実際に、店舗型の店に行って、番号札を貰って待っている時間というのは、若い頃はあまり好きではなかった。どうしても、欲望が先に来るので、待っている時間が忌々しく感じられるからだったが、それも、時代の流れや、年齢を重ねることで、少しずつ変わっていった。

 以前は、まだまだ風俗というと、

「性欲を発散させるためのところ」

 というイメージが強かった。

 本当に昔は、今のように、プレイ時間が何段階もあったりしたわけではなく、すべてが、

「30分、7000円」

 などという決まった時間の、同一時間だったりした。

 つまり、部屋に入ってから、シャワーを浴びて、サービスを受けて、最期にまたシャワーを浴びて服を着るという決まった流れしかなかった。だから、女の子も、多様性を必要としないし、店側とすれば、

「来店してくれた客に対して、サービスすればいい」

 というだけである。

 割引券なども貰えたが、

「さすがに風俗の店と分かるようなあからさまなものではなく、まるで、居酒屋の割引券のような形のものを貰ったものだ」

 というのが懐かしい。

 そう、当時は特殊風俗のお店というと、確かに、風営法に守られて、市民権のある仕事であったが、世間一般の目から見ると、偏見に満ちていたのだ。

 しかし、それが時代とともに変わってくるのだからすごいものだ。

 以前は、客寄せどころか、店が風俗のお店だということが分かりにくいように、飲み屋街の奥の方に、隠れるように固まってあったものだ、

 それこそ客は、

「会社の先輩から聞いてきた」

 というような、口伝による。

「口コミ」

 でしか、客が増えるということはなかった。

 ただ、最初から風俗に行きたい人は、どういうところにいけば、風俗の店があるのかということを分かっているので、きっと探そうとするだろう。

 探している人にはすぐにわかるというもので、だからこそ、細々とやっていても、商売が続けられるのだった。

 ただ、昔は、少し危ない店もあった。

「〇円ポッキリ」

 などという呼び込みに騙されて入ってみると、ビール一杯飲んだだけで、数万円、いわゆる、

「おさわり」

 など、一切なしでである。

 それこそ、

「ぼったくり」

 と言われる店であり、今ではそういう店はほとんど見なくなった。

 店の前で呼び込みをしたりするのも、禁止のところが多かったりする。それだけ、特殊風俗の店というのも、以前とは様変わりしたということだろう。

 特に大きいのは、料金的な幅ができたからだろうか?

「高級店、大衆店、格安店」

 などと料金体系によって、サービスも違うというものだ。

 これは、ある意味、パチスロをする人間にも気持ちは分かるかも知れない。

 以前は、

「四パチ」、

「二十スロ」

 と呼ばれるもの。

 つまり、パチンコの玉が、1玉4円。スロットのコインが、1枚20円で買うことになる。

 だから、1000円であれば、250玉か、あるいは、50枚のコインかということになるだろう。

 パチンコなどの場合は、スターターと呼ばれるところに球が入らないと、大当たり抽選が行われない。だから、

「1000円で何回転するか?」

 というのが、目安だった。

 しかし、スロットは、

「コインを3枚入れさえすれば、1回抽選を必ず行ってくれる」

 というわけだ。

 だから、問題は、

「どれだけ早く設定推測ができるか」

 ということで、朝一など、どのような演出が出れば、高設定が期待されると考える。

 スロットというのは、6段階の設定があり、基本的に、設定の数が大きいほど、大当たりする可能性が高いと言われる。あくまでも確率としての問題だが、スロットをする人は、まずその設定推測を楽しむためにやっていると言ってもいいだろう。

 そんな中で、スロットであれば、機種にもよるが、2,30ゲームくらいで、少し分かるものもあれば、100ゲームまで回さないと分からないものもある。1000円ということは、途中リプレイなどがあったとしても、20ゲームくらいしか回せないだろう。だとすると、5000円くらいまでやらないと、設定推測すらできないということになる。

 しかし、これが、5スロつまりは、1000円で200枚出ればどうだろう? 100ゲームくらいは、1000円とちょっとくらいで、回せるのではないか? もちろん、大当たりがまるでお祭り騒ぎのように続いても、換金すれば、微々たるものなので、面白みはないかも知れないが、あくまでも、ゲームを楽しむという意味でするのであれば、5スロで十分ではないかといえる。

 パチンコでも、

「1パチ」

 というのがあり、同じ意味で設けられたものだ。

 客が自分に合った遊び方ができるという意味で、バリエーションが広がったのはいいことである。

 ただ、今ギャンブル業界は、いろいろな意味で、大変である。このギャンブル業界も、風営法によって管理されているいわゆる「風俗業」といってもいいのかも知れない。

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